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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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ヨシヒサ


⑥ <ヨシヒサ>

ヨシヒサってのは、ヤバイ奴でね。

正式には北白川宮能久親王と呼ぶのだが、

伏見宮邦家の第9王子です。

弟の第13王子サトナリが兄の第2王子ヨシコトから継いだ北白川宮を更に継ぐわけだが、

まず、この継承の仕方がマズかった。

北白川宮は一代宮家だと格付された規則を破ったからだ。

それと、女にもだらしないらしい。

ドイツでドイツ女性の未亡人と婚約。

新聞発表までしといて、後から岩倉具視に説得されて破棄。

謹慎処分を受けている。

更に死後。

ヨシヒサには隠し子が二人いたようで、皇統譜にどう記載するかで大いに揉めたらしい。

このように問題の多い親王だったわけだが、

竹田恒泰の4代前父だということからもわかるように、

人騒がせなのは血筋だろう。

ヨシヒサはは1847年の生まれ。

明治維新の時は21歳。

明治初期の新宮家増設期のど真ん中世代なんだが、

最初、幕府側に加担したもんで、兄アサヒコとともに干されていた。


ふざけてるのは、真っ先に、一代宮家の掟を破ったのが、この北白川宮だということ。

ヨシヒサ以降、華頂宮がそれに続いて宮家を世襲した。

世襲禁止のはずの一代宮家が、なし崩し的に世襲容認へ変わっていった。

いわば今日に続く皇室問題の嚆矢となった宮家というわけです。

彼の人生の前半は、完全に幕府側でした。

担がれたという見方もあるが、どうだろうか。

兎に角、兄アサヒコ同様に維新後、敗軍の将として処分された。

1848年、1歳で仁孝天皇の猶子となる

1867年、20歳で江戸寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承し、輪王寺宮と称した。

1868年、21歳の時、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。

奥羽越列藩同盟に迎えられた頃、東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説がある。

戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟の盟主となり、

中央集権国家を目指していた明治政府と敵対した。

明治政府は戊辰戦争で幕府を破り、

ヨシヒサは敗軍の将となった。

そのため一時親王の身分も剥奪された。

しかし後年は許され、その後軍人となった。

1968年、9月15日、仙台藩は新政府軍に降伏し、

ヨシヒサも仙台藩からの連絡を受け取り、降伏文を奥羽追討平潟口総督四条隆謌へ提出。

実家の伏見宮家へ預けられた。

更に仁孝天皇猶子と親王の身分を解かれる処分も受けた。

1869年、9月4日に処分を解かれ、伏見宮に復帰し終身禄三百石を賜った。

1870年、10月10日に熾仁親王との同居を命じられる。

1968年、11月4日には宮号を称することが認められ、能久の諱に戻った。

12月にプロイセン(後のドイツ帝国)留学に出発した。


1872年、3月、早世した弟の北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続した。

サトナリは邦家の第13王子です。

サトナリは邦家の第2王子ヨシコトの聖護院宮を相続した。

その後、聖護院宮を北白川宮と改称した。

1872年薨去。

そして、その北白川宮を兄ヨシヒサが相続した。

問題は、この世襲が、一代宮家を定めた1970年の太政官布告に反することである。

1870年、12月10日に発せられた布告により

伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮、以外の新たに建てられた親王家は全て一代に限り、

二代目からは賜姓降下し、華族に列する、という決まりが布告された。

北白川宮サトナリが薨去した1872年は明らかにこの布告の有効期間だった。

にも拘らず、北白川宮がサトナリからヨシヒサに継承されたのは、明らかに規則違反であった。

