カペー朝と伏見宮の謎②
「親王宣下」(しんのうせんげ)とは、天皇の命によって特定の皇族を親王や内親王とする制度です。
平安時代以降、明治の皇室典範が制定されるまで行われていました。
「親王宣下」では、天皇の正式な意思が示されることで、皇族の子女に親王や内親王の地位が与えられました。
「宣下」(せんげ)とは、天皇が「宣旨」(せんじ)を下すこと、または宣旨が下ることです。
「世襲親王家」(せしゅうしんのうけ)とは、代々天皇の猶子(養子)となって親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続ける宮家を指します。
それでは、親王とはなんなんでしょうか?
親王は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。
もともと中国諸王朝において用いられ、日本やベトナムにおいても採用された。
これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。
いかがでしょうか、親王宣下、世襲親王家、がどのようなものかわかったと思います。
それでは、当主が宮号を名乗り、かつ親王宣下をこうむって世襲したことが、明確に確認できる宮家の初例はどこだったのでしょうか。
それは、亀山法皇の皇子である恒明親王(1303~1351)に始まる常盤井宮だそうです。
親王宣下とは前述した通り、天皇が特定の皇族に親王や内親王の地位を与える儀式のことですが、当然、親王宣下受けたところで、その当主の流れてる血が、生物学的に変化するわけではありません。
日本において父系で受け継がれている天皇の血は、なるべく、その継承が天皇から実子へと引き継がれることで正当性が保たれてきました。実子では無理な状況では、兄弟や従兄弟といった継承でしのいできました。
室町時代に入り、実子ではない世襲親王家の当主が、遠い先祖の天皇から受け継いだ男系男子の血によって、仮想親子となる親王宣下の儀を受ることによって親王となり皇位継承資格を得ていた。
しかし男系の血は現天皇から遠くなる一方であった。
日本には古来より「祖宗の制」というものがあり、皇親と呼べるものは四世までとの暗黙の了解があった。
世襲親王家の当主がリアルに皇親の地位を保ちたかったならば、五代目当主には必ず天皇の実子を養子に迎い入れなければならなかった。
しかし、世襲親王家はその義務を怠った。
世襲親王家、旧宮家の男子は祟光天皇20世にまで血が遠くなってしまった。
ひとえに男系血統のアップデイトを怠たった結果である。
男系の血の遠さが原因で皇位継承順位が下がるのはやむを得ない。
旧宮家の男子の皇位継承順位が東山天皇の男系男子や後陽成天皇の男系男子の下位に落ちるのは日本の祖宗の制上、当然の事である。
江戸時代、大坂の学問所懐徳堂の儒学者であった中井竹山は、寛政元(1789)年に松平定信からの諮問に答えた『草茅危言』の中でこう述べている。
「四親王家について年暦を経るに従って関係も次第に遠くなり、数百年後に皇位を継承するとなったとき、皇族とはいえ遥かに隔たることになってしまう」と。
今日の問題を中井竹山は江戸時代に既に指摘していた。
明治の皇室典範草案会議で、皇族の範囲を大宝律令継継令の4世までに戻すよう草案に書いた柳原前光枢密院顧問(大正天皇の実母、柳原愛子の兄)は皇室典範作成会議で皇族の世襲は封建時代の因習であると喝破し現代において、最も直近まで皇族であったからという理由で皇位継承順位を決めるべきではなく皇族であることよりも男系の血の濃さの方が重要である、と述べた。
私などは明治に作られた永世皇族制は欧州の王室制度の模倣であり、現代の皇室典範は中井竹山や柳原前光の意見を尊重すべきであると思う。
ところで、日本の皇統は2600年以上も続いているわけでだが、悠仁様以外に次世代の皇位を継承する者がいない。ゆえに旧宮家の男子養子案なるものが出てくるわけでだが、しかし、旧宮家の男系血統は600年20世代40親等も今上天皇と離れている事を何故か議論しない。
その皇位継承に果たして世論は納得しているのだろうか。
フランス王家におけるヴァロア朝「アンリ3世」(1551~1589)から、
ブルボン朝「アンリ4世」(1553~1610)への継承について考察してみたい。
カペー朝9代ルイ9世(1214~1270)まで遡っての、なんと10世代、21親等、319年も隔たった王位継承が中世のフランスにおいてあった。
この1589年の王位継承は、諸侯の推挙で成立した。
今日、皇位継承問題における養子縁組案では、このときのフランスの倍、20世代、40親等、600年、もの隔たりのある旧宮家の男子を皇位継承資格者にしようとしているのです。
フランスのように世論に受け入れられるのでしょうか?
