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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
30/105

伊藤博文の最後


ここで少し伊藤博文の暗殺について、話しておこうと思う。

皇室典範増補が作られたのは1907年2月11日で、

伊藤博文が暗殺されたのがその2年8ヶ月後の1909年10月26日。

そして「皇族の臣籍降下準則」が制定されたのが1920年2月11日だ。

皇室典範増補では、臣籍降下が復活するということで、

伏見宮系宮家皇族の執拗な反対工作があったにも拘らず、なんとか皇室典範に臣籍降下の項を導入することが出来た。

しかし、全く強制力を持たず、臣籍降下を進めるには、力不足であった。

ゆえに更なる改正が必要であり、強制力を付記すべく、伊藤博文が豪腕を振るっていた最中、

まさにその最中に、伊藤博文は殺されてしまう。

伊藤博文はハルピン駅ホームで、わずか4メートル先でしゃがんでいた安重根に正面から撃たれた。

このハルピン訪問は、後藤新平によって調整された外遊であり、後藤新平は満鉄運営に関して伊藤博文と敵対していた。

更に当時巨額の予算を差配出来る鉄道院の初代総裁であった。

この満州朝鮮問題を話し合うため調整された日露ハルピン会談は、

結果的に計4回の日露協定を結ぶ事になるが、

伊藤ーココツェフ・ハルピン会談は第二回協定が結ばれる8ヶ月前の出来事であった。

ロシアとは計4回に渡って日露協約という形で表と裏で協定を結んでおり、

第一回日露協商調印、1907年(明治40年)7月30日調印。

公開協定では日露間及び両国と清の間に結ばれた条約を尊重することと、

清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げた。

秘密協定では日本の南満洲、ロシアの北満洲での利益範囲を協定した。

また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。

当時は欧米による満州権益への開放圧力が強く、

日本はロシアとは共存の関係を築けていた。

第2回日露協商

1910年(明治43年)7月4日調印。

アメリカの南満洲鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、

両国の満洲権益の確保を確認した。

ロシア財務大臣ココツェフと会談する予定であった伊藤博文のハルピン訪問は、

日露協約の第一回と第二回の間で行われたもにだったわけで、

主な議題は満鉄と平行して清国が欧米資本で建設しようとしていた新鉄道問題だ。

当時、米英が建設予定であった錦州と璦琿(愛琿)を結ぶ路線、

いわゆる錦愛鉄道計画は満鉄にとって、どれだけ脅威であったかという情勢が、

今の我々にはよくわかっていない。

当時は鉄道とは植民地政策における最重要政策であり、莫大な予算がついた。

伊藤暗殺において、一緒に撃たれてしまった国会議員に室田義文という男がいる。

室田は伊藤博文に随伴した貴族院議員だ。

室田義文は、ハルビン駅で流れ弾を5発も受けた。

彼は早くから、安重根以外にも複数の狙撃犯がいたと主張してやまなかった。

しかし、ソビエトとの外交問題に発展することを気にする山本権兵衛内閣から、

安重根以外の真犯人説にストップがかかり、主張を控えてしまった。

しかし、私は、この山本総理の決定に、大きな疑問を持つ。

いくら外交問題に発展するとはいえ、

伊藤博文という大政治家の暗殺の真相究明に、蓋をするものだろうか?




