「大正9年準則」と「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と 永世皇族制の確立」
1913年7月5日、有栖川宮威仁親王が継嗣なく薨去し、
これにより直宮の高松宮宣仁親王を除く宮号を有する皇族は、
全て伏見宮邦家親王の子孫となった。
1907年2月11日、皇室典範増補制定後、
十数年経過しても勅旨により皇族を臣籍降下させた例はなく、
臣籍降下を実施するためには運用準則が必要と考えられた。
そのため1916年に宮内省に設置されていた帝室制度審議会で
1919年に「皇族処分内規案」の検討が開始された。
委員の「伊東巳代治」「平沼騏一郎」「岡野敬次郎」は
「現在の宮家を世数を限りて臣籍に降下すべきという意見」
であったのに対し、
宮内省はそれでは強い反発が予想され、
到底施行することができないという意見であり、
帝室制度審議会委員の平沼と岡野、宮内省帝室会計審査局長官の倉富勇三郎が
それぞれ起草に当たった。
倉富の当初案は、
宮号を有する王とその長子孫を除く王を臣籍降下させるというものであったが、
「現在の宮家は皇室と血縁遠きにかかわらず、之を存し置きて、将来は比較的血縁の近き方を臣籍に下すは不均衡なり」と伊東等から批判され、採用されなかった。
1920年に至り、伊東らと宮内省との調整の結果、
①皇玄孫の長子孫の系統四世まで、つまり天皇から五世以下八世までは各世に一人皇族にとどまることができるが、それ以外の王は、成人後情願をなさない場合には勅旨により家名を賜って華族に列する、
②崇光天皇から十四世の伏見宮邦家親王の子孫である宣下親王及び宮号を有する王については、
皇玄孫からの世数は邦家親王の王子を一世として計算する、という
四世の皇玄孫と十四世の邦家親王を同一とみなす内容となった。
この内規案は1920年に枢密院に諮詢され、
修正を経て「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」として全会一致で可決し、
皇族会議にかけられた。
しかし、久邇宮邦彦王から「準則の通りにては皇統の断ずる懸念あり」との反対があり、
皇族の中にはこれに賛同する意見もあり、
同年 5 月 15 日に開かれた皇族会議で議員各自の利害に関係するために表決しないことに決し、
同年 5 月 19 日、天皇の裁定により成立した。
この後、宮家の継嗣以外の王は、
附則で本内規の適用を除外された
伏見宮貞愛親王の嫡子「邦芳王」及び
久邇宮邦彦王の弟「多嘉王」を除き、
成人後、情願により家名を賜って華族に列した。
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※旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と
永世皇族制の確立
国立国会図書館 調査及び立法考査局
専門調査員 総合調査室主任 山田 敏之
目 次
はじめに
≪Ⅰ 男系男子による皇位継承制の確立≫
1 「旧皇室典範制定前における女子の皇位継承」
2 「旧皇室典範の制定過程における議論」
≪Ⅱ 永世皇族制の確立≫
1 「親王宣下と世襲親王家の歴史」
2「旧皇室典範の制定過程における議論」
≪Ⅲ 女性皇族の皇族以外の者との婚姻後の身分≫
1 「旧皇室典範制定前の制度」
2 「旧皇室典範の制定過程における議論」
おわりに
要 旨
① 「現行皇室典範」(現行典範)において「皇位継承資格者」の要件は、
a 皇統に属すること、
b 男系であること、
c 嫡系嫡出であること、
d 男子であること、
e 皇族であること、である。
このうち嫡系嫡出であることは、現行典範により新たに追加されたものである。
② 旧皇室典範(旧典範)制定前の制度では、
d 男子であることの要件はなく、女子にも皇位継承資格があり、古代に 8 代 6 人、近世に 2 人の女性天皇が在位した。古代の女性天皇の即位の事情については、古代史研究者によって様々な推論がなされている。
近世の女性天皇はいずれも皇子に譲位することを前提にして践祚した。
③ 旧典範の制定過程では、男系男子が絶えた場合には女子に継承資格を認めるという案も出された。
しかし、我が国の過去の女性天皇は中継ぎ君主であり欧州諸国の女王とは異なり、
欧州諸国のように女子が継承し、
その女系の子が位につくと姓が変わるという理由で「女系・女子」の継承資格を否認し、
男系男子による皇位継承制度が確立した。
④ 旧典範制定前の制度では、
e 皇族であることの要件について、
皇親(旧典範以降の皇族に当たる)の範囲は大宝令により皇玄孫(四世)までとされた。
しかし、平安時代初期には、皇親の賜姓降下が盛んに行われ、
鎌倉時代末期には天皇又は上皇の猶子又は養子となることを要件に、
実系による世数にかかわらず当主・継嗣が代々宣下を受けて親王となる世襲親王家が興るなどして、
皇親の制度はその実を失った。
⑤ 旧典範では、世襲親王という親王の家格は皇位継承法と両立できないとして、
世襲親王家の制度は廃止された。
その一方で賜姓降下を可能とすべきという意見も根強かった
が、将来の皇位継承資格者の安定的確保のため、
皇族の範囲を世数により限定しない永世皇族制が採用された。
しかし、その後明治 40(1907)年に皇室典範増補で皇族の賜姓降下を可能とする制度が創設され、
大正 9(1920)年の皇族ノ降下ニ関スル施行準則により九世以下等の降下が規定された。
⑥ 皇族以外の者と婚姻した女性皇族の身分について、
旧典範制定前の制度の下では皇族としての身位を維持していた。
旧典範の制定の際には、婚姻後も称号を有し、
皇族としての待遇を受けるべきであるという意見もあったが、
夫の身分に従い臣籍に列し、特旨によって称号を有する場合があるとする規定となった。
【はじめに】
現行皇室典範(昭和 22 年法律第 3 号)による皇位継承資格の要件は、
①皇統に属すること(1)、
②男系であること、
③嫡系嫡出であること、
④男子であること、
⑤皇族であること、である。
このうち、
③の要件は現行皇室典範において新たに付け加えられたもので、他の要件は、
旧皇室典範(明治 22 年 2 月 11 日)による要件を引き継いだものである。
④の要件は、旧皇室典範により確立したもので、旧皇室典範制定前には女子にも継承資格があり、
10 代 8 人の女性天皇が在位した。旧皇室典範の制定過程においては、女系・女子の継承
資格について議論がなされ、男系男子による皇位継承制が確立した。
⑤の要件については、大宝元(701)年の大宝令で皇親(旧皇室典範以降の皇族に当たる)の範囲は、
天皇の四世までの子孫(皇子女、皇孫、皇曽孫、皇玄孫)と定められた。
しかし、平安時代初期から一世の皇子女の賜姓降下が行われ、
鎌倉時代末期から天皇又は上皇の猶子(2)又は養子となることを要件にして、
実系の世数にかかわらず当主及び継嗣が代々宣下を受けて親王となる世襲親王家が興るなどして、
皇親制度はその実を失った(3)。
旧皇室典範においては、世襲親王家の制度は廃止されたが、
皇族の範囲を世数により限定しない永世皇族制が採用され、その後、
皇室典範増補(明治 40 年 2 月 11 日)で皇族が皇籍を離脱する賜姓降下の制度が設けられた。
この皇籍離脱の制度を伴う永世皇族制は、現行皇室典範に引き継がれた。
本稿は皇位継承制度の背景となっている考え方や歴史的事実の理解のために、
旧皇室典範で確立した上記の男系男子による皇位継承制、
及び賜姓降下の制度を伴う永世皇族制の成立過程における議論を明らかにしようとするものである。
上記のような制度の歴史に鑑みて、
まず旧皇室典範制定過程における議論を理解する上で前提となる旧皇室典範制定前の制度の下における
女性天皇の皇位継承事情等及び世襲親王家の歴史をそれぞれ概観し、
その上で旧皇室典範の制定過程においてどのような議論を経て男系男子による皇位継承制と賜姓降下の制度を伴う永世皇族制が成立したかを見ていくことにする。
また、女性皇族が皇族以外と婚姻した場合に皇籍を離脱する制度は、旧皇室典範により確立し、
現行皇室典範に引き継がれた。
補論として女性皇族が皇族以外と婚姻した場合の身分に関する旧皇室典範制定前の制度、
及び旧皇室典範制定過程における議論についても明らかにする。
【 男系男子による皇位継承制の確立 】
❶ 『旧皇室典範制定前における女子の皇位継承』
(1)古代と近世における女性天皇
旧皇室典範制定前には女子にも皇位継承資格があり、古代 6 世紀末から 8 世紀後半までには、
「推古天皇」(すいこてんのう)(在位 592-628)、
「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)(在位 642-645)・
重祚「斉明天皇」(さいめいてんのう)(在位 655-661)、
「持統天皇」(じとうてんのう)(在位 690-697)、
「元明天皇」(げんめいてんのう)(在位 707-715)、
「元正天皇」(げんしょうてんのう)(在位 715-724)、
「孝謙天皇」(こうけんてんのう)(在位 749-758)・
重祚「称徳天皇」(しょうとくてんのう)(在位 764-770)
という 8 代 6 人の女性天皇が在位した。
「推古天皇」即位の 592 年から「称徳天皇」崩御の 770 年までの間にあっては、
170 年余の間にほぼ 1 代おきに 16 代中 8 代が女性天皇であった(図 1 参照)。
その後、約 860 年間女性天皇が皇位に即くことはなかったが、
江戸時代に「明正天皇」(めいしょうてんのう)(在位 1629-1643)、
「後桜町天皇」(ごさくらまちてんのう)(在位 1762-1770)の 2 人の女性天皇が践祚した。
「推古天皇」(すいこてんのう)
「皇極天皇・斉明天皇」(こうぎょくてんのう・さいめいてんのう)
「持統天皇」(じとうてんのう)
は皇后(大后)(4)、
「元明天皇」(げんめいてんのう)は即位せずに早世した皇太子(5)の「草壁皇子」の妃であったが、
「元正天皇」(げんしょうてんのう)
「孝謙天皇・称徳天皇」(こうけんてんのう・しょうとくてんのう)
「明正天皇」(めいしょうてんのう)
「後桜町天皇」(ごさくらまちてんのう)
は生涯独身であった。
在位中に配偶者がいた女性天皇はいなかった。
「孝謙天皇」(こうけんてんのう)のみ即位前に皇太子になっている。
(2)古代の女性天皇の即位事情
6 世紀末から 8 世紀の間に女性天皇が即位した事情については、現在古代史研究者の間で以
下のような様々な推論がなされている。
①女性天皇は直系の皇子のために傍系の有力皇族から皇位を守る中継的存在であるとし、
「推古天皇」から「元正天皇」までの各女性天皇は直系の皇子への中継ぎとして即位し、「孝謙天皇」
「称徳天皇」は中継すべき皇子がおらず、自らが直系相続を担ったとする説(6)。
このうち「元明天皇」と「元正天皇」が、幼少であった「草壁皇子」嫡系の「首皇子」(おびとのみこ)
(聖武天皇)(在位 724-749)が成長するまで中継ぎとして即位したという説は通説となっている(7)。
②「推古天皇」は「崇峻天皇」(在位 587-592)の暗殺、
「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)は皇族層と「蘇我大臣家」(そがおおおみけ)の対立の先鋭化
「斉明天皇」は対「唐・新羅」との戦時状況という王権の危機に際し、
危機打開のために女性としてのカリスマ性を発揮することを期待されて、
かつ、国政の共治・輔政者である大后の地位にあったことから、
群臣(8)により推戴され即位したとする説(9)。
この説は、女性天皇が出現した背景には、それより前の時代のヒメ・ヒコ制(10)や聖俗二重王権(11)
からの系譜があるとする。
③「推古天皇」から「持統天皇」までの女性天皇は、
次世代の継承候補者間の紛争によって王権内部の危機が深刻化したときに、
国政に参与していた(前)大后として、
皇位継承の枠外にいて紛争の調停を行い得るいわば第三者の立場にあり、
