アキヒト
⑤ <アキヒト>
さて、邦家の5番目の王子は小松宮彰仁です。
彼は1846年に伏見宮邦家の第8王子として生まれました。
明治維新の時は22歳でした。
アキヒトは明治政府が成立した直後、征討大将軍でした。
つまり、明治政府に従順な皇族の筆頭が彼だったと言っても差し支えないでしょう。
明治新政府の初期の軍事作戦を誰が指揮したか見てみましょう。
明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで明治新政府はアキヒトを征討大将軍に任命し錦の御旗を授与した。
明治7年(1874年)、佐賀の乱では征討総督として反乱鎮圧に当たりました。
明治10年(1877年)、西南戦争では旅団長として出征し反乱鎮定にあたりました。
これらの経歴を見てわかるように、
アキヒトは軍事面において大いに明治政府を助ける皇族だったということです。
その甲斐あって、
明治14年 (1881年)、家格が世襲親王家となり、
明治15年 (1882年)、小松宮の宮号を授けられました。
アキヒトは、三島で楽寿園の前身となる別邸を築いたことでも知られています。
楽寿園は、静岡県三島市にある市営の有料施設で、公園と動物園で構成される。
国の天然記念物と名勝の指定を受け、またジオサイトとして地形の特徴を認められている。
2011年(平成23年)6月26日には開園以来2000万人の入園者を記録し[16]、開園70周年の2022年、6月18日に入園者数2300万人に達した。
小松宮彰仁親王は、維新に際して、明治時代の日本陸軍の中枢を担いました。
称号を何度も変えていることもあり、小松宮の名はあまり広く知られていませんが、明治政府に対する功績では邦家の11人の王子の中ではトップクラスに入るでしょう。
アキヒトは仁孝天皇の猶子(養子)となった後、
仁和寺に入寺して親王宣下を蒙り「純仁法親王」を号します。
安政五年(一八五八)九月に仁和寺第三十世門跡に就任します。
当時、皇室や宮家の跡継ぎ以外の皇子や王子の多くは寺に入る風習がありました。
仁和寺は皇族が入る寺(門跡寺院)の筆頭格でした。
明治初め頃までは、京都の人々は「仁和寺宮さま」と呼んでいたのです。
幕末の慶応三年(1867年)12月9日、
王政復古の大号令に伴い、明治天皇から還俗を命じられ「嘉彰」と称し、
新政府の閣僚である議定に任ぜられます。
二十二歳の若さでした。
明治天皇を支える藩屏としてこの後多くの皇子・王子が還俗し、
宮家の創設を許されています。
明治維新の行方に大きな影響を与えた鳥羽伏見の戦いの日(明治元年〈1868年〉1月4日)
仁和寺宮は天皇から征討大将軍・軍事総裁に任命され、
錦の御旗と節刀を授けられ、新政府軍として東寺に陣を敷き、大阪に進軍しました。
錦の御旗の前に、旧幕府軍は大阪へ敗走したのです。
この後、アキヒトは明治3年「東伏見宮」と改称されます。
その後明治十五年に称号を「小松宮」名を「彰仁」に改めています。
小松とは仁和寺の寺域周辺の旧地名です。
明治時代には長く陸軍で活躍され、近衛師団長や兼議定官に任ぜられ、
日清戦争の時は参謀総長・征清大総督として出征し、後に元帥府に列せられます。
アキヒトが仁和寺を相続したのは3歳の時です。
13歳で戒を受けて僧となりますが、
仁和寺は平安時代以来、
皇族が門跡となることで継承されてきた京都有数の寺院でした。
アキヒトが門跡に必要とされる知識・作法を身につけるため仏道修行していた頃、
寺外の情勢は混乱を極めていました。
8歳の時に黒船が来航し、
13歳の時に安政の大獄がはじまります。
15歳の時に桜田門外の変がおこり、
尊攘派過激分子による「天誅」が相つぎました。
朝廷・幕府の間では調整がくり返され、
政局の中心が江戸から京都へ移っていきます。
慶応3年(1867年)大政奉還、幕府が朝廷に政権を返上した時、アキヒトは22歳でした。
徳川家の勢力を新政府に残そうとしたため、
討幕派により幕府廃止と新政府の樹立が強行されました。
いわゆる王政復古のクーデターです。
この日、親王は有栖川宮熾仁親王らとともに明治天皇の御前に召され、
俗人に戻るよう命を受けました。
新政府と旧幕府の間の緊張関係は予断を許さない状況でした。
旧幕府軍により江戸の薩摩藩邸が焼き打ちされ、
ついに両者が全面衝突することとなります。
戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いです。
緒戦では、薩摩・長州等の軍と旧幕府軍とによる「私戦」と見なされかねない状況でしたが、
アキヒトが征討大将軍に任じられ、錦の御旗と節刀を授けられた。
錦旗は朝廷の敵を征伐する官軍へ授けられた旗、
節刀は天皇の命を奉じて官軍を率いる将軍へ下賜された刀、
正統性の在り処を目に見える形で示したゆえ、
アキヒト軍は新政府軍、すなわち官軍とし、
旧幕府軍を「賊軍」とする構図が出来上がった。
寺を出てから1月で官軍の大将として出陣したアキヒトは、
歴史の転換点において重要な役割を担うこととなった。
1870年、宮号を東伏見宮に改める。
1874年、佐賀の乱においては征討総督として、反乱鎮圧に当たる。
1877年、西南戦争においては旅団長として出征し、乱の鎮定に当たった。
1881年、維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。
1882年、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。
アキヒトはヨーロッパの君主国の例にならって、
皇族が率先して軍務につくことを奨励し、
自らも率先垂範した。
1890年、陸軍大将に昇進、近衛師団長、参謀総長を歴任。
日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。
有栖川宮熾仁参謀総長が戦争中に病死すると、
その後任として参謀総長を務めた。
1898年に元帥府に列せられる。
国際親善にも力を入れ、
1886年にイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。
1887年にはオスマン帝国の首都コンスタンティニエ(イスタンブール)に立ち寄り、
同国の帝室(オスマン家)との交流のきっかけとなった。
この答礼として1890年に日本へ派遣されたオスマン帝国海軍のエルトゥールル号が、
その帰途に和歌山県沖で沈没した(エルトゥールル号遭難事件)。
1902年、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席した。
日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会、
などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作った。
また戦争犠牲者の救護に努め、明治十年には博愛社創設に力を尽くし初代総長となります。
明治二十年に日本赤十字社に改められると初代総裁となり赤十字社の発展に尽くしました。
上野動物園入口ゲートへ行く途中左手に、騎乗した小松宮の銅像があります。
赤十字社に貢献したことにより建立されたものです。
小松宮は明治三十六(一九〇三)年二月、五十八歳で薨去され、国葬とされました。