しかし、北白川宮家の世襲は粛々と行われ、ヨシヒサはドイツへ行く。

ドイツではドイツ語を習得。

ドイツ軍で訓練を受けた後にプロイセン陸軍大学校で軍事を学習した。

1874年、陸軍少佐に任官。

1876年、なんとドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約。

1877年、明治政府に対し結婚の許可を申し出るが、

政府は難色を示し帰国を命じる。

帰国直前に能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため問題となったが、

結局7月2日にインド洋経由で日本に帰国。

岩倉具視らの説得で婚約を破棄。

7月26日から京都でまた謹慎する。

3ヶ月後に謹慎解除。

1878年、8月26日に仁孝天皇の猶子であることと、親王位に復帰。

ヨシヒサは明治天皇の命を受け、

大津事件の対応に当たるなど、人生後半は新政府に協力した。

明治政府が目指したのは、

中央集権的な富国強兵国家で、

ヨシヒサは、皇族の立場から協力し、

ドイツの軍事制度を、陸軍要職にて実践した。

第6師団長、陸軍中将に昇進した。

さらに、大日本農会の初代総裁や獨逸学協会学校設立にも尽力するなど、

明治政府が進める富国強兵政策に協力した。

1884年、陸軍少将、

1890年、貴族院皇族議員に就任した。

1891年、大津事件では明治天皇の名代として大津に赴き事件の対応に務めた。

1892年、中将に昇進し、第6師団長長となる。

また、獨逸学協会の初代総裁となり、後に獨逸学協会学校設立に尽力した。

同年4月、創設された大日本農会の初代総裁となった。

1893年、11月10日に第4師団長となる。

1895年、台湾征討軍の指揮にあたった。

台湾全土平定直前に台南にて薨去。


家女房や外妾など計5名の側室に、

都合10人の庶子あり、うちの8人が成人した。

第四王子の輝久王は臣籍降下して侯爵小松輝久となった。

第四王子の輝久王は、

伯父の小松宮彰仁親王が幼少の頃より我が子同然に可愛がっており、

アキヒトたっての願いにより、

小松宮の祭祀の継承と財産の相続が認められた。

1910年、輝久王が臣籍降下した際、

侯爵に叙すとともに新たに小松の家名が下賜された。

ヨシヒサの薨去後、

その後胤と認定された五男の芳之と、六男の正雄も、

それ以後は北白川宮家に引き取られ、

他の庶子と同様に養育された。

ヨシヒサの薨去後、

その外妾だった申橋カネと前波栄が、

それぞれ所生の芳之と正雄が親王の後胤だと名乗り出てきた。

そこで宮内省が入念な調査を行ったところ、

果たして両名とも確かに親王の五男と六男であり、

ヨシヒサも生前その事実を把握していたことが判明した。

しかし親王はすでに鬼籍にあり、

この両名を認知する旨を記した遺言書もなかったことから、

彼らを法的には親王の子として認知することはできず、

したがって皇族の一員となすこともできなかった。

一般の臣民であれば父親の死後でも、

その子が原告として検察官を相手取るかたちで、

強制認知の形成を提起する民事訴訟に持ち込むこともできたが、

皇室典範にはこうした事態を想定した条文はなく、

対応する手段を欠いたのである。

それでも北白川宮家では他の庶子と同様に富子妃がこの両名を引き取って養育することにした。

そこで平民の子供が宮家の一員として生活するという不都合を回避するため、

1897年、明治天皇は優諚により、

まだ満8歳と満7歳のこの両名を特に華族に列して伯爵に叙すとともに、

それぞれに新たに「二荒」と「上野」の家名を下賜した。

この両名は皇族としてではなく、

当初から華族の伯爵とされる。

当時は皇族の内規により、

原則として宮家に生まれた王は、

その宮家の継嗣となるか、皇女と結婚することで、

天皇の婿として新たに一宮家を創始することができない限り、

成人に達した後に、

臣籍降下し華族に列して一家を起こすことになっていたが、

この両名も王に準じるということで、

実質的にこの内規を前倒しにして適用したものと考えることができる。

なお二荒芳之は病弱で子をなさぬまま満21歳で卒去した。




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