かつ、男性天皇と異なり継承候補者となる皇子を増やすこともないため、
危機を回避・緩和することができるところから、
その人格・資質と統治能力を考慮されて群臣により推戴され、即位したとする説(12)。
④「推古天皇」から「持統天皇」までの女性天皇は、
緩やかな男子優先の傾向があるにとどまったため、
男子と変わることなく、
前天皇と同世代の候補者間での継承が尽くされてから次の世代が継承候補者となるという
「世代内継承」の原則に基づき、かつ、天皇たるにふさわしい資質と
能力を有することが確認されて、即位したという説(13)。
⑤持統天皇は、天武天皇の諸皇子との継承争いに実力で勝利し即位したとする説(14)。
などがある。
(3)大宝令継嗣令の条文への女性天皇に関する注記
天平宝字元(757)年に施行された「養老令継嗣令」には
「凡そ皇兄弟・皇子は、皆親王と為す。女帝の子も亦同じ。以外は並に諸王と為す。
親王より五世は王の名を得ると雖も、皇親の限に在らず。」(皇兄弟条)(15)
という規定があった。
「皇兄弟及び皇子を親王とし、皇孫、皇曾孫、皇玄孫を王とし、
皇玄孫の子である五世王は王を称することはできるが皇親の範囲には入らない。」という意味である。
この規定は男子と女子を区別しておらず、親王には内親王、王には女王が含まれる(16)。
皇親は旧皇室典範以降の皇族に当たる。
ポイントが小さくなっている「女帝の子も亦同じ」は、令本文に付された本註であり、
大宝令にも同じ文言の註が存在したとみなされている(17)。
大宝令が継受した中国の唐代の令にはない日本独自の規定である(18)。
「継嗣令」の別の規定(王娶親王条)で、
内親王は四世王までに嫁することができると規定されている(19)。
「女帝の子も亦同じ」の本註は、
父が四世王までであれば女帝の子は親王とする意味だと解釈されている(20)。
さらに女帝の子の子孫(つまり孫王以下)も女帝を起点として数え、皇親とすると解釈されている(21)。
これに対し、女帝の兄弟については、他の条文の女帝への適用と
同様に本則どおりで親王とされるため、あえて註記されていないと解釈されている(22)。
「大宝令」施行以降でこの規定が当てはまる事例は
「元明天皇」の「草壁皇子」との間の所生であった
「軽皇子」(文武天皇)、
「氷高内親王」(元正天皇)、
「吉備内親王」であるが(23)、
「文武天皇」は「元明天皇」の前に即位し、
両内親王も「文武天皇」即位時に皇兄弟としてすでに内親王になっていたと推定されている(24)。
(4)近世の女性天皇の践祚事情
(ⅰ)「明正天皇」(めいしょうてんのう)
寛永 6(1629)年「後水尾天皇」(在位 1611-1629)は、
皇女である女「一宮」(興子内親王)(25)への譲位を望み、
皇子誕生の際には女「一宮」から皇子に譲位するとして幕府に自身の譲位を打診させたが、
幕府の了解を得られず、
11月8日に公家たちにも秘密にして突如譲位を決行し、
6歳の「明正天皇」(めいしょうてんのう)が践祚した(26)。
その後「後水尾上皇」(ごみずおじょうこう)には、
皇子「素鵞宮」(すがのみや)(後光明天皇)(ごこうみょうてんのう)(在位 1643-1654)
が寛永 10(1633)年に誕生したが、
「明正天皇」(めいしょうてんのう)は寛永 20(1643)年まで 14 年間在位した。
「明正天皇」(めいしょうてんのう)が 15 歳になった際に朝廷では、
政務や四方拝(27)、節会(28)その他への出御を行うことを予定し、
天皇が元服した際に行われる復辟
(政を君に復するが本来の意味で、摂政を解任し、改めて関白に補任すること(29))をしようとした。
しかし、京都所司代板倉重宗は復辟の件を幕府に相談すべき事柄としながら、
将軍徳川家光の病気を理由に江戸への伝達を拒み、来春改めて話に来るように述べたため、
「後水尾上皇」の指示で復辟は延引となった。その後も復辟は行われず(30)、
「明正天皇」は政務に従事せず、四方拝は停止され、節会その他への出御を行わなかった(31)。
(ⅱ)「後桜町天皇」(ごさくらまちてんのう)
宝暦 12(1762)年に桃園天皇(在位 1747-1762)が 22 歳で崩御したとき、
第 1 皇子「英仁親王」(ひでひとしんのう)(後桃園天皇)(在位 1770-1779)は、
すでに儲君(皇太子)に定まっていたが、まだ 5 歳であった。
関白ら摂家たちは密議により
「御幼稚」を理由に「桃園天皇」の姉の「智子」(としこ)内親王(後桜町天皇)が、
「英仁親王」が 10 歳位になるまで在位することで合意し
「英仁親王」への皇位継承を望んでいた皇太后「青綺門院」(智子内親王の生母)を説得し、
その了承を得て朝廷の意向を決定し、
次いで幕府の了解を得た上で後桜町天皇が践祚した(32)。
「後桜町天皇」は践祚に当たり 23 歳の成人であったが摂政が置かれ(33)、
明和元(1764)年に大嘗祭を行ったが(34)、四方拝には御座が設けられたが出御を行わなかった(35)。
「後桜町天皇」は明和 7(1770)年に後桃園天皇に譲位した(36)。
❷『 旧皇室典範の制定過程における議論』
(1)元老院の日本国憲按
明治 8(1875)年 7 月に設立された元老院では、
翌年 9月 7日の勅語に基づき
「海外各国ノ成法ヲ斟酌シ」ての国憲按(憲法草案)の調査起草が行われた(37)。
同年の同院の第一次草案「日本国憲按」には、
欧州各国の憲法を参考に皇位継承に関する規定(第 2 章)が置かれ、
その第 2 条で同一親等では男子が女子に優先するが女子の皇位継承を認め、
第 4 条で女主の夫の政治への干渉を禁止した(38)。
これらの 2 か条はスペインの 1845 年憲法の条文と酷似するものであった(39)。
その後、明治 10(1877)年 12 月の校正案(「日本国憲按校」)では
女子への継承規定が消えたが、
明治 13(1880)年 7 月の「国憲按」では、
男系男子の継承を原則とするが
「若シ止ムコトヲ得サルトキハ女統入テ嗣クコトヲ得」(40)
という規定が盛り込まれた。
この「国憲按」は元老院において、
全院会議に付託せずに各議官からの意見書を添えて上奏されることに決したが(41)、
女統云々(うんぬん)の規定については、
その意見書で「河田景與」議官が
「皇女とその配偶者から生まれる女系の子・孫は異姓であり、
異姓の子が皇位継承した場合には万系一世の皇統とはいうことができない」
として修正を求め、
「佐々木高行」副議長らも削除を求めた(42)。
同年 12 月に「国憲按」は「大木喬任」議長から上奏されたが、
各国憲法を集めて焼き直したものにすぎず、
我が国の国体や人情にいささかも注意を払ったものでないとして、
右大臣「岩倉具視」や参議「伊藤博文」が反対し、不採用となった(43)。
(2)自由民権家の議論
(ⅰ)私擬憲法の皇位継承規定
立憲制樹立を求める自由民権運動の高まりの中で、
明治 14(1881)年前後に民間の個人・団体によるいわゆる私擬憲法が多数発表された。
これらの私擬憲法にも皇位継承規定が置かれた。
女系・女子の継承を認めるか否かという観点から類別すると、
①男系男子のみの継承を認めるもの(44)、
②直系・傍系に男子がいないときに女子の継承を認めるもの(45)、
③天皇に皇子がいないとき皇女の継承を認めるが、女系継承を認めないもの(46)、
④③で女系継承を認めるもの(47)、
⑤男子のみに継承を認め、同系では女系より男系を優先するもの(48)、
に分けられる。
②~④の憲法案では、
女性天皇の配偶者が国政に関与することができない旨の規定が置かれているものが多い。
(ⅱ)「嚶鳴社」(おうめいしゃ)の討論会
私擬憲法がこれらの規定を採用した根拠となる考え方は、
明治 10 年代に東京で活動した政治結社嚶鳴社(49)が行った
「女帝ヲ立ルノ可否」と題する社員による公開討論会の内容から推測することができる。
この討論会は、憲法を制定する際に女帝(女性天皇)を立てる規定を置くべきかをめぐり、
賛成、反対の論者の間で行われ、
その結果は『東京横浜毎日新聞』に明治 15(1882)年 3 月から連載された(50)。
討論は反対論者の「島田三郎」の発論で始まっている。
島田は賛成論者の論拠を、
第一に女帝は我が国の慣習であること、
第二に欧州諸国では 19 世紀に男女平等が進み、
憲法で男女等しく王位を継承することを認める気運があることだ、
と決めつけた上で、
これらに対し以下の反対論を展開した。
①我が国の女帝は今日の欧州各国の女帝とは性質を異にする。
すなわち、明正天皇を例外として(51)、
即位後直ちに男子たる皇太子を立て皇太子に皇位を継承すべく、
その成長など時を俟(まつために即位したもので摂位(52)に類するものである。また、女帝が配偶者なく独身でいたことは天理人情に反し、今日では行うことはできない。
②欧州諸国の制度のように女帝が婚姻するとした場合、女帝の配偶者、皇婿となる適当な人がいない。
我が国の言語風俗・人情から考えて欧州各国のように外国の王族を皇婿として迎えることができず、
かといって臣民では至尊の尊厳を損する。
③我が国の現状では男尊女卑のため皇婿を立てると、
国民は最高の尊位である女帝の上に一つの尊位を占める人があるように思い、
女帝の威徳を損する。
また、皇婿が暗々裏に女帝を動かして政事に間接に干渉する弊がある。
これに対し賛成論者は、女帝は四親等以上の皇族と婚姻可能であり、
国会が承認すれば外国王室との婚姻を妨げるものはない、
皇婿の政事への干渉は憲法に干渉を許さない旨の条文を設ければよく、
規定を設けても干渉がある場合は、もはや皇婿の問題ではなく、憲法の実効性の問題である、
などと、②、③の論点を中心に逐一反論をし、さらに反対論者が再反論を行っている。
討論はこのように皇婿をめぐる問題点を中心に展開されているが、
このほかに反対論者の「沼間守一」は
「女帝を立てないがために皇統が絶えたらどうするのかという論者に対しては、直ち
に二千五百年皇統が絶えることなく、今後もあるはずがないと答えるだろう」
とする一方で、
「女帝が配偶者を持たれて、皇太子がお生まれになったとしても、
天下の人心は皇統一系・万邦無比の皇太子と見奉らないのではないか」と論じた。
これに対し賛成論者の「肥塚龍」は
「男統の皇族がすでに絶えて女統の皇族のみ遺ったときに女帝を立てない憲法であるがために皇統外に人を求めて天子とするのかと問えば、論者は恐らく答えることができないだろう」
と論じている(53)。
(3)制度取調局の調査を基にした「皇室制規」草案
明治 17(1884)年 3 月、
欧州における憲法取調から帰国した参議「伊藤博文」の上奏に基づき、
宮中に制度取調局が設置され、伊藤がその長官を兼任した。
同局の調査を基に明治 18(1885)年末から明治 19(1886)年初頭にかけて
皇室制度法草案である「皇室制規」が起草された(54)。
「皇室制規」では、
「皇位ハ男系ヲ以テ継承スルモノトス若シ皇族中男系絶ユルトキハ皇族中女系ヲ以テ継承ス」(第 1)、「女帝ノ夫ハ皇胤(55)ニシテ臣籍ニ入リタル者ノ内皇統ニ近キ者ヲ迎フヘシ」(第 13)
と規定した(56)。
この草案に対し、
井上毅(宮内省図書頭)は、
上記の嚶鳴社の討論会における「島田三郎」と「沼間守一」の弁論の一部を引用した上で、
①我が国の女帝の即位は摂位の類であるにもかかわらず、
欧州各国の女帝の例によるならば、
女帝には臣籍に降下した源の某という人を皇夫に迎えることになるだろうが、
女帝とその皇夫との間に皇子があれば、
皇太子として位を継ぐことになり、
その皇太子は女系の血統はあるが源姓になり姓を易ることにる、
②欧州にも女子が王位につくことを認めていない国がある、
③起草者は将来
「万一ニモ皇胤絶ユルコトアル時ノ為ニ」女系継承規定を掲載したのであろうが、
「将来ノ皇胤ヲ繁栄ナラシムル」方法は女帝以外にも種々ある、
などと批判した(57)。
この井上の意見に基づき修正された明治 19(1886)年の「帝室典則」草案では、
