皇籍復帰と親王宣下
天皇の場合「子が1世」「孫が2世」「曾孫が3世」「玄孫が4世」であるゆえ、
天皇の直系の玄孫までが律令制では皇親と見なされていた。
平安時代、第46代「淳仁天皇」にかけて、子女の多い天皇が続いたことにより皇親の数が激増した。
これを受けて傍系の皇親は一部の「一世親王」に至るまで臣籍降下させ、
一方で皇親に残すものを選別し「親王・内親王」の身位を授ける「親王宣下」が、
はじめて執り行われた。
第50代「桓武天皇朝」では
一挙に100人以上を賜姓して臣籍に降下させ皇子の降下も始められた。
次いで第52代「嵯峨天皇朝」では、
814年「弘仁5年の詔」にて、
財政負担軽減を目的に正式な「皇后」「后」「女御」などでない中小氏族の女子を、
生母とする皇子女を「源朝臣」の氏姓を与えて「臣籍降下」させた。
これ以降10世紀の第62代「村上天皇朝」まで「臣籍降下」が盛んに行われた。
なお「皇親」が一度「臣籍」に下ったあとに「皇籍」に復帰した例は16例ある。
①「和気王」(755年降下・759年復帰)
②「山辺真人笠」(764年降下・774年復帰)
③「厨真人厨女」(769年降下・773年復帰)
④「源朝臣是忠」(870年降下、891年復帰)
⑤「源朝臣是貞」(870年降下、891年復帰)
⑥「源朝臣定省」(884年降下・887年復帰)
⑦「源朝臣維城」(885年臣籍として生まれる、887年皇籍へ)
⑧「源朝臣斉中」(885年臣籍として生まれる、887年皇籍へ)
⑨「源朝臣斉世」(886年臣籍として生まれる、887年皇籍へ)
⑩「源朝臣兼明」(920年降下・977年復帰)
⑪「源朝臣盛明」(920年降下、967年復帰)
⑫「源朝臣昭平」(961年降下・977年復帰)
⑬「源朝臣惟康」(1270年降下・1287年復帰)
⑭「源朝臣久良」(1326年降下、1330年復帰)
⑮「源朝臣忠房」(1285年臣籍として生まれる、1319年皇籍へ)
⑯「清棲家教」(1872年降下・1888年復帰・再降下)
※⑥「源定省」(みなもとのさだみ)
※⑦「源維城」(みなもとのこれざね)は各々即位し
第59代「宇多天皇」
第60代「醍醐天皇」のことである。
親王宣下は2世王から皇位に即いた第46代「淳仁天皇」の「兄弟姉妹」が、
天平宝字 2年(758年)に詔により親王とされたのが始まりとされています。
賜姓降下の急速な拡大に伴い親王たるべき皇子女を特定する宣下を行うことが次第に慣例化し、
ついには皇子女でも改めて宣下を受けなければ親王・内親王と称することができなくなった。
その一方で2世以下の諸王でも宣下を受けることで親王となることが可能となった。
また、平安時代初期以降、
皇子女及び皇孫の出家が行われ、
平安時代末期の院政期以降その例が増加した。
鎌倉時代になると、
皇室の所領である荘園の一部を経済基盤とし、
世襲することによって天皇から経済的に独立した宮家の原型が発生する。
江戸時代の中期にかけて「桂宮」「栖川宮」「閑院宮」が加わり合計四宮家の体制となる。
一方「臣籍降下」は行われなくなり、
「皇位」及び「宮号」を継承しない親王は出家して門跡となり子孫を残さなかった。
「世襲親王家」当主となる男子は親王宣下が受けられるため、
皇位を継ぐ嗣子が途絶えたときには皇位を継ぐ控えの役割を果たしていた。
結果的に親王宣下さえ受ければ永世にわたり皇親に留まることができるため、
伏見宮は650年も皇位から離れていても皇親に留まることとなった。




