カペー朝と伏見宮の謎②
親王とは、東アジアにおいて、嫡出皇子の男子に与えられる称号です。
もともとは中国諸王朝において用いられた呼び名であり、日本やベトナムでも採用されました。
非漢字圏では、単純にプリンスの訳語として用いられる事もあります。
親王宣下とは、天皇の命によって、特定の皇族を親王や内親王とする、宣旨のことです。
この時、実子である必要はありませんが、宣下される前に養子縁組するのが通例となっています。
平安以降、明治の皇室典範が制定されるまで行われていましたが、明治の皇室典範以降は廃止されました。
親王宣下を受けた皇族の男は、その実家である宮家を世襲で継ぐわけですが、元来、皇親は4世までと大宝律令では定められており、5世以降の皇族は姓を賜り、臣籍降下して地方の豪族となるのが通例でした。
平安以降、親王宣下を受けることにより、宮家を世襲で継ぐことも可能となりましたが、親王宣下受けたところで、その子の血が生物学的には天皇の血でないことには変わりありません。
遠い祖先まで遡れば繋がっている神武天皇の男系も、親王宣下では単に天皇と疑似親子になるだけで、皇統が本当に継げるかといえば、怪しいものでした。
実際、皇位は父系で受け継がれ、その継承が実系である事は、皇位継承の最重要ファクターでした。
天皇の男系の継承は神武天皇以来、まれに血縁近親者への継承もありましたが、原則父子で継承されるものでした。
室町時代、実系ではない世襲親王家の、実子でない親王が天皇と仮想親子となりました。
しかし天皇の血統は実系で継承され、世襲親王家から即位したは江戸末期に閑院宮から光格天皇が出るまで、伏見宮の後花園天皇の1例のみでした。
ゆえに、世襲親王家は、実際、皇位から血統的には遠くなる一方でした。
大宝律令より日本では皇親と呼べるものは四世までです。
世襲親王家といえども皇親の地位を保てるのは本来ならば四代まで、ゆえに五代目当主は、天皇の実子を天皇家から養子に迎い入れる必要があった。
しかし、現実の世襲親王家はそうしなかった。
ゆえに現在、旧宮家の男子は祟光天皇まで遡らねば男系が繋がらない20世孫です。
この男系の血の遠さが、旧宮家の正当性が下げています。
少なくとも、旧宮家の男子の皇位継承順位は、東山天皇の男系や後陽成天皇の男系の下位であるのが順当でしょう。
江戸時代、大坂の学問所懐徳堂の儒学者であった中井竹山は、松平定信からの諮問に答えた『草茅危言』の中でこう述べている。
「四親王家について、年暦を経るに従って関係も次第に遠くなり、数百年後に皇位を継承するとなったとき、皇族とはいえ、遥かに隔たることになってしまう」
明治の皇室典範草案会議で、皇族の範囲を大宝律令継継令の4世までに戻すよう主張した柳原前光枢密院顧問は、皇室典範作成会議で皇族の世襲は封建時代の因習であると言った。
私は現代において、最も直近まで皇族であった旧宮家が、皇族以外の中で、最も皇位継承順位が高いということに違和感を覚える。
皇族であることよりも、実系の近さの方が、皇室維持のためには重要であると思うからである。
現代の皇室典範は中井竹山や柳原前光の意見を尊重し、変更すべきであると思う。
ところで、日本の皇統は2600年以上続いているわけだが、悠仁親王殿下以外に次世代の皇位を継承する者がいない。
旧宮家の男子養子案なるものが出ているが、しかし、旧宮家の男系は600年20世代40親等も今上天皇と離れている。
その皇位継承に果たして世論は納得するのだろうか。
いいサンプルがフランスにある。
フランス王家におけるヴァロア朝アンリ3世(1551~1589)からブルボン朝アンリ4世(1553~1610)への王位継承は、カペー朝9代ルイ9世(1214~1270)まで遡って、10世代、21親等、319年も隔たった継承であった。
この1589年の王位継承は、フランス諸侯の推挙で成立したが、今日、日本の皇位継承問題における養子縁組案は、この時のフランスの王位継承の倍の遠さである事は国民がわかっているのだろうか。
つまり旧宮家への皇位継承は20世代、40親等、600年の隔たりがあるのであるということである。
果たしてフランスのように、世論に受け入れられるのであろうか?
私は無理だと思う。
世襲親王家は当主以外の男を皆、門跡へ入れた。
世襲親王家は代々実子をとうしゅとし、親王宣下によって親王としてきたので、天皇家の男系とは代を重ねるたびに遠くなった。
たまに世襲親王家の男子が早死にし跡継ぎを残さず血統が途切れたとき、皇室から皇子を養子に迎い入れらた。
しかし残念ながら、天皇からの養子も早死にし、男系は続かず、結局、伏見宮以外の世襲親王家は全て断絶してしまった。
伏見宮の男も前述通り祟光天皇20世男系男子となってしまった。
そんな中、例外的に天皇家皇子が臣籍降下し、養子で入った摂家において、現代まで男系が続いている家が幾つかある。
これが皇別摂家と呼ばれる家です。
ただ旧宮家支持者の多くが皇別摂家は皇位継承ができる家だと認めていない。
何か大人の事情があるのでしょう。
現在、血統だけ見れば、皇別摂家である東山天皇流の男系が血統的には一番皇位に近いのですが、皇位継承の意思があるのかどうかすら、聞けていない。
もし彼らに皇位継承する意思がないのなら、次に男系が近いのは、後陽成天皇の男系になる。
でも、そちらにも、皇位継承の意思の有無を聞いてはいない。
次に男系が近いのが旧宮家の男子、祟光天皇の男系男子です。
なぜかここにだけ皇位継承の意思を聞いている。
誠に妙な話である。
フランス・カペー王朝は1328年に直系の男子が途絶えると、2代前父の次男の嫡男フィリップ6世を王位に付けました。
これがヴァロア朝です。
ヴァロア朝シャルル8世が1498年、嫡男を残さず逝去すると、やはり、4代前父の次男の嫡孫がルイ12世になりました。
ルイ12世が1515年、嫡男を残さず逝去すると、2代前父の公爵の次男の嫡孫がフランソワ1世となりました。
フランス王室は世数の近い傍系の男子の順に王位継承の権利が与えられた。
このやり方で男系は1,000年たっても途切れない。
日本も昔は同じようなシステムでした。
それが室町に世襲親王家ができてから「血の濃さ」よりも宮家という「家柄」を重視するようになってしまった。
これが今日の皇位継承を難しくした封建時代の因習です。
フランス王室では、1589年アンリ3世が暗殺され、彼に子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶します。
この時には男系男子を求めて319年男系を遡り、カペー朝の第9代聖王ルイ9世の血統につながるブルボン家のアンリ・ド・ブルボンがアンリ4世となりブルボン王朝を開きました。
このときの継承がフランスでは最も遠い男系継承で、21親等継承でした。
フランスは日本のように親王宣下もなく、世襲親王家もありません。
男系血統の近さで皇位請求者が定められ、最終的には諸侯の話し合いで決定したのでスッキリしています。
時のフランス王の男系男子が、領地と爵位をもらって、地方で独立した家を構えていたから、王位候補者は地方にいくらでもいたわけです。
日本でも大宝律令・継嗣令で、皇親の範囲は4世までと定め、5世以降は臣籍降下して、地方に降っていましたから、地方には源氏や平氏といった皇別氏族の皇位請求権者がたくさんいました。
第26代継体天皇はそういうシステムの中で選ばれました。
そのシステムが壊れたのは、室町時代、世襲親王家が出来てからです。