女系・女子の継承に関係する条文全てが削除され、
男系男子のみによる継承規定となった(58)。
この「帝室典則」は結局廃案となり、
明治 20(1887)年以降、
内閣総理大臣兼宮内大臣「伊藤博文」の命により
「柳原前光」(賞勳局総裁)と「井上毅」による皇室典範案の起草作業が本格化し、
枢密院の審査を経て明治 22(1889)年に成立した(59)。
その過程のいずれの案にも女子・女系継承が規定されることはなく、
女子・女系継承について議論されることもなかった。
【 永世皇族制の確立 】
❶『親王宣下と世襲親王家の歴史』
(1)「賜姓降下」と「親王宣下」
前述のように「大宝令継嗣令」で皇親は四世王までとし、
五世王は皇親の範囲外とすると定められた(Ⅰ-1-(3)参照)。
しかし「大宝令」施行後、
早くも慶雲 3(706)年の格(60)で皇親の範囲が五世王まで拡大され(61)、
皇親の員数が増大した。
皇親には多額の田地や禄が支給されたため(62)、
国家財政の負担が大きくなり、
桓武天皇朝(781-806)では一挙に 100 人以上を賜姓して臣籍に降下させ(賜姓降下)、
数は少なかったが母の身分が低い皇子の降下も始められた。
次いで嵯峨天皇朝(809-823)では、
弘仁 5(814)年に詔により財政負担軽減を目的に正式な皇后・后・女御などでない、
中小氏族の女子を生母とする皇子女を「源朝臣」の氏姓を与えて臣籍に降下させた。
これ以降、10 世紀の村上天皇朝(946-967)まで
これを前例として賜姓降下が盛んに行われた(63)。
なお、皇親が一度臣籍に下った後に皇籍に復帰した例は、
「奈良時代」から「鎌倉時代」に見られ、
特に「光孝天皇」(在位 884-887)の皇子「源定省」(さだみ)は親王に列せられ、
「光孝天皇」の崩御後践祚し「宇多天皇」(在位 887-897)となっている(64)。
「親王宣下」は二世王から皇位に即いた「淳仁天皇」(在位 758-764)の兄弟姉妹が、
天平宝字 2(758)年に詔により親王とされたのが始まりとされる。
「賜姓降下」の急速な拡大に伴い、
親王たるべき皇子女を特定する宣下を行うことが次第に慣例化し、
ついには皇子女でも改めて宣下を受けなければ親王・内親王と称し、
その待遇を受けることができなくなった。
その一方で二世以下の諸王でも宣下を受けることで親王となることが可能となった(65)。
また、平安時代初期以降、
皇子女及び皇孫の出家が行われ(66)、
平安時代末期の院政期以降その例が増加し、
室町時代以降江戸時代に至る間に、皇太子、後述する宮家を創立し又は継承した親王、
臣下に嫁した内親王・女王などを除く皇親は出家するのが常例となった(67)。
(2)世襲宮家
鎌倉時代以降に殿邸(邸宅)・所領とともに家の称号としての宮号(68)
を世襲した岩倉宮、四辻宮、五辻宮が興ったが、
その当主・継嗣が代々親王宣下を受けたわけではなかった(69)。
鎌倉時代末期には、
天皇又は上皇の猶子や養子となることを要件に
実系による世数にかかわらず当主・継嗣が代々親王宣下を受ける世襲親王家が成立した(70)。
世襲親王家としては、常盤井宮と木寺宮が最も早い例である(71)。
常盤井宮は、亀山法皇(天皇在位 1259-1274)の末子で、
同法皇の遺詔により大覚寺統の正嫡に指定されたが、
遺詔が実行されなかった恒明親王を初代とし、
第6 代恒直王まで親王宣下を受けた。
木寺宮は、同じく大覚寺統の後二条天皇(在位 1301-1308)の第 1 皇子で
後宇多天皇(在位 1274-1287)から大覚寺統の正嫡に指定された邦良親王を初代とし、
第 2 代康仁王、第 5 代邦康王が親王宣下を受けた。
両宮家は室町時代の中期から後期に断絶している(72)
(図 2 参照)。
図2 木寺宮と常盤井宮の系図
(注) 数字は「天皇系図」宮内庁ウェブサイト <http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html> による代数。
(出典) 宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料 皇族 4』吉川弘文館, 1986, pp.3, 4, 38, 43 等を基に筆者作成。
(大覚寺統)亀山天皇 90 後宇多天皇 91 後二条天皇 94 (木寺宮)邦良親王 康仁親王 邦恒王 世平王 邦康親王
後醍醐天皇 96 後村上天皇 97
(常盤井宮)恒明親王 全仁親王 満仁親王 直明王 全明親王 恒直親王
(3)四親王家
(ⅰ)伏見宮
木寺宮と常盤井宮に続いて伏見宮が興った。
伏見宮は、崇光天皇(在位 1348-1351)の皇子栄仁親王を初代とする。
伏見御領などの所領は親王の王子「治仁王」、次いで、貞成親王が受け継ぎ、
同親王がその居所にちなんで自ら伏見宮と号した。
貞成親王の第1 王子「彦仁王」が、
親王宣下のないまま、称光天皇(在位 1412-1428)の崩御により
後小松院(天皇在位 1382-1412)の猶子となり践祚し
後花園天皇(在位 1428-1464)となり、
康正 2(1456)年、後花園天皇の弟の第 4 代貞常親王のときに
後花園天皇の意向により永代にわたり「伏見殿御所」と称することが許された(73)(図 3 参照)。
その後、第 17 代貞行親王を除き、
代々「貞常親王」の子孫である実子の王子が親王宣下を受け、宮家を継承し明治に至っている(74)。
図3 創設初期の伏見宮の系図
(注) 数字は「天皇系図」宮内庁ウェブサイト <http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html> による代数。
(出典) 宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料 皇族 4』吉川弘文館, 1986, pp.44, 53, 63, 66;「天皇系図」宮内庁ウェブ
サイト <http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html> 等を基に筆者作成。
(持明院統)光厳天皇北 1 崇光天皇北 3 (伏見宮)栄仁親王 治仁王 彦仁王(後花園天皇 102) 御土御門天皇 103
貞成親王 貞常親王 邦高親王
後光厳天皇北 4 後円融天皇北 5 後小松天皇 100 称光天皇 101
(ⅱ)桂宮
桂宮は「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)の皇孫「智仁親王」(としひとしんのう)を初代とする。
智仁親王(幼称 六宮)は豊臣秀吉の猶子となり、
関白の職を譲られることが約されていたが、
天正 17(1589)年、秀吉に鶴松が誕生したため解約となり、
秀吉の奏請により八条宮の号(その後、宮号は常磐井宮、京極宮、桂宮と改称された。)を賜り、
宮家の創設が許された。
同家は後嗣に恵まれないことが多く、
天皇又は上皇の皇子が宮家を継承していたが、
第 11 代として宮家を継承した仁孝天皇(在位 1817-1846)の皇子節仁親王が早世した後、
継嗣となるべき王子も皇子もおらず、
親王の姉淑子内親王が宮家を継承し、
明治 14(1881)年にその薨去により桂宮家は断絶した(75)。
(ⅲ)有栖川宮
有栖川宮は、寛永 2(1625)年、
後陽成天皇(在位 1586-1611)の皇子「好仁親王」が
高松宮の号(その後、宮号は有栖川宮に改称)を賜り宮家創設を許されたことに始まる。
その後は「後水尾天皇」の皇子「良仁親王」(ながひとしんのう)
(兄の後光明天皇の崩御により践祚し「後西天皇」(ごさいてんのう)となった(76)。)、
中断を経てその皇子及び皇孫が宮家を継承し、
次いで「霊元天皇」(れいげんてんのう)の皇子
「職仁親王」(よりひとしんのう)及びその子孫が父子相承して明治に至っている(77)。
(ⅳ)閑院宮
閑院宮は、宝永 7(1710)年、将軍徳川家宣の奏請により、
中御門天皇(在位 1709-1735)の皇弟秀宮(直仁親王)に皇統の備えとして
宮家の創設が許されたことに始まる(78)。
親王の子孫が宮家を父子相承し、
天保 13(1842)年に第 5 代愛仁親王が薨去した後は、
継嗣となすべき王子も皇子もおらず、
親王の生母で第 4 代孝仁親王妃の藤原吉子が家主同格として宮家を存続させ、
明治 5(1872)年に伏見宮邦家親王の王子易宮(載仁親王)が継承した(79)。
第 2 代典仁親王の王子祐宮が、
後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったため、
践祚し光格天皇(在位 1779-1817)となっている(80)。
(ⅴ)中井竹山らの提言
江戸時代には、
これらの四親王家の意義が皇位継承者の確保という観点から理解されるようになった(81)。
しかし、皇子は皇太子になるか宮家を継ぐ以外は
「殆ど全て(82)出家して皇位の継承より遠ざかり、
又子孫を残すことも得られなかったのに反して」、
世襲親王家は固定化した家格によって代々親王の身位を維持し、
皇位継承の備えという地位を担っていた。
この点で「世襲親王家が皇位継統の控たる命を有しながら、その固定化に伴って皇室との血縁関係
も漸次疎隔し、次第にその存立の使命に適応し難くなるという矛盾が生ずることと」なっていた(83)。
こういった現状に対し、出家の風を改め、皇子が親王家を設立すべきことを新井白石(84)中井竹山(85)
などが説いた。
しかし「閑院宮家」の設立はあったものの、江戸時代に制度改革はなされず、
幕末に至り文久 3(1863)年 1 月に幕府の奏請に基づき皇子女の出家が停止され(86)、
明治元(1868)年 4 月に皇族による出家が禁止された(87)。
(4)幕末から明治前期の宮家
文久 3(1863)年から慶応 4(1868)年にかけて
僧籍にあった「伏見宮邦家親王」の6王子と同親王の弟である1王子が還俗し、
①中川宮(その後、賀陽宮と改称、一時宮号の停止後、久邇宮と称する。)、
②山階宮、
③仁和寺宮(その後、東伏見宮、小松宮と改称)、
④聖護院宮(慶応 4(1868)年 8 月に嘉言親王の薨去により消滅)、
⑤華頂宮、
⑥梶井宮(その後、梨本宮と改称)、
⑦照高院宮(その後、北白川宮と改称)
の 7 宮家が新たに創立された(88)。
これにより宮家は四親王家と合わせて 11 家となった。
慶応 4(1868)年閏 4 月に新政府は、
大宝令どおりの皇親の範囲を定めるとともに、
世襲親王家についてはその嫡子は従前どおり天皇の養子となり親王宣下を受けること、
及び新立の宮家については親王は一代限りとし、
二代目は賜姓降下する一代皇族の制を定めた(89)。
しかし、一代皇族の制は守られず、
当主が薨去した宮家(北白川宮、華頂宮、梨本宮)の継承がなされる一方で、
明治 14(1881)年に維新の功労により
東伏見宮(その後、小松宮と改称)が世襲皇族、
山階宮が二代皇族にそれぞれ列せられ、
明治 16(1883)年には
久邇宮も二代皇族に列せられた(90)。
また、明治 9(1876)年 5 月 30 日太政官第 80 号布告により往古の制に復するということで
皇子女については生まれながらに親王とすることが定められた(91)。
しかし、明治 11(1878)年に閑院宮を相続した
伏見宮邦家親王の王子「易宮」が親王宣下を受け「載仁親王」となったように
親王宣下による世襲親王家が存続した。
❷『 旧皇室典範の制定過程における議論』
(1)旧皇室典範における永世皇族制の採用
(ⅰ)内規取調局の「皇族令」草案
明治 15(1882)年 12 月に右大臣「岩倉具視」の建言に基づき
宮内省内に皇室制度を調査するために
岩倉を総裁心得とする内規取調局が設置され、
皇族の範囲が調査事項の一つとなった(92)。
同局が翌年に起草した「皇族令」草案では
皇子女を親王・内親王、その他皇族を王・女王とし、
皇族から皇太子になる場合以外の天皇の養子の制を廃止し、
実系による五世以下を賜姓して華族に列すると規定した(93)。