もしかして日本国内に、真相究明に反対する勢力がいたのではないだろうか。

当時、伊藤博文には、幾つもの彼の命を狙う敵対勢力があった。

1つ目の敵は、朝鮮併合問題で初代朝鮮総督である伊藤博文を憎悪する朝鮮民族派勢力である。

結局、日本政府は朝鮮人民族派リーダー安重根を真犯人とする事で、

伊藤暗殺を朝鮮併合に反対していた朝鮮民族勢力の仕業として片付けた。

2つ目の敵は、逆に伊藤博文が朝鮮併合に反対しているという事実を掴んでいた勢力による、

伊藤博文排除勢力。

伊藤博文は朝鮮併合に反対していたゆえ、

半島利権を狙って朝鮮併合を推し進めたい勢力は伊藤博文を排除したがっていた事実がある。

このグループは、単純に半島に利権を持ち、満州への権益拡大を目論んでいた。

具体的には振興財閥とそれに連なる軍部で、当時、朝鮮半島で大規模電力事業を展開して幾つかのダムを既に完成させていた日窒コンツェルンは軍部と太いパイプがあった。

3つ目は、伊藤博文と満鉄経営において対立していたグループ。

小満鉄主義を主張し続ける伊藤博文は、

満鉄を中心に満州への重工業投資を目論んでいた勢力にとって大きな障害であった。

したがって、伊藤博文を排除したがっていた満鉄中心主義勢力は、

具体的には既に巨大利権を得ていた死の商人と言われた大倉コンツェルン、

および初期の満鉄事業を支えた炭鉱資本は、

伊藤博文が邪魔でしょうがなかった。

満鉄は遼寧の撫順に、当時としては世界最大規模の炭田を所有していた。

無尽蔵といわれる埋蔵量が確認されており、

満鉄鉄道は撫順炭田のための鉄道であるとまでいわれた。

満鉄の設立委員には、三井、三菱、住友、といった財閥、

渋沢栄一、高橋是清、藤田伝三郎、安田善次郎、といった財界人、

そして貝塚太助、麻生太吉、安川敬一郎、という筑豊御三家、

それのバックにいたのが児島源太郎、後藤新平ら軍部であった。

そして、最後の4つ目の敵が、ここで主題となっている宮家皇族である。

この4勢力はいずれも伊藤博文には消えてもらいたかっている勢力だ。

真犯人が安重根であれば、

第2、第3、第4の陰謀は消えるが、しかし、伊藤暗殺の現場検証では、

安重根の弾は伊藤博文には当たっていない事がほぼ証明されている。

伊藤博文暗殺30年後に書かれた「室田義文翁譚」では、

安重根は伊藤博文の正面4mから、しゃがんだ姿勢で撃ったと書かれている。

しかし、伊藤博文に当たった銃弾は、斜め上からのものであった。

医師の診断書では、銃創は右肩から2発、肩から足に向かっていた。

まずここが安倍晋三が奈良西大寺駅前で撃たれたケースと、非常に似ている点である。

伊藤博文銃撃現場の斜め上、そこはハルビン駅2階の食堂があった。

恐らく伊藤に致命傷を与えた狙撃犯人はそこから狙ったのであろう。

現場では合計13発もの銃弾が確認されているが、

それがわずか30~40秒の間に打たれていた。

どう考えても、安重根一人の仕業ではない。

複数の狙撃主による同時射撃で伊藤博文は殺されたのだ。

伊藤から摘出された弾丸は、当時フランス騎兵が使っていたカービン銃のものであった。

安重根が使った銃はブローニング7連発、

ブローニングからカービン銃の弾丸は撃てない。

安重根の弾丸は当たっていない。

つまり安重根は犯人に仕立てあげられたダミーである。

誰かが安重根を犯人に仕立てた。

その黒幕は誰か、右翼か軍部か資本家か?

動機は朝鮮併合か、満鉄利権か、皇族数の確保か?

確かに朝鮮併合と満鉄問題が突出したとうじのしゃかいもんだいだろう、しかし、日本の皇室、伏見宮にとって伊藤博文はとても大きな敵対勢力だったことも忘れてはならない。

それでは伊藤博文が軍部と徹底的に対立していた南満州鉄道における運営方針について、

深く掘り下げてみよう。

満州では石炭や鉄鉱石が大量に取れる。

ゆえに満州で重工業産業に投資したい大資本がゴマンいた。

しかし、国際社会では日本による満州権益の独占が非難されていた。

また、伊藤博文は日本単独での満鉄経営はコスト的に無理だと思っていた。

そこに米国の鉄道王ハリマンが資本参加を申し出てきた。

伊藤は飛び付いた。

しかしながら、多大な戦死者をだした末に手に入れた鉄道を米国紙本と共同経営するのに

軍部は当然反対であった。




1905年に締結されたポーツマス条約によって、

ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道南満州支線。

これを経営する目的で1906年に設立された特殊会社が、

南満洲鉄道株式会社である。

南満州鉄道株式会社は大蔵大臣が50%の株式を所有する半官半民の国策会社であり、

南満州において鉄道運輸業を営み、

日本の満洲経略における重要拠点となった。

略称「満鉄」

本社、関東州大連市東公園30(現中華人民共和国遼寧省大連市)

