コトヒト
⑩ <コトヒト>
閑院宮載仁は1865年生まれで伏見宮邦家の第16王子です。
コトヒトは邦家の宮家当主となった11人の王子の中で上から10番目の王子で、明治維新の時は3歳でした。
コトヒトが7歳のとき閑院宮の男系が途切れた。
コトヒトは伏見宮から閑院宮へ養子に出され、閑院宮6代目当主となった。
1878年、13歳で親王宣下を受けフランス留学:。
フランスでは、軍事知識を深め、帰国後は、陸軍の要職を歴任しました。
コトヒトは明治政府のもとで皇族として、
軍人となり、騎兵旅団長や師団長、最終的には陸軍大将、元帥、参謀総長を勤めた。
しかし、日本が太平洋戦争で敗れた1945年5月に死去した。
コトヒトの軍人としての評価は若い頃こそ高かったかもしれないが、
昭和以降の彼の評価は低いものだった。
彼こそ日本敗戦の元凶だという評価さえあります。
コトヒトは1912年、陸軍大将、1931年、参謀総長となりました、陸軍のトップです。
明治政府はコトヒトのような皇族が近代国家の枠組みの中で軍事などの分野で活躍する道を望みました。
皇族の軍人化は、明治政府が皇室と軍隊を統合しようとした近代化政策の一環でした。
コトヒトは戦場に赴き、
第一線で命を賭して戦い、
陸軍の要職を歴任した。
陸軍幼年学校で軍人としてのスタートを切ったコトヒトは、
フランスに軍事留学、士官学校・騎兵学校・陸軍大学校で軍務を習得。
1894年、日清戦争では伝令将校として従軍した。
1904年、日露戦争、本渓湖の戦いにおいて、日本軍の勝利に貢献しています。
1931年、陸軍の最高位となる参謀総長に就任しました。
日清日露以来の戦闘経験のあるコトヒトは大正期には皇族軍人の長老筆頭として、
皇太子ヒロヒト親王の欧州外遊に随伴しました。
外遊では常にヒロヒト親王の身辺にあり、その先導や護衛の任を勤めた。
皇太子時代からヒロヒト親王の信任が篤いと思われたコトヒトであるが、
昭和期になってからは時代に対応できない無能な皇族としての印象を残した。
1931年12月23日に参謀総長となって以後の言動は天皇の心証を害し続けた。
コトヒトが参謀総長になった背景は、昭和6年の3月事件、満州事変があった。
軍規の乱れを皇族の権威で正そうという意図があった。
3月事件の際には、元老西園寺は、天皇、秩父宮、コトヒトらによる軍の統制を期待していた。
満州事変の際には、若槻首相は軍の統制にコトヒトの努力を煩わすも一法成り、と述べていた。
しかし、コトヒトが参謀総長になった2ヵ月後、226事件が起きた。
コトヒトは政治的には無能に近く、陸軍内の派閥抗争に巻き込まれた。
皇道派の真崎更迭に関わったとみなされ、皇道派の青年将校の反発を買った。
コトヒトが226事件のおり、小田原の別邸にいて28日まで帰ってこなかったのは
青年将校からの攻撃を避けるためであったとさえ言われている。
昭和天皇をもっとも失望させたのは、
昭和天皇に対する一部の陸軍将校のクーデターである「二・二六事件」発生時、
71歳だった親王は病気療養として、小田原にあった別邸にこもって、重病ではなかったらしいにも関わらず、東京にすぐに戻ろうとはせず、秩父宮雍仁からの強い帰還要請を受けて、はじめて帰京するというありさまであったことだ。
1871年、6歳で伏見宮に復籍。
1872年、閑院宮家を継承する。
1877年、陸軍幼年学校に入学。
1878年、親王宣下され、載仁親王と称した。
1883年、フランスへ留学。
1891年、帰国。
1901年、陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長に就任。
1904年、満洲軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後、陸軍中将に進級した。
1912年、陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥府に列した。
1921年、皇太子裕仁親王の欧州外遊を補導すべく随行した。
1931年、参謀総長に就任。
1936年、二・二六事件発生時には、その対応の拙さから、昭和天皇の叱責を受けた。
1940年、米内内閣を倒閣させた。
1945年5月20日、宮別邸にて79歳で薨去した。