これは世襲親王家の制度の廃止を意味した。
この案に対して「井上毅」(参事院議官)は、
参議「山県有朋」から依頼されて代筆した意見書で、
「親王宣下」と「天皇の養子の制」廃止に反対し、
「世襲親王家」は「継嗣を広め、皇基を固くする」ものとしてその存続を主張し、
さらに「皇親」と「皇族」は別のもので
五世(天皇の養子となり親王宣下を受けた皇族も一世とする)以下は「叙位ノ皇族」とし、
王号を除いて人臣となるが、
時に特旨により華族に賜姓降下することもある(94)
と規定すべきと論じた(95)。
(ⅱ)制度取調局の調査を基にした「皇室制規」草案
次いで起草された前述の制度取調局の調査を基にした「皇室制規」草案では、
皇子女を親王・内親王(第 17)、
親王の二代目以下を王とし世襲皇族とすること(第 18)、
親王・王の二男以下は華族の養子となることができ(第 19)、
成年に達した後華族に列することがあること(第 20)、
皇族の継嗣を実子孫・実弟に限ること(第 25)、
附録で明治 14(1881)年に断絶した「桂宮」を除く「三親王家」と「小松宮」を
「世襲皇族」(現在の宣下親王の継嗣から王とすること。)、
「山階宮」と「久邇宮」と「北白川宮」を三代目から華族に列する二代皇族(同上)、
「梨本宮」と「華頂宮」を二代目から華族に列する一代皇族を規定した(96)。
(ⅲ)皇室典範草案の起草
その後「伊藤博文」の命で皇室典範案起草の作業に当たった
「柳原前光」が起草した「皇室法典初稿」を、
「井上毅」の修正を受けて
柳原自身がさらに修正した明治 20(1887)年 3 月の「皇室典範再稿」では、
親王・内親王を現行の一世の皇子女から四世の皇玄孫まで拡大し、
五世以下を王・女王とすること(第 28 条)
(世数は実系により(第 113 条)、すでに親王宣下を受けている皇族は旧による(第 110 条)。)、
支系から皇位継承した場合には
皇兄弟姉妹は親王宣下を受けること(第 29 条)、
皇族の養子の制の廃止(第 84 条)を規定し、
代々その当主又は継嗣が天皇の猶子又は養子となり親王宣下を受ける世襲親王家の制度を廃止した。
さらに皇位継承権者が十員以上いるとき
五世以下で疎遠の皇族(97)から逓次臣籍に列することがあること(第 105 条)を規定した(98)。
柳原は「世襲親王」という「親王の家格」があるときは
「皇位継承法」と両立できないとして「世襲親王家」の制度を廃止し(99)、また、
皇族数が増加すると十分な皇族費を賄うことができなくなること、
伏見宮の血統が皇位から遠く、
伏見宮家よりも皇位に近い華族がいること、
五世以下は皇親でないとする「祖宗の制」などを理由に
臣籍降下を可能とすべきという考えであった(100)。
これに対し井上は、
欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないとして
プロイセンの王家の 2 分家の例を挙げ、
両家は家格も王家と同じで世襲親王家に粗似しているとして(101)、
親王家廃止に疑義を呈し、
五世で皇親でなくなるという原則と皇族世襲の原則を両存させて
天皇の特旨による処分に任せてはどうかという考えであった(102)。
(ⅳ)枢密院諮詢案の作成
明治 20(1887)年 3 月 20 日に伊藤の高輪別邸で
伊藤、井上、柳原、伊東巳代治(内閣総理大臣秘書官)が出席して、
前述の「皇室典範再稿」を基にした皇室典範草案の検討会議(いわゆる高輪会議)が行われた。
柳原はその場で世襲皇族の制度は往古になく、
封建時代の因習であるとして、
四世までを親王、五世以下を王とし、
五世以下の皇族は皇系疎遠なるものから逓次臣籍降下させる案を伊藤に問い、伊藤の賛成を得た(103)。
ところが、明治 21(1888)年に枢密院諮詢案を作成する段階で
伊藤の指示で賜姓降下の規定は削除されてしまう(104)。
伊藤は枢密院審査において、原案には五世以下の賜姓降下の規定があったが
「種々穏かならざる所ありて遂に削除した」と述べているが(105)、
この段階になって考えを変更した理由は史料的には明らかになっていない(106)。
(ⅴ)枢密院での審査
賜姓降下の規定がないことについて、
枢密院では 2 日にわたる激論になった。
内大臣三条実美は、例えば百世というときは皇統から遠くなり、
皇族の人数も甚だ増加し、帝室よりの支給も行き届かなくなり、
皇族の体面に関することも起こらないとは限らない、したがって、
桓武天皇以来の成例により賜姓降下の余地を残すべきで、
将来、賜姓降下の例に復することがあれば一度確定した典範の条規を傷付けることになる、
四世までを親王・内親王、五世以下を王・女王と規定する条文に
賜姓降下を可能にするただし書を加えるべきだと主張した。
これに対し井上は、多少の支障があってもなるべく
「皇族の区域を拡張すること誠に皇室将来の御利益」であると主張した(107)。
三条の意見に賛成の意見を述べる者が多く、
議長の伊藤が臣籍降下を禁ずるものでないと発言し(108)、
三条からその発言が正しいか否かを問われた井上がそれを否定するというやり取りもあったが、
最終的には多数決により原案どおり採択された(109)。
(ⅵ)皇室典範の成立
こうして成立した皇室典範により永世皇族制が確立し、
一代皇族と二代皇族も永世皇族となった。
その一方で、実系による四世までを親王・内親王、五世以下を王・女王とし(第 31 条、第 58 条)
(現在の皇族で五世以下で親王宣下を受けている者は旧による(第 57 条)。)、
支系から皇位継承した場合の皇兄弟姉妹である王・女王以外への親王宣下の廃止(第 32 条)、
皇族の養子の制の廃止(第 42 条)(110)を規定し、
世襲親王家の制度は廃止された。
皇室典範の下において
「皇族は総て天皇の下に一大家族を為し、姓氏の別なし。皇族は宮号を称すと雖も、
宮号は勅旨に依り其の人に賜はる称号にして家名に非ず、宮号は父子或は之を継承すと雖も、
是れ唯称号の継承に止まり、家督相続に非ず。皇族には遺産相続あるも家督相続なし(111)。」
と解釈された(112)。
皇室典範の成立後、
明治 40(1907)年の皇室典範増補制定までの間に
明治 33(1900)年に賀陽宮(113)、
明治 36(1903)年に東伏見宮(114)、
明治 39(1906)年に朝香宮、竹田宮、東久邇宮の宮家が創設された。
朝香宮は久邇宮朝彦親王の王子鳩彦王、
竹田宮は北白川宮能久親王の王子恒久王、
東久邇宮は久邇宮朝彦親王の王子稔彦王が
明治天皇の皇女との婚姻に先立ちそれぞれ賜った宮号である(115)。
(2)皇室典範増補による賜姓降下制度の創設
明治 31(1898)年 2 月、内閣総理大臣「伊藤博文」は
皇族及び皇室に関する意見書を天皇に奉呈した。
その中で皇室典範制定の際に臣籍降下の規定を設けられなかったのはやむを得ない事情があったとし、
帝位から数世を経た皇族を華族とする制度を立てなければ、
皇位継承資格者が増加し、皇室有限の財力で保護し、
永遠にその地位を持続させることも望めないとして、
皇族制限の法の制定が急務であることを主張した(116)。
明治 32(1899)年 8 月には宮中に帝室制度調査局が設置され、
明治 40(1907)年に同局で五世以下の王が勅旨又は情願により家名を賜って
華族に臣籍降下することを可能とする皇室典範増補(117)案が起草され、
枢密院の審査を経て成立した。
この増補では臣籍降下した皇族は皇族に復することができないことも規定された(第 6 条)。
(3)皇族ノ降下ニ関スル施行準則
大正 2(1913)年に「有栖川宮威仁親王」が継嗣なく薨去し、
これにより直宮の「高松宮宣仁親王」を除く宮号を有する皇族は、
全て「伏見宮邦家親王」の子孫となった(118)。
皇室典範増補制定後、
十数年経過しても勅旨により皇族を臣籍降下させた例はなく、
臣籍降下を実施するためには運用準則が必要と考えられた(119)。
そのため、大正 5(1916)年 11 月に宮内省に設置されていた帝室制度審議会で
大正 8(1919)年 1 月に「皇族処分内規案」の検討が開始された。
委員の「伊東巳代治」「平沼騏一郎」「岡野敬次郎」は
「現在の宮家を世数を限りて臣籍に降下すべきという意見」であったのに対し、
宮内省はそれでは強い反発が予想され到底施行することができないという意見であり、
帝室制度審議会委員の平沼と岡野、宮内省帝室会計審査局長官の倉富勇三郎が
それぞれ起草に当たった(120)。
倉富の当初案は、
宮号を有する王とその長子孫を除く王を臣籍降下させるというものであったが(121)、
「現在の宮家は皇室と血縁遠きに拘はらず、之を存し置きて、将来は比較的血縁の近き方を臣籍に下すは不均衡なり」と伊東等から批判され、採用されなかった(122)。
翌大正 9(1920)年 1 月に至り、伊東らと宮内省との調整の結果、
①皇玄孫の長子孫の系統四世まで、つまり天皇から五世以下八世までは各世に一人皇族にとどまることができるが、それ以外の王は、成人後情願をなさない場合には勅旨により家名を賜って華族に列する、
②崇光天皇から十四世の伏見宮邦家親王の子孫である宣下親王及び宮号を有する王については、
皇玄孫からの世数は邦家親王の王子を一世として計算する、という
四世の皇玄孫と十四世の邦家親王を同一とみなす内容となった(123)。
この内規案は大正 9(1920)年 3 月に枢密院に諮詢され、
修正を経て「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」として全会一致で可決し(124)、
皇族会議にかけられた。
しかし、久邇宮邦彦王から「準則の通りにては皇統の断ずる懸念あり」との反対があり(125)、
皇族の中にはこれに賛同する意見もあり、
同年 5 月 15 日に開かれた皇族会議で議員各自の利害に関係するために表決しないことに決し(126)、
同年 5 月 19 日、天皇の裁定により成立した(127)。
この後、宮家の継嗣以外の王は、
附則で本内規の適用を除外された
「伏見宮貞愛親王」の嫡子「邦芳王」及び「久邇宮邦彦王」の弟「多嘉王」を除き、
成人後、情願により家名を賜って華族に列した(128)。
【 女性皇族の皇族以外の者との婚姻後の身分 】
❶『 旧皇室典範制定前の制度』
養老令継嗣令で、内親王・女王の女性皇親の婚姻相手の範囲を定め、
「凡そ王は親王を娶り、臣は五世の王を娶ることを聴せ。唯し、五世王は、親王を娶ることを得ず。」(王娶親王条)(129)と規定した(130)。
四世王までは内親王以下、五世王は二世女王以下、臣は五世女王を娶る
ことができるという意味である。
その後、皇親の範囲拡大に伴い婚姻相手の範囲も拡大され、
延暦 12(793)年には現任の大臣及び良家の子孫は三世以下の女王、
藤原氏は二世の女王と婚姻することが許されるようになり、
さらに内親王との婚姻も許されるようになった(131)。
内親王が臣家に嫁した例は、
幕末に仁孝天皇の皇女親子内親王(幼称 和宮)が徳川家茂に嫁するまで
摂関家及び徳川将軍家等への十数例を数えた。
これら臣家に嫁した内親王・女王は、皇族の列を離れるわけではなく、
例えば内親王は降嫁後も内親王と称した(132)。
これとは別に賜姓降下した内親王・女王は、臣家に嫁することが可能であった。
❷『 旧皇室典範の制定過程における議論』
(1)皇室典範案の起草
制度取調局の調査を基にした草案「皇室制規」から
明治 20(1887)年 3 月 20 日の高輪会議で検討の対象となった草案「皇室典範再稿」までの各草案では、内親王・女王の婚姻相手を皇族と華族と規定するのみで、婚姻後の身分について規定していなかった。
この点について、柳原は高輪会議で伊藤に
「内親王が華族に降嫁した場合に、婚姻後に内親王の尊称を使用する権利があるか、配偶者の身分に従うか」と質し、
伊藤は「内親王といえども華族に降嫁した以上、配偶者の身分に従い、皇族の尊称は当然失う」と答えている(133)。