設立1906年11月26日である。

総延長約1,100キロメートルとそれを含む鉄道事業、

および撫順炭鉱および煙台炭鉱も併せて経営。

つまり簡単にいうと、

満鉄経営は後藤新平の発案、児玉源太郎設計の、

東インド会社をモデルにした植民地経営の国策会社なのである。

日露戦争中、児玉源太郎が献策した「満洲経営梗概」にこうある。

「戦後満洲経営唯一の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」

1907年4月、満鉄調査部が後藤新平によって作られた。

満鉄調査部は当時日本最大級のシンクタンクで日本最高級の頭脳が集まっていた。

スタッフは100名前後、

経済調査、旧慣調査、以外にロシア調査のような国の外交部門のようなこともやっていた。

満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道附属地という。

鉄道から両脇幅62メートルの治外法権地域と、

駅ごとに設けられた一定面積の附属地があった。

行政権も与えられ、いわば一種の自治区だった。

駅に附属する土地の広さは駅によって異なり、

治外法権の特権を持ち、それを管轄するのが満鉄地方部であった。

伊藤博文、井上馨らの元老や第1次桂内閣の首相桂太郎は、

戦争のために資金を使いつくした日本に、

莫大な経費を要する南満州鉄道を経営していく力があるとは思っていなかった。

そんな中、アメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンから、

南満州鉄道の共同経営の申し出を受けた。

南満洲鉄道の共同運営。

ハリマンは、桂首相や日本の政財界の大物たちと面会した際、

日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道にアメリカ資本を導入すべきだと主張した。

アメリカが満洲で発言権を持てば、

仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた。

1905年9月12日、彼は日本政府に対し1億円の資金提供と引きかえに、

韓国の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した。




日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、

所有権については日米対等とはするものの、

日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり、

満鉄を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようという提案であった。

この提案を、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、桂太郎、は承認した。

ハリマン提案が好意的に受け止められた理由は

「満州鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」

という意見が大蔵省官僚・日銀幹部に大きかったためである。

そして「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」

という井上馨の危惧もあった。

桂はハリマン帰米直前の1905年10月12日、

仮契約のかたちで桂・ハリマン協定の予備協定覚書を結んで、

本契約は小村が帰国したのち、彼の了解を得てからのこととした。

しかし、ポーツマス会議より帰国した小村寿太郎は、ハリマン提案に断固反対した。

陸軍参謀総長の児玉源太郎は、

「兵力の運用上の便利を謀り、陰に戦争の準備を行う」とともに、

「鉄道経営の中に種々なる手段を講ずる」という、

積極的満洲経営論を唱えた。

これに対して伊藤博文は

「満州は日本の植民地にあらず、清の領土である」と正面から反対した。

伊藤博文は関東州租借地の清国への返還と、

軍政の早期廃止方針を唱え軍政廃止を決定した。

「満洲問題協議会」では、

児玉源太郎と伊藤博文・井上馨とのあいだで大きく見解が相違した。

児玉源太郎は満洲経営機関を中央に設置すべきことを主張したが、

伊藤博文はそれに対し、満洲はまぎれもなき清国領土であり、

そこに「植民地経営」の展開する余地はないとの反対論を唱えた。

また、伊藤博文が韓国への日本人の入植に、ほとんど無関心だったのに対し、

児玉源太郎は平壌以北への日本人の入植事業を検討していた。

伊藤博文や井上馨は、日米合弁の「満韓鉄道株式会社」を設立して、

