ヒロツネ
⑦ <ヒロツネ>
邦家の7番目の王子ヒロツネと8番目の王子サトナリは、
ともに早世で、ヒロツネ25歳、サトナリ17歳で、薨去した。
問題は、ともに新宮家を、ヒロツネは華頂宮、サトナリは北白川宮を、
創設してしまってから、後継ぎを残さずに死去してしまったことだ。
更に間の悪いことに、
ヒロツネが死んだのは1876年、
サトナリは1872年であったこと。
明治の一代宮家に関する格付の太政官布告が発布されたのが、1870年。
つまり、新宮家世襲が禁止されてから2年とたたずに最初の宮家断絶が起きたってことだ。
誠にタイミングが悪い。
普通は決められた通り、
華頂宮も北白川宮も、断絶すべきであった。
しかし、北白川宮は兄ヨシヒサに継承され、
華頂宮も、ヒロツネ死後、第一王子ヒロアツに世襲された。
ヒロツネこと華頂宮博経は1851年生まれの伏見宮邦家の第12王子である。
1876年25歳で薨去したので、業績らしきものは残っていない。
明治維新の時、17歳であったヒロツネは、
明治政府の近代化政策の一環として、
海外の軍事を学ぶために米国に留学しました。
体調を崩して帰国し、
25歳で亡くなりました。
ヒロツネの兄達、
アキヒトとヨシヒサも、英国とプロイセンに留学し、軍事を学んでいますが、
これは政府が皇族の指導者育成のために推進していたものでした。
明治政府は、皇族の指導者育成を目的として、
海外への留学や視察を推奨していた。
1852年、1歳で出家、知恩院門跡となり、知恩院を相続、尊秀と号する。
1860年、孝明天皇の猶子となり、同日に徳川家茂の猶子となる。
1861年、博経の名を賜り、その翌日に親王宣下を受け、翌月に落飾、尊秀入道親王となる。
1868年、勅命により復飾し博経親王に復名、宮家を創設し、宮号を華頂宮とした。
その後は、和学校御用掛・弾正尹・議定・会計事務総督を歴任。
1870年、19歳でブルックリンに留学、皇族としては初めてアメリカ海軍兵学校に留学
1872年、東隆彦の名でアナポリスの海軍兵学校に入学し、海軍について学んだ。
練習艦での訓練中の負傷後に肺病を患い
1873年、病気帰国、南部郁子と結婚。
1875年、第一王子の博厚王が誕生。
1876年、海軍少将となるも、同年5月24日に薨去。
25歳没。
華頂宮家は、1868年にヒロツネ17歳のとき、創設された新宮家です。
初代の当主はヒロツネは他の王子と同じよう、
一旦は出家し知恩院門跡となっていた。
しかし明治維新、孝明天皇の勅命によって還俗させられ、
華頂宮家を創設されあてがわれた。
華頂宮への期待は大きかったようだ。
しかし、1876年、わずか25歳で薨去、
華頂宮は、わずか8年で断絶の危機に直面した。
明治初年及び3年に定められた皇族の範囲・賜姓皇族の方針によると、
世襲親王家以外の親王家は一代宮家と定められており、
父王死後の博厚親王は臣籍降下するはずだったが、
熾仁親王の請願による明治天皇の意向により皇族の身分を保ち、
1歳3ヶ月で家督を継いだ。
しかし1883年(明治16年)2月15日、
明治天皇猶子となり親王宣下を受けた同日、ジフテリアにより薨去。8歳没。
博厚親王は幼少であったために継嗣はなく、
伏見宮家から博恭王が入り華頂宮を相続する。
その後、博恭王は本流である伏見宮を継承するはずだった邦芳王が病弱であったため、
伏見宮に復籍し家督を相続。華頂宮は博恭王の第二王子、博忠王が継承することになる。
その後、第4代まで続くが、第4代の博忠王が嗣子を残さないまま亡くなったことで、
宮家として断絶した。
弟に博信王がいたが、旧皇室典範では、直系でなければ、宮家の継承が認められなかった。
そこで博信王は臣籍降下した。