しかし、柳原は会議後、女性皇族が臣下に嫁したときに皇籍を離れることを甚だ不当と考え(134)、
貴族と婚姻した後も王女の称号を有したヴィクトリア女王の四女ルイーズ王女(135)の例も挙げ、
「皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ各其夫ノ分限ニ従フ 但シ仍ホ内親王女王ノ号ヲ有ス 其所生ノ子ハ皇族ノ限ニ在ラス」
とする修正案を井上に提案し(136)、これが伊藤に採用され(137)、枢密院諮詢案では
「皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍ホ内親王女王ノ称ヲ有セシムルコトアルヘシ」(第 47 条)となった。
(2)枢密院の審査
この条文は枢密院で議論になり、
①土方久元顧問官(宮内大臣)から、内親王・女王の称号は生来の称号であるので徹頭徹尾称号を有するものとして、「皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ各其夫ノ分限ニ従フト雖モ仍ホ内親王女王ト称スルコトヲ得」と修正する案、
②有栖川宮熾仁親王から、姓のない皇族にとって内親王・女王の称は皇族の固有の姓であり、その固有の姓を剥奪するは「人情忍びざる所」であり、また、称号を有する以上皇族相当の礼遇を
受けることが可能で夫の分限に従うことは不要として、
「皇族女子ハ其ノ臣籍ニ嫁シタル者ト雖仍内親王女王ノ称ヲ有セシム」
と修正する案、
③東久世通禧顧問官から、臣下に嫁した者をなお内親王と称するのは名実が一致しないため、ただし書を削除して平常の呼称をプリンセスとすればよいとする案が出された(138)。
これに対し、井上は、
①内親王が人臣に降嫁した例は藤原氏や徳川氏に降嫁した特別な例があるのみで一般の例規と見ることはできないこと、
②民法上は夫の身分に従うのは普通のことで中国でも夫の爵に従うのは周代以来の慣例であること、
③ドイツ諸邦では王女が王族でない者と婚姻したときは王族より除かれると定められていること(139)、
④実際に降嫁してもなお皇族として取り扱うとすると、たとえ遠孫の皇族でも相当な手当が必要とされ、皇族の人数が将来増加した場合に、尊称のみを有せられるのは差し支えないが、皇族としていつまでも待遇す
るのは不都合であること、と条文の趣旨を説明した。
結局、この条文は多数決により原案どおり可決された(140)。
なお、現行皇室典範の制定過程においては、
華族制度廃止後に皇族の身分を離れる男女皇族への栄典として称号を保有させる場合があるとする案(141)
もあったが、
「皇位継承有資格者と無資格者との区別がみだされるおそれがある。…栄典と考へることも無理がある。」という理由で採用されなかった(142)。
【 おわりに 】
以上、論じてきた諸制度は、旧皇室典範においてそれより前の制度を変更して確立し、現行皇室典範に引き継がれたものである。
これに対し、皇位継承資格者を嫡系嫡子に限る制度は旧皇室典範では採用されず、現行皇室典範により成立した。
最後にその経緯を簡単に述べておく。
我が国の皇室では古代以来、複数配偶制であり、律令制導入以後は嫡子と庶子の区別がなされたが、庶子も皇親であり当然に皇位継承資格を有した。
旧皇室典範の制定に当たり継受した欧州諸国の法制では王公位継承資格は正当とされる婚姻による配偶者との間の嫡出子にのみ与えられていたが、庶子に皇位継承資格を認めることは、皇統を断絶させないために「実に已むを得ざる」(143)ことと考えられた。
スペイン憲法の規定を模した元老院の日本国憲按の第一次草案では嫡庶の別が規定されていないが、
それ以降の政府内で起草されたいずれの案(144)でも、庶子に継承資格を認めている。
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本稿におけるインターネット情報の最終アクセス日は、平成 30(2018)年 3 月 20 日である。
(1)現行皇室典範第 1 条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」の「皇統」の意義は、「今上を中心としてこゝに至り又はここより発する一系の血統を皇統と観念した」とされている
(法制局が昭和 21(1946)年 11 月に皇室典範案の帝国議会審議に向けて作成した「皇室典範案に関する想定問答」(芦部信喜・高見勝利編著『皇室典範―昭和 22 年―』(日本立法資料全集 1)信山社出版, 1990, pp.33, 188))。
(2)猶子とは擬制的な親子関係を結ぶ制度。猶子は子の如く遇することを意味した。猶子と養子は、明確に使い分けられていなかった(宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料 皇族 1』吉川弘文館, 1983, p.106)。
(3)同上, pp.79-80
(4)「古事記」ではほとんど「大后」、「日本書紀」ではほとんど「皇后」が使用され、大后の方が古い称号で日本書紀編さん時に皇后に書き換えられたと考えられている。
大后の意義については古代史研究者の間で意見が分かれている
(遠藤みどり『日本古代の女帝と譲位』塙書房, 2015, pp.108-112, 126-130 参照)。
(5)「草壁皇子」が皇太子であったことを否定する説もある(義江明子『日本古代女帝論』塙書房, 2017, pp.170-179; 本間満『日本古代皇太子制度の研究』(日本古代史叢書)雄山閣, 2014, pp.217-218)。
(6)南部曻「女帝と直系皇位継承」
『日本歴史』282 号, 1971.11, pp.13-15. 推古天皇は敏達天皇(在位 572-585)との間の嫡長子の竹田皇子(推古天皇即位後に夭折)への中継ぎのために即位したとしている。
河内祥輔「王位継承法試論」
佐伯有清『日本古代史論考』吉川弘文館, 1980, p.79 もこの説を支持している。
遠藤 前掲注⑷, pp.142-148 は
「女帝の不婚は新たな皇位継承資格者を誕生させないという意味を持っていた」と論じ、
「女帝と皇位継承資格者の拡大を防ぐため一代限りの存在として即位したと言え…中継ぎと定義すべき存在」としている。
佐藤宗諄「女帝と皇位継承法」
女性史総合研究会編『日本女性史 第 1 巻 原始・古代』東京大学出版会, 1982, pp.152, 158 は
「孝謙天皇・称徳天皇」は、草壁皇子直系の皇統を守るためにその前の 5 人の女性天皇のように
中継的・臨時的でなく即位したとする。
(7)草壁皇子―文武天皇(在位 697-707)―聖武天皇という父子直系継承の中継ぎのために
元明天皇と元正天皇が即位したという通説に対し、
元正天皇は聖武天皇の皇統譜上の母(皇祖母)であり、
持統天皇―元明天皇―元正天皇―聖武天皇の間には父子直系関係と同格な
親子間の継承があったとする説がある(仁藤敦史『古代王権と支配構造』吉川弘文館, 2012, p.316)。
(8)群臣とは律令制導入前の「大臣、大連、大夫などの議政官」をいい、
平群・巨勢・蘇我氏のような地域名を氏の名称とする臣系氏族の最高執政官が
大臣、物部・大伴・中臣氏のような連系伴造氏族の最高執政官が大連であった
(吉村武彦「ヤマト王権と氏族―日本・中国との比較を通して」『古代学研究所紀要』21号2014 p58-59)
(9)小林敏男『古代女帝の時代』校倉書房, 1987, pp.108-109, 133-137;
成清弘和『日本古代の王位継承と親族』岩田書院, 1999, pp.163-164 は、
この説のうち「大后」の地位に関する部分には同意せず、
危機に際し女性としての聖性という往時の認識が想起されて群臣に推戴され、
女性天皇は王権のうちの聖性の部分を担ったとする。
(10)ヒメ・ヒコ(姫彦)制とは「卑弥呼(すなわち姫御子)とその助力者である弟(彦御子)のような男女による複式酋長制をいう」(『高群逸枝全集 第 4 巻 女性の歴史一』理論社, 1966, p.100)。
(11)祭司を司る女君と政治や軍事を司る男君との二重主権をいう
(洞富雄『天皇不親政の起源』校倉書房, 1979, p.66)。
(12)荒木敏夫『日本古代王権の研究』吉川弘文館, 2006, pp.148-153;
遠山美都男『大化改新―六四五年六月の宮廷革命―』(中公新書)中央公論社, 1993, pp.65-71, 77 は、
同一世代の継承候補者が尽きたときに次の世代の候補者に移るという世代内継承の実績の積み重ねの結果、同一世代で執政能力の卓越したものであれば性別は問わないという認識が生まれたとし、
この説を支持する。
ただし、持統天皇については父系直系による継承が現実味をもって模索され、
第三者の立場から紛争の激化を未然に防ぐという役割はもはや期待されなかったとする。
(13)大平聡「女帝・皇后・近親婚」鈴木靖民編
『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館, 2012, pp.19-32.
「皇極天皇」については
「舒明天皇」(在位 629-641)との婚姻により「舒明天皇」と同じ世代に引き上げられ、
「斉明天皇」については「孝徳天皇」(在位 645-654)と同じ世代であり、
「持統天皇」については、天武 8(679)年に吉野行幸において
「天智天皇」(在位 668-671)と「天武天皇」(在位 673-686)の諸皇子との間で結んだ盟約(吉野盟約)により「天武天皇」と同じ世代に引き上げられたとする。
(14)義江 前掲注⑸, pp.116-117.
(15)荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』(歴史文化ライブラリー 359)吉川弘文館, 2013, p.48 掲載の読み下し文による。
(16)宮内庁書陵部編纂 前掲注⑵, p.78.
(17)「大宝令」は現存していないが「養老令」の注釈書『令集義』の本条の注釈に
「古記云。女帝子亦同。…」とある。
古記は天平10(738)年頃成った「大宝令」の注釈書であり「大宝令」にもこの註があったとみなされている
(成清 前掲注⑼, p.131; 早川庄八「令集解」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第 14 巻』吉川弘文館, 1993, p.650)
(18)成清 同上, pp.130-131.
(19)Ⅲ章 1 参照。
(20)『令集義』に引かれている諸注釈書のうち、
これについての解釈を示している「義解」「朱説」「古記」の解釈による(遠藤 前掲注⑷, pp.153-157)。
成清 前掲注⑼, pp.133-134 は、
律令本来の父系帰属主義からは子は父の身位を継ぐものだが、
母が女帝であり父が四世王以上である限り、
母の身位を継ぐべきとして理解している点では諸注釈は一致するとし、
女帝の所生子は親王とされることで、
有力な皇位継承者の一員となるとする。
なお「朱説」は、女帝の配偶者が四世王までであると規定する継嗣令「王娶親王条」に違反した場合に
女帝の子は親王となるかと設問しているが、
回答は書かれていない。
(21)『令集義』に引かれている諸注釈書のうち、
これについての解釈を示している「穴記」の解釈による(遠藤 同上, p.157)。
吉備内親王(元明天皇の子)の長屋王(皇孫)との間の所生子を皇孫とする勅は、
この継嗣令の規定に従ったものとされている(成清 同上)。
(22)『令集義』に引かれている諸注釈書のうち、
「穴記」と「古記」の解釈もこのような意味だと解釈されている
(遠藤 同上, p.155; 佐藤長門『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館, 2009, pp.285, 291)。
ただし、女帝の兄弟は親王とならないと解釈する古代史研究者もいる
(荒木敏夫『可能性としての女帝』青木書店, 1999, p.209)。
(23)成清 前掲注⑼, p.132.