私は無理だと思っています。
フランスと違い、天皇家は室町時代に、世襲親王家というものを作ってしまった。
その当主は「親王宣下」という儀式をするだけで皇位継承資格を得た。
しかし、実際は、男系の血は天皇に近くはならない。
しかし、この世襲親王家では当主以外の男子は門跡へ入れられ胤は残せなかった。
そのせいで、天皇の血の繁栄は止まり、世襲親王家と天皇家はどんどん男系の血は遠くなった。
たまに世襲親王家の男系男子が途切れたとき、皇室から皇子が世襲親王家に養子入れらが、結局、伏見宮以外の世襲親王家は断絶してしまった。
伏見宮も現世代は祟光天皇20世と遠い男系となってしまった。
ただ、そんな中、例外的に天皇家皇子が養子で入った摂家が2つあり、現在も男系が続いています。
これが皇別摂家と呼ばれる男系血統の氏族なのです。
それでも一番近い男性で21親等と天皇と離れています。
ただ旧宮家の男子は40親等も離れているので、それよりはマシであるという理屈で、現代の皇位継承議論では、一部の識者に強く支持されています。
ただ旧宮家が裏で糸を引いてるとしか思えませんが、皇別摂家男子は、皇位継承の候補にはほど遠い存在なのが現状です。
本来、男系の血が天皇により近い男子が、皇位継承候補の第一位になるものです。現実は宮家とそれ以外で大きく区別され、そうはなりません。皇位継承は男系の血の濃い順で決まるのが一番理解が得やすいと思うのですが何か大きな障害があるようです。
理想では東山天皇の男系男子に皇位継承の意思があるかを尋ね、もし即位する意思がなかったら、次に男系が近い後陽成天皇の男系男子に即位の意思を聞く。もし、それも断られたら、次に男系が近い祟光天皇の男系男子に即位の意思を聞く。それが、皇位継承の正当な順番というものです。
フランス・カペー王朝は1328年に直系の男子が途絶えると、2代前父の次男の嫡男「フィリップ6世」を王位に付けました。これがヴァロア朝です。ヴァロア朝「シャルル8世」が1498年、嫡男を残さず逝去すると、やはり、4代前父の次男の嫡孫が「ルイ12世」になりました。「ルイ12世」が1515年、嫡男を残さず逝去すると、2代前父の公爵の次男の嫡孫が「フランソワ1世」となりました。フランス王室は世数の近い傍系の男子の順に王位継承の権利が与えられたので、男系は1,000年たっても途切れないのです。
日本も13世紀までは同じでした。それが世襲親王家ができてから「血の濃さ」よりも宮家という「家柄」を重視するようになってしまった。これは日本固有の伝統のようで、封建時代に出来た因習のようでもあります。もし本来の日本の姿でないのなら、改められるべきでしょう。
フランス王室では、1589年「アンリ3世」が暗殺され、彼に子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶します。
この時には男系男子を求めて319年男系を遡り、カペー朝の第9代「聖王ルイ9世」の血統につながるブルボン家の「アンリ・ド・ブルボン」が「アンリ4世」となりブルボン王朝を開きました。
このときの継承がフランスでは最も遠い男系継承で、21親等継承でした。
フランスは日本のように特定の嫡子に親王宣下する事もなく、世襲親王家もありませんでした。
男系血統の近さで皇位請求者が定められ、最終的には諸侯の話し合いで決定したのです。
男系男子が、領地と爵位をもって地方で独立して家を構えていたから、候補者は地方の豪族であり、王の血を持った王位請求権者だったわけです。
日本でも古代は大宝律令・継嗣令で、皇親の範囲は4世までに決めて、平常時は5世以降は臣籍降下して、地方に降っていました。だから、地方には源氏や平氏の男系男子は皇位請求権者でした。
彼らは賜姓皇族と呼ばれ、皇統断絶時には、皇位継承者候補として機能していました。
そのシステムが壊れたのは世襲親王家が出来てからです。