韓国における鉄道経営を事実上アメリカ側に譲渡しようとしており、

南満洲鉄道会社の設立にあたっても満鉄は文字通りの鉄道経営に限定すべきとの見解に立脚していた。

これを「小満鉄主義」という。

これに対して、児玉源太郎、後藤新平は、

満鉄はたんなる鉄道会社ではなく、

満鉄付属地での徴税権や行政権をも担う一大植民会社たるべきだとの見解を標榜しており、

東インド会社を範とした満洲経営を進めるべきだとの論に立っていた。

これを「満鉄中心主義」といった。

伊藤博文が暗殺されたのは、まさにそんな議論の最中であった。




以上、簡単に満鉄について述べたが、だからといって

伊藤博文暗殺の動機を、満鉄における経営方針と限定するのは大変危険である。

やはり伊藤博文暗殺といえば、朝鮮併合問題を上げないわけにはいかないだろう。

この時期、伊藤博文は朝鮮併合におけるもっとも大きな障害になっていたのも事実である。

内田良平という男がいる。

1874年、明治7年に生まれである彼は、右翼団体「黒龍会」の創設者で、

伊藤博文暗殺を調べるには避けて通れない人物である。

内田良平は現在の福岡県福岡市大円寺町(現・唐人町)に生まれた。

1892年、18歳のとき、頭山満の玄洋社の三傑といわれた叔父の平岡浩太郎に従い上京し、

講道館に入門し柔道を学ぶ。

明治26年(1893年)東洋語学校に入学しロシア語を学ぶ。

明治30年(1897年)シベリア横断旅行を試みる。

明治31年(1898年)宮崎滔天を通じて孫文と知り合い、親交を結ぶ。

明治33年(1900年)中国・広州に赴き、孫文・李鴻章提携を斡旋、革命義勇軍を組織して孫文を援助。

明治34年(1901年)黒龍会を結成し、ロシア事情を紹介。

明治36年(1903年)対露同志会を結成し、日露開戦を強く主張。

明治38年(1905年)宮崎・末永節らとともに孫文・黄興の提携による中国革命同盟会の成立に関係する。

この頃、フィリピン独立運動指導者のエミリオ・アギナルド、

インド独立運動指導者のラス・ビハリ・ボースの活動を支援する。

明治39年(1906年)に韓国統監府嘱託となり、初代朝鮮統監の伊藤博文に随行して渡韓。

明治40年(1907年)には、「一進会」会長の李容九と日韓の合邦運動を盟約し、その顧問となった。

明治42年(1909年)内田などが李容九とともに「一進会会長李容九および百万会員」の名で「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を、韓国皇帝純宗、曾禰荒助韓国統監、首相、李完用に提出した。

李容九はこの声明書の中で

「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。

また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。

韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。

今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。

我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

と述べている。

李容九は「韓日合邦」の目的をアジアの平和維持と韓国の発展としているが、

のちに内田と李容九の合邦論は、合邦反対派から、

日本政府の日韓併合をカムフラージュしたとされ、

李容九は「売国奴」と呼ばれた。

内田良平は日韓併合後の政府の対韓政策には批判的であった。

韓国の独立を主張している。

韓国駐箚軍というものがある。

日露戦争を機に大日本帝国陸軍が置いた軍である。

明治43年(1910年)の韓国併合に伴い「朝鮮駐箚軍」に名称変更、

大正7年(1918年)に「朝鮮軍」となった。

陸軍資料「魚潭少将回顧録」によれば、

「一進会」は帝国陸軍「韓国駐剳軍」と「統監府」の対立の中で、

「韓国駐剳軍」が「伊藤博文」を攻撃するために設立させたものであると述べられている。

そして、その一進会は、内田良平を通じて統監側に近づいたとしている。

ここで、どうやら内田と伊藤博文の間に亀裂が生じた。

すなわち内田良平、一進会、黒龍会、玄洋社、それを率いる頭山満は日韓合邦を目指し、

伊藤博文との間に確執が生じたということである。

日韓併合と日韓合邦、この違いがどれ程のものかよくわからないが、

もし、伊藤博文暗殺に一進会が関与していたとすれば、そのバックにいたのは内田良平だろう。


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