(24) 遠藤 前掲注⑷, pp.157-158;
仁藤敦史『女帝の世紀―皇位継承と政争―』(角川選書)角川書店, 2006, p.114 は
この点について可能性は否定できないが、史料的な明証はないとする。
律令制導入前には、
「皇極天皇」(三世女王)の
「用明天皇」(在位 585-587)の皇孫(二世王)「高向王」との、
最初の婚姻による子が
『日本書紀』で「漢皇子」(あやのみこ)(皇子は律令制下の親王に準ずる)
とされている例がある(仁藤 同, p.113)
(25) 女一宮は幼称。
寛永 6(1629)年 10 月 29 日に「内親王宣下」があり興子内親王となった
(藤井譲治・吉岡眞之監修・解説『明正天皇実録』(天皇皇族実録 106)ゆまに書房, 2005, pp.1, 6)。
(26) 藤井譲治・吉岡眞之監修・解説『後水尾天皇実録 第 1 巻』(天皇皇族実録 103)ゆまに書房, 2005, pp.625-627;
同『後水尾天皇実録 第 2 巻』(天皇皇族実録 104)ゆまに書房, 2005, pp.655-656, 674-680;
池田晃淵「後水尾天皇御譲位の考」『史学会論叢』1 輯, 明治 37 (1904).5, pp.387-400;
高埜利彦「近世の女帝ふたり」『天皇制―歴史・王権・大嘗祭―』河出書房新社, 1990, pp.88-91;
野村玄「明正天皇論―即位・在位・譲位の背景―」『京都産業大学論集 人文科学系列』29 号, 2002.3, pp.225-213.
(27) 四方拝とは「朝廷の年中行事、天皇が元日の早朝に天地四方を拝する儀式」
(酒井信彦「四方拝」『日本大百科全書 11』小学館, 1986, p.166)。
(28) 節会とは正月 1 日、7 日、16 日、3 月 3 日、5 月 5 日などの節の日及び規定の公事がある日に、
朝廷で行われた宴会のこと(山中裕「節会」『日本大百科全書 13』小学館, 1987, p.594)。
(29) 宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料 摂政 1』吉川弘文館, 1981, p.238.
(30) 宮内庁書陵部編纂 前掲(2), pp.337-341; 野村 前掲注(2), pp.213-210;
野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂出版, 2006, pp.130-132.
(31) 藤井・吉岡監修・解説 前掲注(25), pp.175, 189, 198, 208, 225, 241;
久保貴子『後水尾天皇―千年の坂も踏みわけて―』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房, 2008, pp.128-129.
(32)藤井譲治・吉岡眞之監修・解説『後桜町天皇実録 第 1 巻』(天皇皇族実録 120)ゆまに書房, 2006, pp.14-15;
久保貴子『近世の朝廷運営―朝幕関係の展開―』岩田書院, 1998, pp.214-217.
『桃園院御凶事前後記』(宮内庁書陵部所蔵)宝暦 12 年 7 月 12 日の条の記事による。
久保貴子氏は、智子内親王が践祚した理由を、
宝暦 8(1758)年の宝暦事件
(竹内式部(垂加流神道を学び、徳大寺家に仕えていた人物)の学説に傾倒した天皇の近習(側近く仕える人)ら一部の公家たちが式部らによる桃園天皇への進講を始めたことに対し、進講の中止をめぐり、天皇及び近習たちと摂家たちとの対立が深刻化し、近習ら公家たちを処罰した事件)
の影響があり、英仁親王が皇位を継いだ場合に、英仁親王の近習たちが台頭し、
第二の宝暦事件が起こることを恐れたためとしている(久保 同,pp.211, 215-216)
(33) 宮内庁書陵部編纂 前掲注⑵, pp.340-341.
(34)藤井・吉岡監修・解説 前掲注(32), p.311.
(35) 同上, pp.73, 170, 321, 379, 441;
藤井譲治・吉岡眞之監修・解説『後桜町天皇実録 第 2 巻』(天皇皇族実録121)ゆまに書房, 2006, pp.519, 587, 665;
村和明『近世の朝廷制度と朝幕関係』東京大学出版会, 2013, p.260.
(36) 藤井・吉岡監修・解説『後桜町天皇実録 第 2 巻』同上, pp.739, 745.
(37)島善高「明治皇室典範の制定過程」小林宏・島善高編著『明治皇室典範 上』(日本立法資料全集 16)信山社出版, 1996, pp.16-17.
(38)第二章「第二条 継受ノ順序ハ嫡長ノ正序ニ循フ可シ尊系ハ卑系ニ先チ同系ニ於テハ親ハ疎ニ先チ同族ニ於テハ男ハ女ニ先チ同類ニ於テハ長ハ少ニ先ツ」、「第四条 女主入テ嗣クトキハ其夫ハ決シテ帝国ノ政治ニ干與スルコト無カル可シ」(「日本国憲按」小林・島編著 同上, p.243)
(39)この条文の起草の際に参照したと草案に掲げられる
プロイセン、スペイン、オランダ、ポルトガル、フランスの各国憲法の箇条
(「日本国憲案準拠書目」『陸奥宗光文書』書類の部 61, 国立国会図書館憲政資料室所蔵)のうち、
1845 年スペイン憲法の第 50 条と第 54 条の規定
(元老院編『欧洲各国憲法』稲田佐兵衛等, 明治 10 (1877), p.22)と酷似している
(藤田大誠「近代皇位継承法の形成過程と国学者―明治皇室典範第一章成立の前提―」『神社本廳教學研究紀要』10 号, 2005.3, p.204)。
条文の意味が不分明なところがあるが、スペイン憲法の原文によれば、
「嫡長入嗣ノ正序」は長子継承制と代襲制の通常の順序、尊系・卑系は長系・幼系、
同族は同一親等、同類は同性を意味する。
(40)「国憲按」小林・島編著 前掲注⚶, pp.248-249.
(41) 稲田正次『明治憲法成立史 上巻』有斐閣, 1960, pp.319-320.
(42) 「国憲草按各議官意見書」小林・島編著 前掲注⚶, p.264. 河田の意見は筆者が現代語に訳した。
(43) 稲田 前掲注⚺, pp.333-337.
(44) 菊池虎太郎ほか「大日本帝国憲法」(明治 14 年 10 月 25 日)、
田村寛一郎「私草大日本帝国憲法案」(明治 20 年7 月 1 日)
(家永三郎ほか編『明治前期の憲法構想』福村出版, 1967, pp.269, 325)。
(45) 筑前共愛会「大日本憲法大略見込書」(明治 13 年 2 月)、
沢辺正修(推定)「大日本国憲法」(明治 14 年 1 月 30 日以前)、
矢野駿男(推定)「憲法草案」(明治 14 年 7 月 5, 9 日)、
永田一二(推定)「私草憲法」(明治 14 年 7 月~9月)(家永ほか編 同上, pp.100, 124, 188, 200)、
千葉卓三郎「日本国憲法」(明治 14 年)(千葉卓三郎顕彰記念誌編集委員会編『民主憲法の父 千葉卓三郎』志波姫町千葉卓三郎顕彰碑建設委員会事務局, 1980, p.38)、
嚶鳴社「憲法草案」(明治 12 年末~13 年)(江村栄一「「嚶鳴社憲法草案」の確定および「国会期成同盟本部報」の紹介」『史潮』110・111 号, 1970.12, p.55)。
(46) 西周「憲法草案」(明治 15 年秋頃)、
福地源一郎「国憲意見」(明治 14 年 3、4 月)、
兵庫国憲法講習会「国憲私考」(明治 14 年 7 月)(後の 2 案は女系の継承を認めるか否かが明らかでない。)(家永ほか編 同上, pp.138-139, 192,290)。
(47) 共存同衆「私擬憲法意見」(明治 12 年 3 月頃)、
植木枝盛「日本国々憲按」(明治 14 年 8 月 28 日以降)、
小野梓「憲法私案」(明治 16 年 5 月 29 日~6 月 1 日)(同上, pp.89, 244, 306)。
(48) 立志社「日本国憲法見込案」(明治 14 年 9 月 19 日(?))(同上, p.253)。
(49) 稲田正次「嚶鳴社」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第 2 巻』吉川弘文館, 1980, p.487.
(50) 『東京横浜毎日新聞』明治 15(1882)年 3 月 14 日から 4 月 4 日の間に断続的に連載され
(『東京横浜毎日新聞復刻版 第 33 巻』不二出版, 1991 所収)、
三宮寅衛編『日本雄弁美辞軌範』柳原喜兵衛, 明治 15 (1882)に収録された。
(51) 島田の明正天皇を例外とする主張は、
明正天皇以外の女性天皇の皇位継承を皇子への中継ぎとする
横山由清・黒川真頼編『旧典類纂 皇位継承篇 五 巻十』元老院,
明治 11 (1878), 20-25 丁掲載の「女主ノ皇位ヲ継承セシ大意」の考証に基づくものである
(小林宏「井上毅の女帝廃止論―皇室典範第一条の成立に関して―」『日本における立法と法解釈の史的研究 第 3 巻 近代』汲古書院, 2009, p.222)。
(52) 摂位とは中継ぎ君主のことで、
君主の地位を継ぐべき者が一時曠缺する場合に統治権を行使する者をいう
(市村光恵『帝国憲法論』有斐閣書房, 大正 4 (1915), p.332)。
「曠缺」とはその存在の有無が分明でないことを意味する
(穂積重遠『相続法大意』岩波書店, 大正 12 (1923), p.134)。
(53) 三宮編 前掲注(50), pp.1-8, 17, 25-26, 32, 35. 島田と沼間と肥塚の主張は筆者が現代語に訳した。
(54) 島 前掲注(37), pp.57-59.
(55) 天皇の血統を引く人の意。
(56)「宮内省立案第一稿 皇室制規」小林・島編著 前掲注(37), p.346. この草案の起草者は明らかになっていない。
(57) 井上毅「謹具意見」同上, pp.347-351.
(58) 「宮内省立案第二稿 帝室典則」同上, p.354.
(59) 大日本帝国憲法第 2 条の規定は、
明治 22(1889)年 1 月 16 日からの枢密院の再審会議の開始時点までは
「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇子孫之ヲ継承ス」であったが、
同年 1 月 27 日の伊藤の高輪別邸での検討会で伊藤の修正試案
(「…男統ノ皇男子孫之ヲ継承ス」とするもの)を基に、
「皇子孫」が「皇男子孫」に改められた(稲田正次『明治憲法成立史 下巻』有斐閣, 1962, pp.827, 831)。
(60) 律令を改訂増補するための追加法令。
(61) 五世王も皇親とし、
その六世以下の承嫡者も王名を称することが認められ、
天平元(729)年の格で
五世王の嫡子である王が孫女王を娶って生まれた男女(つまり七世)は皇親とするとされた。
延暦 17(798)年に慶雲 3(706)年の格を停止し、
令制に復帰した。
ただし、その後も六世以下は、賜姓降下等のない限り、王名を称することができた
(宮内庁書陵部編纂 前掲注⑵, pp.78-79, 82-83; 会田範治『註解養老令』有信堂, 1964, p.659; 藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』吉川弘文館, 1991, pp.212-216)。
(62) 藤木 同上, pp.210-211.
(63) 林陸朗『上代政治社会の研究』吉川弘文館, 1969, pp.255, 265; 藤木 同上, pp.234-236, 241-244.
(64) 宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料 皇族 3』吉川弘文館, 1985, pp.281-282.
(65) 同上, pp.1-2; 武部敏夫「親王宣下」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第 7 巻』吉川弘文館, 1986, p.906.
