サダノリ
④ <サダノリ>
今回紹介する伏見宮貞教は、邦家の11人の王子の中で、もしかしたら1番地味かもしれない。
27歳という若さで早世したからとも言えるが、
伏見宮の嫡男であったゆえ、アキラ親王やアサヒコ親王のように、自由奔放な性格には育てられなかったのだろう。
サダノリ親王は1836年生まれで、伏見宮第21代当主である。
邦家の第6王子ではあるが、成人した男子の中では、上からアキラ親王、ヨシコト親王、アサヒコ親王、
に次いで4番目の男子であった。
サダノリの実母は鷹司景子で邦家親王妃、つまり正妻である。
鷹司家というのは、五摂家と呼ばれる鎌倉時代以降、摂政・関白になる資格があった近衛、九条、二条、一条、鷹司の5つの藤原氏の家柄です。
これらは藤原氏の嫡流であり、公家社会における最高の家格でした。
由来は、もともとが藤原北家の流れを汲み、
摂政や関白の職を分担して務めた家柄で
藤原道長の家流が、
藤原忠通の代で、近衛家と九条家に分かれ、
その後、九条家から二条家と一条家が、
近衛家から鷹司家が分立しました。
家名の由来は、それぞれの邸宅の地名に由来します。
一条家:一条室町
二条家:二条京極
九条家:九条殿
近衛家:近衛殿
鷹司家:鷹司室町
邦家には景子妃以外に子を生んだ女房が9人いたが、
嫡子は景子妃の生んだ第6王子・貞教と、第十四王子・貞愛の二人であり、
必然的に貞教が伏見宮を継いで第21代当主となった。
しかし、27才で早死にしてしまったため、
一旦家督は邦家に戻り、その後、
十四男・サダナル親王へと継承された。
1842年、父の邦家の隠居に伴い、7歳で伏見宮を継承する。
1847年、仁孝天皇の猶子となる。
1848年、孝明天皇から親王宣下を受け貞教の諱を賜る
明治天皇が親王宣下を受ける1860年までの間
有栖川宮幟仁親王、有栖川宮熾仁親王、と並び、皇位継承の候補であった。
1862年薨去。享年27。
伏見宮は同母弟の貞愛親王が継承した。
サダノリと明治政府の関係は、
明治政府が伏見宮家を皇族として重視し、貞教を政治的な役割で遇したことにあります。
特に、明治天皇の「皇室典範」制定に向けた伏見宮家の皇籍編入を主導し、
皇族の規範となるよう指導しました。
明治初期、天皇の代替わりに伴う国体や政治体制を再編する中で、皇族のあり方が問われました。
明治天皇は、伏見宮貞教を皇族の一員として遇し、皇統の存続と安定化に重要な役割を担わせました。
政府主導で皇族の地位や役割を定めた「皇室典範」制定に向けて、貞教はその一員として参画しました。
サダノリは「東宮(後の明治天皇)」の教育係として、
皇室の伝統と格式を守ることに尽力しました。
貞教は明治政府の成立後も、皇族の規範となるよう、政府と密接に連携し、
皇室の伝統を維持・発展させるよう尽力した。




