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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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永世皇族の誕生②


「賜姓降下」の規定がないことについて枢密院では2日にわたる激論になった。

内大臣「三条実美」は、例えば百世というときは皇統から遠くなり、

皇族の人数も甚だ増加し、帝室よりの支給も行き届かなくなり、

皇族の体面に関することも起こらないとは限らない。

したがって、「桓武天皇」以来の成例により「賜姓降下」の余地を残すべきで、

将来「賜姓降下」の例に復することがあれば一度確定した典範の条規を傷付けることになる。

四世までを親王・内親王、五世以下を王・女王と規定する条文に、

賜姓降下を可能にするただし書を加えるべきだと主張した。

これに対し井上は、多少の支障があってもなるべく

「皇族の区域を拡張すること誠に皇室将来の御利益」であると主張した。

三条の意見に賛成の意見を述べる者が多く、

議長の伊藤博文は、臣籍降下を禁ずるものでないと発言したが、

三条からその発言が正しいか否かを問われた井上毅は、それを否定する。

最終的には多数決により原案どおり採択された。

【 「六月六日午前」同上 皇室典範案の枢密院審査は、明治天皇臨御の下に行われたが、

この両日の議事に関して「天皇始終之れを黙聴あらせたまひしが、数日の後久元を召して、前日の議は汝等の論ずる所正鵠を得たりと告げたまふ」と記録されている。(宮内庁編『明治天皇紀 第 7』吉川弘文館, 1972, p.75)。久元は土方久元(枢密顧問官、宮内大臣)のことで、原案に反対した】

こうして成立した皇室典範により、永世皇族制が確立した。

つまり、一代皇族と二代皇族も永世皇族となった。

その一方で、実系による四世までを親王・内親王、五世以下を王・女王とし(第 31 条、第 58 条)

現在の皇族で五世以下で親王宣下を受けている者は旧による(第 57 条)。

支系から皇位継承した場合の皇兄弟姉妹である王・女王以外への親王宣下の廃止(第 32 条)、

皇族の養子の制の廃止(第 42 条)を規定し、

世襲親王家の制度は廃止された。

そして最近、三笠宮の継承において、そもそも宮家とは何か?についても、明治の皇室典範では以下のように解釈されている。

「皇族は総て天皇の下に一大家族を為し、姓氏の別なし。

皇族は宮号を称すと雖も、宮号は勅旨に依り其の人に賜はる称号にして家名に非ず。

宮号は父子或は之を継承すと雖も、是れ唯称号の継承に止まり、家督相続に非ず。

皇族には遺産相続あるも家督相続なし」と解釈された。




皇室典範制定から9年後の1898年、

内閣総理大臣「伊藤博文」は皇族及び皇室に関する意見書を天皇に奉呈した。

その中で皇室典範制定の際に臣籍降下の規定を設けられなかったのは間違いだったと述べる。

やむを得ない事情があったからだと事情を述べ、

帝位から数世を経た皇族を華族とする制度を立てなければ、皇位継承資格者が増加し、

皇室有限の財力で保護し、永遠にその地位を持続させることも望めないとして、

皇族制限の法の制定が急務であることを主張した。

皇室典範制定のちょうど10年後、1899年、宮中に帝室制度調査局が設置され、

皇族制限の法を制定する作業が進められた。

しかしながら、作業が遅々として進まない中、新たな宮家がまたぞろ続々誕生し始めた。

1900年に「賀陽宮」、

1903年に「東伏見宮」、

1906年に「朝香宮」「竹田宮」「東久邇宮」の宮家が創設された。

これらは皇族制限の法が出来る前に作っておこうという駆け込みの意味合いが大きい。

「朝香宮」は「久邇宮朝彦親王」の王子、鳩彦王、

「竹田宮」は「北白川宮能久親王」の王子、恒久王、

「東久邇宮」は「久邇宮朝彦親王」の王子、稔彦王が

明治天皇の皇女との婚姻に先立ちそれぞれ賜った宮号である。

1907年、伊藤博文は皇室典範の抜本的改正は諦め、帝室制度調査局ある草案を策定した。

五世以下の王が、勅旨又は情願により家名を賜って

華族に臣籍降下することを可能とする皇室典範増補案だ。

同案は伊藤博文の後押しでやっと起草され、枢密院の審査も速やかに経て無事成立した。

俗に言う明治40年の皇室典範増補である。

これは1889年、井上毅の奇策によって挿入された永世皇族制を、

伊藤博文が18年懸けてやっと制限を加える事が出来た画期的な臣籍降下条項である。

そして、臣籍降下した皇族は、再び皇族に復することができないことも規定された(第 6 条)。

この皇室典範増補は、

更に13年後の大正10年に成立する「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の叩き台にもなっている。

皇族数の制限に執念を燃やす伊藤博文の執念ともいえるだろう。

しかし、この大正10年の準則でも、皇族数を法律で制限することは出来なかった。

結局は天皇の勅旨での臣籍降下の許可を認めるにとどまり、

法律によって五世以下を強制的に臣籍降下させるところにまでは踏み込めなかった。

これから皇族数制限において更なるバトルが伏見宮との間で繰り広げられるはずだったが、

1909年10月26日、伊藤博文はロシアはハルピンで暗殺された。

満州・朝鮮問題について、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと非公式に話し合うための会議だった、

訪れたハルビン駅で、一人の青年にわずか4メートルの距離で撃たれた。

犯人は、大韓帝国の民族運動家、安重根ということになっているが、

あまりにも状況と検視結果の相違が大きく、とても安重根の単独犯行とは思えなかった。

それに、驚くことに、安倍首相暗殺との類似点が、非常に多いのに驚かされる。



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