(66) 宮内庁書陵部編纂 前掲(64), p.341. 村上朝まで賜姓降下が盛んに行われたが、
その時期以降行われなくなった理由として、摂関家の勢力が確立し、
藤原氏以外の他家から女子を後宮に送り込むことが抑圧され皇子の数が減少したこと、
皇子女の母に身分の低い出自の者が少なくなったこと、
寺院勢力の発展により寺院に入れる方が賜姓降下よりも精神的にも物質的にもその生活を安定させ得ると考えられるようになったこと、などが挙げられている(藤木 前掲注(61), p.207)。
(67) 宮内庁書陵部編纂 同上, pp.341-343. 院政期以降には出家した皇子や皇孫以下にも親王宣下が行われるようになり、僧籍にある親王は入道親王、法親王と呼ばれた。
(68) 「皇族を其の名字・官名・品位・地名或いは居所名等を冠して某宮と称することは古来より行われていたが、これは特定の個人に対する称謂に止まり、家の称号としての宮号とは区別される」(宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料 皇族 4』吉川弘文館, 1986, p.1)。
(69) 同上, pp.2-3. 同書は、岩倉宮は「家号としての宮号を意味するか否か速断できない」とし、
また、五辻宮は五辻宮親王家と称されたが、代々親王宣下を受けた確証はないとする。
(70) 武部 前掲注(65)
(71) 宮内庁書陵部編纂 前掲注(68), pp.3-4.
(72) 同上; 松薗斉「中世の宮家について―南北朝・室町期を中心に―」『人間文化―愛知学院大学人間文化研究所紀要―』25 号, 2010.9, pp.5-10, 12-19;
今谷明「中世の親王家と宮家の創設」『歴史読本』51 巻 14 号, 2006.11,pp.115-119.
木寺宮の邦良親王は叔父の後醍醐天皇(在位 1318-1339)が皇位に即いたとき皇太子に立てられたが、
間もなく薨去した。
その王子康仁親王も、元弘の変により後醍醐天皇が退位させられ、
持明院統の光厳天皇(在位 1331-1333)が践祚した際に皇太子に立てられたが、
鎌倉幕府の倒壊後に京都に還幸した後醍醐天皇により廃された。
両宮家の当主・継嗣は世襲により問題なく親王宣下を受けたわけでなく、
常盤井宮の 4 代直明王、
木寺宮の 3 代邦恒王、4 代世平王は親王宣下を受けなかった。
(73) 宮内庁書陵部編纂 同上, p.44. 小川剛生「伏見宮家の成立―貞成親王と貞常親王―」
松岡心平編『看聞日記と中世文化』森話社, 2009, pp.27-28 は、
宮内庁書陵部編纂 同 が典拠としている『伏見宮系譜』の記載が他に裏付けがなく、
この説の信ぴょう性に慎重にならざるを得ないと留保をした上で、
「御所の号を永代にわたり許されたというのは、これをもって世襲親王家の存在を初めて公式に認めた、ということになるであろう」としている。
(74) 第 16 代邦忠親王が継嗣となる王子のないまま薨去したため、桃園天皇の皇子貞行親王が相続した。
しかし、同親王が年少で未だ王子のないまま薨去した際に、朝廷は再度皇子による相続を望んだが、
伏見宮一門が徳川幕府への運動を行い、幕府から朝廷への申入れにより、
出家していた邦忠親王の弟の寛宝入道親王(邦頼親王)の還俗相続が認められ、
実子による相続に復した
武部敏夫「世襲親王家の継統について―伏見宮貞行・邦頼両親王の場合―」『書陵部紀要』12 号, 1960.10, pp.42-47。
(75) 宮内庁書陵部編纂 前掲注(68), pp.45-46, 110-114;
武部敏夫「智仁親王」国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第 10 巻』吉川弘文館, 1989, p.361.
(76) 後水尾天皇の皇子良仁親王は高松宮家を継承していたが、兄の後光明天皇の突然の崩御より、
弟の生後 4 か月の皇子高貴宮(霊元天皇(在位 1663-1687))が儲君になり、
高貴宮の成長までの中継ぎとして皇位に即いた。
後西天皇には践祚後に生まれた皇子がいたが、高貴宮に譲位した
(藤井譲治・吉岡眞之監修・解説『後西天皇実録』(天皇皇族実録 108)ゆまに書房, 2005, pp.12-14, 244;
久保 前掲注(32), pp.52-54; 野村『日本近世国家の確立と天皇』前掲注(30), p.294)。
(77) 宮内庁書陵部編纂 前掲注(68), p.46;『有栖川宮総記』高松宮家, 昭和 15 (1940), p.2.
(78) 新井白石の献策に基づくとされる
(宮内庁書陵部編纂 同上; 栗田元次『新井白石の文治政治』石崎書店, 1952,pp.584-593)。皇統の備えとしての新宮家創立の構想は霊元天皇の時代にもあり、東山天皇(在位 1687-1709)も秀宮をもって新宮家を創立することを考えており、偶然にも新井白石の上申と意見がほぼ一致したところから、実現したとする説もある(久保 前掲注(32), pp.178-179)。
(79) 宮内庁書陵部編纂 前掲注(68), pp.46-47, 191.
(80) 同上, pp.47, 188-189.
(81) 武部 前掲注(74), p.49.
(82) 後陽成天皇の 2 皇子が慶長 10(1605)年に近衛信尹の猶子となり近衛家を、
同 14(1609)年に一条内基の猶子となり一条家をそれぞれ相続した例もある。
なお、四親王家の王子については、
閑院宮直仁親王の王子が寛保 3(1743)年に桜町天皇(在位 1735-1747)の猶子、
関白一条兼香の養子となった上で鷹司家を相続し、
有栖川宮韶仁親王の王子が天保 3(1832)年に西園寺寛季の実子
(実子同様に取り扱うことを意味する称で、江戸時代以降は養子・猶子関係より親子関係の重いものとみなされた)となり西園寺家を相続した例がある(宮内庁書陵部編纂 前掲注(64), pp.106, 150-156)。
(83) 武部 前掲注(74), p.49. 皇子による世襲親王家の継承はこのような矛盾を調節・緩和する機能を有していた(同,p.54)。
(84) 新井白石, 羽仁五郎校訂『折たく柴の記 3 版』(岩波文庫)岩波書店, 1949, pp.96-97.
(85) 大坂の学問所懐徳堂の儒学者であった中井竹山は
寛政元(1789)年に松平定信からの諮問に答えた『草茅危言』の中で、
四親王家について年暦を経るに従って関係も次第に遠くなり、
数百年後に皇位を継承するとなったとき、
皇族とはいえ遥かに隔たることになってしまうという問題点を指摘し、
皇子は皇太子を除き、元服までは宮中で奉育し、親王宣下し新宮とし、
二代目は諸王、三代目は賜姓して臣籍に列せしめ、
禄は代々減額し五代目の額で永代の定祿とすべしと論じている
(中井竹山『草茅危言 宮』懐徳堂記念館, 昭和 17 (1942), 12-14 丁)。
(86) 宮内庁書陵部編纂 前掲注(64), pp.366-367.
(87) 「宮堂上之庶子等追々其材ニ随ヒ御登用可有之候間以来僧徒ニ致ス間敷候様被仰出候」
(慶応 4 年 4 月 17 日第242 号)(『法令全書 慶応三年・明治元年』内閣官報局, 明治 20 (1887), p.97)
(88) 7 宮家のうち、中川宮は文久 3(1863)年、
山階宮は元治元(1864)年にいずれも一橋慶喜や島津久光ら
公武合体派の政治的な事情による奏請、建言に基づき、
その他の 5 宮家は王政復古以後に皇族の人材登庸のため、復飾した
(宮内庁書陵部編纂 前掲注(68), pp.194, 200-201, 203, 205-207, 243; 高久嶺之介「近代皇族の権威集団化過程―1―近代宮家の編成過程―」『社会科学』27 号, 1981.2, pp.165-174)。
聖護院宮嘉言親王は、弟の照高院宮智成親王を子とすることが許されたが、
その薨去により聖護院宮は消滅した。
(89) 慶応 4 年閏 4 月 15 日第 309 号(『法令全書 慶応三年・明治元年』前掲注(87), pp.124-125)
(90) 宮内庁書陵部編纂 前掲注(68), pp.190-192; 高久 前掲注⛩, pp.185-192.
なお、宮内省は、明治 12(1879)年に
四親王家と直宮の親王家をもって「皇統御扣ノ家」とし、
親王家の数を 4 以下とするため、
新設される直宮の親王家の数の分だけ既存の四親王家の 4 宮のうちの皇統に遠い宮の家を諸王家とし、
かつ、その他の宮家も諸王家とし、
諸王家の二男以下及び諸王となった皇族から五代目の嫡玄孫以下を華族に列する案を
太政大臣に上申している
(「親王家諸王家御子女御処分之儀上申」国立公文書館所蔵『公文録』明治 14 年第 221 巻「梨本宮継嗣菊麿王御処置ノ件」所収)。
(91) 宮内庁編『明治天皇紀 第 3』吉川弘文館, 1969, pp.605-606.
(92) 多田好問編, 香川敬三閲『岩倉公実記 下巻』皇后宮職, 明治 39 (1906), pp.2005-2008, 2016.
(93)「皇族令ヲ定ムルノ議」小林・島編著 前掲注(37), p.306.
(94) 五世以下は皇親でなく人臣となるが王名を称し叙位を受ける皇族であり、
時に特旨によりその五世以下の皇族が華族に賜姓降下する場合もあるという意味であろう。
(95) 「参議山縣有朋皇族令修正意見案」
井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝 史料篇 第 6』国学院大学図書館,1977, pp.150-151.
(96) 「宮内省立案第一稿 皇室制規」小林・島編著 前掲注(37), pp.346-347. この案の修正案「帝室典則」では閑院宮載仁親王は二代皇族とされた(「宮内省立案第二稿 帝室典則」同, p.355)。
(97) 霊元天皇から四世の有栖川宮幟仁親王が明治 19(1886)年 1 月に薨去し(『官報』号外, 1886.1.24;『有栖川宮総記』前掲注(77), pp.2-3)、直宮の嘉仁親王(大正天皇)以外の皇族は全て五世以下であった。
(98) 「皇室典範再稿」小林・島編著 前掲注(37), pp.436, 440-441.
(99) 「疑題件々ニ付柳原伯意見」同上, p.400.
なお、明治 20(1887)年 4 月の柳原の修正案「皇室典範草案」に
親王の家格廃止を規定する条文(第 76 条)が加えられ(「皇室典範艸案」同, p.466)、
成立した皇室典範の第 60 条となった。
(100) 「皇室典範箋評 柳原前光」伊藤博文編『秘書類纂 帝室制度資料 上巻』秘書類纂編纂会,
昭和 11 (1936),pp.135-137.
(101) 欧州諸国の王公家の分家は、世襲親王家とは異なり、王公家とは別の家とされている。
例えば、デンマークでは1863 年にオレンボー家が絶えたとき、
16 世紀のオレンボー家の王子を始祖とする分家グリュックスボー家
(現デンマーク王家)の男系の公子がクリスチァン 9 世(Christian 9.)として王位を継承したが、
王朝が交替したとみなされている
(山田敏之「ヨーロッパ君主国における王位継承制度と王族の範囲―女系継承を認めてきた国の事例―」
『レファレンス』803 号, 2017.12, pp.9-10.
<http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11003874_po_080301.pdf?contentNo=1> 参照)
(102) 「皇室典憲ニ付疑題乞裁定件々」小林・島編著 前掲注⚶, p.397.
(103) 「皇室典範皇族令草案談話要録」同上, pp.449-450. 会議後に「十員以上」は削除され、「皇族増加スルニ従ヒ五世以下疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」となった(同, p.466)。
(104) 小嶋和司「明治皇室典範の起草過程―附、典範義解の成立・公表事情―」『小嶋和司憲法論集 1 明治典憲体制の成立』木鐸社, 1988, p.209.
(105) 「六月四日午後」『枢密院会議筆記 皇室典範議事筆記』国立公文書館所蔵「枢密院関係文書」所収.
(106) 高久嶺之介「近代日本の皇室制度」鈴木正幸編『近代日本の軌跡 7 近代の天皇』
吉川弘文館, 1993, p.140.
