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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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サトナリ


⑧ <サトナリ>

邦家の8番目の王子は北白川宮智成親王です。


サトナリを語る場合、わずか17歳で薨去した親王の業績を見ても、これと言って語るものはない。

されど、サトナリが北白川宮初代だという肩書きには重みがある。

サトナリは1856年生まれで、最初、聖護院宮を継いでいた。

聖護院宮は、既に前述した邦家の第2王子のヨシコトが創設した宮家である。

ヨシコトは1868年9月26日に薨去した。

丁度時を同じく1968年11月9日に大政奉還が起きる。

この時、ヨシコトには子がいなかった。

そこで邦家の第13王子サトナリが聖護院宮を継承した。

この時、サトナリ12歳であった。

その後、サトナリは名称が寺院臭くて嫌だと北白川宮に改称した。

サトナリは、明治維新後に聖護院門跡から還俗して北白川宮の初代となりましたが、

1872年に17歳で死去しました。

この時、遺言で異母兄の能久親王が北白川宮を相続した、と資料ではなっているが、

果たして遺言一つで一代宮家の規則が変更されるものだろうか?

当然、サトナリには子はおらず、北白川宮は当然廃絶となるべき宮家であった。

しかし、謎の運動により、サトナリの9歳年上の兄である邦家の第9王子ヨシヒサが、

北白川宮を継ぐことになった。


これにより、維新で新たに新設された宮家は一代限りとする、という取り決めは、無意味となり、

なし崩し的に一代宮家の原則は破られることとなる。

全ての宮家が世襲で継承された。

全ては、この北白川宮によるサトナリのケースが元凶であった。

今日の皇室の混乱の元凶である永世皇族の道が開かれることとなった発端は、

この事例からだと言っても、言い過ぎではないだろう。

ここで少し明治における宮家編成過程を復習しておこう。

1710年閑院宮家の創設以来、

幕末に至るまでは伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮の4宮家がすべてであった。

桂宮だけは、すぐに男系が断絶したので、その都度、養子を皇室から迎い入れ、

八条宮→常磐井宮→京極宮→桂宮と変遷した。

桂宮は正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六皇子の智仁親王が祖である。

この宮家は、豊臣秀吉によって創設され、

智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、

秀吉に実子が生まれたため、

豊臣家を離れ新たに一家を立てたのである。

本邸跡は今も今出川通に面してあるが、

その別邸である桂離宮が京都八条通の沿線上にあったことから八条宮と呼ばれた。

①智仁親王(誠仁親王(陽光太上天皇)の王子で、後陽成天皇の皇弟)

→②智忠親王(智仁親王の王子)

→③穏仁親王(後水尾天皇の皇子)

→④長仁親王(後西天皇の皇子)

→⑤尚仁親王(後西天皇の皇子で、長仁親王の皇弟)

5代の尚仁親王に継嗣がなく、

霊元天皇の皇子である

→⑥作宮が継承して常磐井宮に改称したが夭折。

兄の

→⑦文仁親王が跡を継いで京極宮に改称した。

→⑧家仁親王(文仁親王の王子)

→⑨公仁親王(家仁親王の王子)の没後にいったん空主となる。

光格天皇の皇子の

→⑩盛仁親王が継承して桂宮に改称したが、没後、再び空主となるが、兄の仁孝天皇の皇子の

→⑪節仁親王が継ぐが夭折し、また空主となる。

1862年に姉の淑子内親王が継いだが

1881年に薨去。

ここに桂宮は断絶した。

ただし2代智忠親王の弟の広幡忠幸が興した桂宮家の分家の広幡家(源氏・華族)は、

宮家ではないが現在も続いている(男系子孫はこれも断絶している)。

話を戻すが、

桂宮を含めた4宮家は世襲宮家であった。

しかし、幕末、中川宮、山階宮の二つの宮家が創設され、

明治期には10の宮家が創設もしくは再興された。

それに比べ廃絶された宮家は桂宮と小松宮の二つだけであった。

つまり江戸期に4つに過ぎなかった宮家が明治期に10も増えた。

ここに今日の皇位継承問題の元凶が隠れている。

明治初期の宮家は、二つに分類される、一つは世襲宮家、もう一つは一代後続宮家である。

一代後続宮家とは、

その宮家の当主までは皇族であるが、

その嗣子は賜姓降下し、

そのとき宮家は廃絶となる宮家のことである。

もしこの明治初期の家格が守られていたなら、今日の皇位継承問題は起きなかったと私は思う。

なぜなら、源氏のような皇別氏族に、皇位継承資格が付与されていたに違いないと思うからである。

王政復古のクーデター後、宮家が世襲宮家と一代宮家に定められた取り決めが、

1868年4月15日の太政官布告によってである。

この布告は親王・王の規定を定めるとともに、宮家の家格を定めたものであった。

伏見宮、有栖川宮、閑院宮、の場合は従来どおり嫡子を天皇の養子とし親王宣下するとされ、桂宮は嫡子も養子の予定もなかったので、特に記載はなかった。

そして、他の宮家皇族を全て一代皇族とした。

その後、1870年12月10日に、更に具体的に、伏見宮、有栖川宮、閑院宮、以外の宮家は全て一代宮家とする内容の布告がされた。

この布告が破られたのが1972年3月23日の北白川宮のサトナリ→ヨシヒサの相続であった。

1860年、孝明天皇の猶子となり、聖護院門主雄仁法親王(後の聖護院宮嘉言親王)の附弟となる。

1866年、親王宣下を蒙り智成親王と命名され同月聖護院に入り得度して信仁入道親王の法名を名乗る。

1868年、明治維新に際して還俗し智成親王に戻り、照高院宮を号し、後に聖護院宮を継承。

1870年、宮号が聖護院門主と紛らわしいとの理由から北白川宮に改称する。

1872年2月10日、サトナリ没、享年17。

1872年3月23日、北白川宮、ヨシヒサに継承される。

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