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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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ヨリヒト



⑪ <ヨリヒト>

ヨリヒトは1867年、明治維新の前年の生まれで、伏見宮邦家の第17王子、つまり末っ子です。

宮家当主となった邦家の11人の王子の中で最も年下で、

正式には東伏見宮依仁親王、明治維新の時は1歳であった。

ヨリヒトは、明治政府の政策に直接的に関与するような役割を担った記録はない。

しかし、東伏見宮家を興した経緯は重要だ。

なにしろ、ヨリヒトは、養父と仲が悪いから、明治政府に新宮家を作らせた皇族だったからだ。

あと、ハワイのカイウラニ王女との縁談の受け入れを明治政府が断った件などは、

知っておく必要がある。

皇族としての立ち位置は1870年に兄のアキヒトが「小松宮」を創立し、

ヨリヒトは、一旦はそこの養子に入った。

アキヒトは、邦家の第8王子の彰仁のことで、1846生まれだから21歳年上の兄となる。

1881年、彰仁親王は永世皇族となる。

もともとは一代限りの皇族であった。

1885年、子どものいなかった彰仁親王は、伏見宮邦家親王の第17王子依仁親王(当時の名前は定麿王)を養子に迎えた。

しかし、しだいに依仁親王を排除し、北白川宮能久親王の第4王子輝久王を後継者にしようと考えるようになった。

1902年、宮内大臣の田中光顕に臣籍降下し、輝久王を養子に迎えることを願う。

田中が難色を示すと、彰仁親王本人が臣籍降下を断念する代わりに輝久王を臣籍降下させて侯爵として、財産を相続させて、依仁親王を別家させることを願った。

その結果、1903年、依仁親王との養子縁組は解消されて、依仁親王は東伏見宮家を創設した。

ただし、輝久王の臣籍降下は認められなかった。

1903年、彰仁親王は薨去、頼子妃らは輝久王の小松宮家相続を願ったものの、認められなかった。

そのため、小松宮は一代で絶家することになった。

しかし、1910年、輝久王は臣籍降下し、小松輝久侯爵と名乗り、小松宮の祭祀を継承した。

ヨリヒトは東伏見宮を1903年、復活させる形で新宮家当主となった。

ヨリヒトが明治政府の政策に直接的に関与した記録は確認されていませんが、

カラカウア王が明治天皇と会見した際、

姪のカイウラニ王女とヨリヒト(当時山階宮定麿王と呼ばれていた)の縁談が持ち上がりました。

しかし、明治政府はこの縁談を断りました。

1922年にヨリヒト死去。

東伏見宮家は廃絶された。

1869年、兄宮・山階宮晃親王の養子となる。

1877年、海軍兵学校に予科生として入学する。

1884年、海軍兵学校を中退し、イギリス留学に出発する。

1885年、小松宮彰仁の養子となる。

1886年、親王宣下を受け、明治天皇猶子となり名を依仁と改める。

1887年、イギリスからフランスに移り、ブレスト海軍兵学校に入学する。

1890年、海軍少尉に任官する。

1892年、帰国する。

1903年、小松宮彰仁親王の願い出により、新たに東伏見宮を創設した。

1911年、英国ジョージ5世の戴冠式に東郷平八郎、乃木希典を随員として参列。

1918年、海軍大将に進む。

1922年、56歳で薨去。



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