(107) 「六月四日午後」前掲注(105)
(108) 同上
(109) 「六月六日午前」同上 皇室典範案の枢密院審査は明治天皇臨御の下に行われたが、
この両日の議事に関して
「天皇始終之れを黙聴あらせたまひしが、数日の後久元を召して、前日の議は汝等の論ずる所正鵠を得たりと告げたまふ」と記録されている(宮内庁編『明治天皇紀 第 7』吉川弘文館, 1972, p.75)。
久元は土方久元(枢密顧問官、宮内大臣)のことで、原案に反対した。
(110) 皇族には天皇は含まれないが(同第 30 条)、
皇族ですら養子をすることができないならば、
当然に天皇は養子又は猶子をすることができないと解釈された(市村 前掲注(52), p.314)。
(111) 家督相続とは家制度の下における戸主の死亡、
隠居その他の場合に開始する相続で、
1 人の家督相続人が戸主たる地位及び財産上の地位を一括して承継する。
遺産相続とは家族が死亡した場合に開始する相続で、
1 人又は複数の遺産相続人が財産上の地位を承継する
(末川博等編『民事法学辞典 上巻』有斐閣, 1960, pp.21-21, 226-227)。
(112) 美濃部達吉『憲法撮要 訂正版』有斐閣, 大正 13 (1924), p.240. 引用に当たり平仮名表記に改めた。
(113) 賀陽宮は、久邇宮朝彦親王の王子邦憲王が健康上の理由により
弟の邦彦王に久邇宮の継嗣を譲った後に、明治33(1900)年に健康が回復し、
一家創立を認められ賜った宮号である(宮内庁書陵部編纂 前掲注(68), pp.192, 232-233)。
(114) 東伏見宮は、皇室典範施行前の明治 18(1885)年に
小松宮彰仁親王の継嗣となっていた末弟の定麿王(明治 19)(1886)年に親王宣下を受け依仁親王)が、
彰仁親王の希望に沿って、継嗣であることを明治 36(1903)年に止められ、
一戸創立を認められ賜った宮号である。
小松宮彰仁親王は長弟の北白川宮能久親王の王子輝久王を継嗣にすることを望んでいたが、
皇室典範により皇族の養子は禁止されたためにかなわず、
輝久王が臣籍降下し自身の遺産を相続し、
依仁親王は別に宮号を賜って一戸創立することを希望していた
(宮内庁書陵部編纂 同上, pp.192-193, 226-227; 宮内庁編『明治天皇紀 第 10』吉川弘文館, 1974, pp.365-366)
(116) 春畝公追頌会編『伊藤博文伝 下 再版』統正社, 1943, pp.335-337; 宮内庁編『明治天皇紀 第 9』
吉川弘文館,1973, pp.390-392.
なお、王陶陶「明治皇室典範下における皇族の臣籍降下について」
『国史談話会雑誌』54 号,2013, pp.124-130 は、
皇族費用の実態の検証から明治 30 年代に制定理由とされた
皇族数の増加による皇室財政のひっ迫のおそれが急迫した事実はなかったとしている。
(117) 旧皇室典範では条項の改正と増補とを区別し(第 62 条)、
条項を追加する場合には「皇室典範増補」として制定・公布された。
(118) このときまでに明治維新時の 11 宮家のうち聖護院宮と桂宮が断絶し、
前述のように明治 33(1900)年から明治39(1906)年までの間に 5 宮家が新設され、
威仁親王の薨去に際し直宮の宣仁親王が高松宮の号を賜った
(この勅語により有栖川宮家断絶後、同家の祭祀を継承する。)のを併せて15 宮家となった。
このうち、有栖川宮家と小松宮家は親王が継嗣なく薨去し、親王妃のみとなっていた
(『皇室略牒 大正 2 年』宮内省図書寮, 大正 3 (1914),pp.7-44;『有栖川宮総記』前掲注(77), pp.116, 4-5)。
幕末維新期に創設された 7 宮家のうち伏見宮邦家親王の王子ではなく、
唯一邦家親王の弟である守脩親王に始まる梨本宮も、
同親王に王子がなく邦家親王の孫の王子が継承していたため、
このときに 12 宮全てが邦家親王の子孫となった。
なお、小松宮家は大正 3(1914)年に彰仁親王の賴子妃が薨去した後、
有栖川宮家は大正 12(1923)年に威仁親王の慰子妃が薨去した後、
華頂宮家は、博忠王が妃及び継嗣なく薨去した後にそれぞれ断絶した
(宮内省書陵部編纂 前掲注(68), pp.191-192, 244-245;
『官報』572 号, 1914.6.27;『官報』号外, 1923.6.30)。
(119) 「皇族ノ降下ニ関スル内規ノ件」
『枢密院御下附案 大正九年』「枢密院関係文書」前掲注(105)所収.
情願により降下した例として、
明治 43(1910)年、北白川宮能久親王の王子輝久王が、
小松宮彰仁親王の嗣子となるために臣籍降下の情願を行い、
小松の家名を賜って華族に列し、侯爵を授けられた
(『官報』号外, 1910.7.20; 宮内庁編『明治天皇紀 第 11』吉川弘文館, 1975, p.689)。
(120) 永井和「波多野敬直宮内大臣辞職顛末―一九二〇年の皇族会議―」『立命館文學』
624 号, 2012.1, p.500; 倉富勇三郎日記研究会編『倉富勇三郎日記 第 1 巻』国書刊行会, 2010, pp.19, 22, 25.
(121) 倉富勇三郎日記研究会編 同上, pp.146-147;「皇族に関する内規」
(『平沼騏一郎関係文書』書類の部 243, 国立国会図書館憲政資料室所蔵)中の
「一 宮号ヲ有セサル王ハ明治四十年二月十一日勅定ノ皇室典範増補第一条ノ規定ニ依リ華族ニ列セラル但シ宣下親王又ハ宮号ヲ有スル王ノ長子孫タル者ハ此ノ限ニ在ラス…」
とする案がこれに該当すると思われる(永井 同上, p.799)。
(122) 倉富勇三郎日記研究会編 同上, pp.105-106.
(123) 「皇族ノ降下ニ関スル内規ノ件」前掲注(119);
「皇族ノ降下ニ関スル内規ノ件」『枢密院会議筆記 大正九年』「枢密院関係文書」前掲注(105)所収.
草案の中には臣籍降下の対象を皇玄孫の六世以下、
宣下親王の子孫は五世以下、宮号を有する王の子孫は四世以下と差別化する案もあった。
宣下親王(山階宮晃親王等)は邦家親王から一世であり、
宮号を有する王(賀陽宮邦憲王等)は二世であるので、
この案は宮家間では平等となっている
(「皇族に関する内規」前掲注(121)中の「第一按」、「第二按」)。
(124) 「皇族ノ降下ニ関スル内規ノ件」『枢密院会議筆記 大正九年』
同上 この内規案が皇室典範及び皇室典範増補に矛盾する疑いがあったところから、
一般の標準を示したもので「絶対に之を励行すへき性質のもの」でないということを示す趣旨で
委員会において標題が施行準則に改められた(倉富勇三郎日記研究会編 前掲注(120),p.500)。
(125) 久邇宮邦彦王は、反対の理由として、倉富らに対し
「…此の準則に従ひ、年長者より順次臣籍に降り、入て大統を承くる者は皇位継承の順序より云へば下位に在る者なる様のことありては、継承の順序も此の原則の為め紊たされ、親族間にも不快の念を生する様の事あるに至るへし。殊に四人の皇子は今尚ほ御単身にて御子孫なく、且皇太子殿下の外、未成年にて皇族会議にも列せられさる故、愈々御子孫繁昌の事実確かとなり、皇子方の会議に列せらるゝ様になりたる後、之を定めらるゝ方適当と信する…」と述べた(倉富勇三郎日記研究会編 同上, p.520)。
(126) 同上, p.557.
(127) 「皇族ノ降下ニ関スル内規ノ件」前掲注(119)
(128) 宮内庁書陵部編纂 前掲注(68), p.193.
(129) 荒木 前掲注(15), p.164 掲載の読み下し文による。
(130) 『令集義』の本条に掲げられた注釈「古記」により大宝令にも「臣は五世王を娶ることを聴せ」という同文の規定があったとみなされている(荒木 前掲注(12), p.333)。
(131) 宮内庁書陵部編纂 前掲注(2), p.273; 藤木 前掲注(61), p.213. 宮内庁書陵部編纂 同は、現任の大臣又は良家の子・孫とするが、安田政彦『平安時代皇親の研究』吉川弘文館, 1998, p.30 は実例に照らせば子孫であると解されるとする。
(132) 宮内庁書陵部編纂 同上, pp.273-274.「延喜式 巻十二 中務省」に「凡そ諸王以上、臣家の女を娶りて妻となるは夫の品位に准ずるを得ざれ、その内親王及び女王も亦夫の品位に准ずるを得ざれ、但し五世の王は夫の品位に准ずるを得。」とある(会田 前掲注(61), p.666)。
(133) 「皇室典範皇族令草案談話要録」小林・島編著 前掲注(37), p.450.
(134) 伊藤隆・尾崎春盛編『尾崎三良日記 中巻』中央公論社, 1991, p.105.
明治 20(1887)年 4 月 18 日の日記に
「柳原ヨリ書面来ル。皇室法典調査条項中、皇女子孫ノ臣下ニ嫁スルノ臣籍ニ列シ皇族籍ヲ除クノ条アリ。甚不当ト思考スルニ付、英国等ノ例如何明示アリ度旨申来ル。」とある。
(135) 1871 年にルイーズ王女(Louise)は 1515 年以降に君主の娘として初めて英国貴族と婚姻し、
婚姻後も殿下(HerRoyal Highness)の敬称、王女の称号も維持し王族の身分を維持した
(山田 前掲注⟹101, p.8 参照)。
(136) 「皇室典範備考」小林・島編著 前掲注(37), p.468.
(137) 島 前掲注(37), p.90
(138) 「六月八日午前」『枢密院会議筆記 皇室典範議事筆記』前掲注⟹105
(139) 井上が挙げたこのドイツ諸邦の例は、
王女が対等婚制度の下で正当とされない王公族以外との婚姻をした場合に
平民の身分(Commoners)になることではなく、
王女が自身の王家以外の外国の王公族と結婚したときに、
自身の王家の一員の地位を失うことを言っていると思われる。
ただし、その場合には、王女は嫁ぎ先の王公家の一員となり
王公族の身分(Royals)は維持されるので、
我が国の制度とは異なるものである
(山田敏之「ヨーロッパ君主国における王位継承制度と王族の範囲―近年まで又は現在、男系継承を原則とする国の事例―」『レファレンス』802 号, 2017.11, pp.3-4. <http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10990713_po_080201.pdf?contentNo=1> 参照)。
(140) 「六月八日午前」前掲注(138)
(141) 「皇室典範試案」芦部・高見編著 前掲注(1) p.115;「臨時法制調査会第一部会関係会談要旨(第六回) 昭和二一、一〇、二五 終連、政、政」同, pp.163-164.
(142) 「皇室典範試案字句修正の理由」同上, p.121;「皇室典範試案(二一、一〇、二二)」同, p.123.
(143) 伊藤博文, 宮澤俊義校註「皇室典範義解」『憲法義解』(岩波文庫)岩波書店, 昭和 15 (1940), pp.132-133.
(144) 「皇室制規」は庶子の継承資格を認めるが(第 1)、
「皇族庶出ノ子女」が皇族であることを否認している(第 27)。
庶子である皇子の継承資格を認め、皇族の庶子の継承資格を否認する趣旨であろう。
なお、現存する「皇室制規」の 3 つの原本のうち
国学院大学図書館編『梧陰文庫 井上毅文書』
国学院大学所収の「皇室制規」は
この第 27 の条文の「皇族庶出ノ子女」を「皇孫庶出ノ子女」としているが、
宮内庁書陵部所蔵『秘書類纂 帝室』
(複製版:伊藤博文編, 伊藤博文文書研究会監修, 檜山幸夫総編集『伊藤博文文書』第 86 巻, ゆまに書房, 2013, p.174)
及び国立国会図書館憲政資料室所蔵『牧野伸顕関係文書』所収の「皇室制規」では、
いずれも「皇族庶出ノ子女」となっており、「皇孫庶出ノ子女」は誤記であると思われる。
(145) 第 91 回帝国議会貴族院皇室典範案特別委員会議事速記録第 2 号 昭和 21 年 12 月 17 日 p.5.




