実家訪問 八月
春くんのご両親との約束は、お盆あけの日曜日。
「手土産、これでいいかな?」
土曜日に美容院へ行った帰り。会社近くの知る人ぞ知るらしい和菓子屋さんで買ったのは、泳ぐ金魚を模した琥珀羹。
店員さんが包む前にスマホで撮らせてもらった写真を、春くんにも見せて。
「うん。いいと思う」
「……やっぱり、ケーキとかの方が良かった?」
良いと言われたのに、まだ迷うのは多分、緊張のせい。
「ケーキは……お母さんが買っているような気がする」
「だったら、重ならない方がいいか」
春くんの口ぶりでは、お母さんはケーキについて、こだわりのお店がありそう。
二人で電車に揺られて、楠姫城市の東側。蔵塚市との境に近い駅に着いたところで、春くんが家に電話を入れる。
そこからさらにバスに乗り換えて、目的地は三つ目のバス停から少し歩いたところ。
私の実家より少し大きめかなって感じのマンションで、春くんがオートロックを解除した。
エレベータで上がったのは、最上階である七階。
ワンフロアに四戸ってゆったりとした配置の一番奥へと、導かれた。
私の顔をちらりと見た彼の目に、覚悟を確かめられた気がして。『大丈夫』と、気合いを入れるように頷いて見せる。
頷き返した春くんの指が、そっとインターフォンを押した。
インターフォンからの返事がないまま、玄関ドアが静かに開く。
「いらっしゃい」
ドアを開けたのは、春くんのお母さん。生え際に少し白いものが混じっているけど、意志の強そうな大きな目と、溌剌とした声に気圧される。
"家族の健康を細やかに心配する優しいお母さん"ってイメージを、勝手に抱いていたけど。来るときに電車の中で春くんが言っていた"外科病棟を統括する師長さん"の雰囲気の方が、強いのかなぁ。
少し引けてしまってる気がする腰をなんとかしなきゃ、と考えている横で、春くんがいつもよりも硬い声で帰宅の挨拶をした。
そんな春くんにお母さんは、吐息のような笑い声をこぼして
「おかえり。さあ、どうぞ。上がって」
私たちを室内へと招き入れた。
靴を脱ごうとして、手土産の存在を思い出す。
「あの、これ。皆さんで」
ん? 皆さんで良いのか? 春くんのお姉さんって、帰ってきてたっけ?
間違えたかも……って思ってしまったら、それ以上の言葉が続かなくなって。語尾をごまかしながら、小ぶりな紙袋を、差し出す。
受け取ったお母さんが、
「あら?」
小さな声を上げて、袋を顔の前に掲げる。
え? 何か、マズかった?
思わぬ反応に、身体が熱くなる。
「とりあえず、上がろうか」
焦っている私に気づいてないらしい春くんに、そう促された。
いや、なんだか。上がらずに、このまま帰りた……。
「このお店! 行きたかったのよ!」
きゃーって歓声も、上がったかもしれない。
お母さんが嬉しそうに、はしゃいでいることに驚いていると、
「お母さん、この店、知ってたんだ?」
さっさと靴を脱いだ春くんが、訊ねる。その間に、私も靴を脱いで、上がらせてもらう。
「先月、えっちゃんと休みが重なって、行ってみたけど、休みでねぇ」
お母さんはどうやら、『知る人ぞ知るお店』のことを、知ってる人だったらしい。
「ハルちゃん。覚えてる? 学生の頃に、浴衣を直してくれた悦子さん」
「あ、うん」
「お母さんの言ってる"えっちゃん"が、あの人」
そうそう。お母さんの友達で、春くんにとっては親戚の小母さんって感覚だと聞いたっけ。
そんな話をしながら、お母さんのあとについて行って、リビングへと案内される。
LDKタイプのキッチンカウンター越しに、ヤカンを手にしたお父さんの姿が見える。
勧められるままにソファに腰を下ろしたところで、
「由梨、砂糖ってどこ? 見当たらないけど」
お父さんの訊ねる声に、お母さんが慌てる風でもなくキッチンへと向かった
「ごめん、出してなかったわ」
「だよな?」
「お砂糖と一緒にコーヒーは持って行くから、まっくんは先にケーキを運んでおいて」
「コーヒーも一緒に、オレが持っていこうか? 由梨は砂糖だけ持ってくればいいだろ?」
キッチンから聞こえてくる会話に
「お父さんが運ぶくらいなら、俺がするけど?」
春くんが、リビングから声をかける。
お父さんが仕事以外はできない人みたいに、春くんが言っていたことがあるけど。コーヒーを運ぶだけで、息子に心配されるなんて……。
あ、違うか。
二、三年ほど前に春くん、『歳のせいか、お父さんの足が弱ってきたみたい』って話してたっけ。
熱いコーヒーを運ぶのが、心配なんだろう。
「こっちは大丈夫だから、春斗は座ってなさい」
「はーい」
お母さんの言葉に素直に従った春くんが、キッチンの方へと捻っていた身体の向きを直して、私の顔を覗き込む。
「え? 春くん。なに?」
何かを言おうとしたらしい春くんが、口を開きかけたとき。
微妙に左右に偏りのある足音が近づいてきて。テーブルの横に立った人影に、目を上げる。
吊りぎみの目が、高い所から私を見下ろしている。
目が合った瞬間に感じたのは、さっきのお母さんとは比べものにならない、圧倒的な存在感。
「陽望さん……だったかな?」
よろしく、って言われて。
「は、はじめまして。に、丹羽、陽、望です」
自分の名前に、つっかえたのは、就職活動中の面接でもなかったけど。
仕方ない、と思う。
だって。
「は、春くん。おと……う、さん、って……」
「黙ってて、ごめん」
織音籠のギタリスト、MASAが春くんとよく似た笑みを浮かべて、応接セットのテーブルにケーキ皿を並べている。
その隣に、お盆を持ったお母さんもやって来て。
「ごめんね。驚かせて」
私たちの会話が聞こえていたらしく、私の前にコーヒーカップを置きながら謝る。
「あ、いえ。大丈夫です」
確かに驚いたけど。ご両親が並ぶとわかる。
お母さん似の大きな目に惑わされて、今まで気づかなかったけど。春くんって、どちらかといえば、お父さんの方に似てる。
それに、織音籠といえば。
「あの。柳原西高の……」
先輩ってことになる。卒業年度は、私よりも三十年ほど前だけど。
そう考えれば、世界の違う芸能人って感じが薄らぐ。ような、気がする。
「あら、陽望さんも、柳原西?」
「はい」
「私もなのよー」
後輩だわ、って。お母さんが嬉しそうに笑う。
そういえば、春くんのご両親、私と同じ蔵塚市の出身だし。尚太くんのお父さんと、三人で高校の同級生って聞いたような……。
ん? あれ?
「春くん。じゃぁ、尚太くんのお父さんって?」
お父さん同士が"同僚"ってことは、当然、織音籠のメンバーなわけで。
「RYOだよ。キーボードの」
カップの中をスプーンでかき混ぜていたお父さんが、なんでもないことのように答えてくれる。
ああ、そうか。
珠世の言っていた『育った環境が違いすぎた』っていうのは、このことか。
一人で納得している間に、お盆を片付けに行ってたらしいお母さんが、キッチンの方から戻ってきて、お父さんの隣に腰を下ろした。
改めて、春くんから紹介をしてもらって。
勧められるままに、フルーツタルトをいただく。これは、マンゴーかな?
お母さんが学生の頃にバイトしていたケーキ屋が、この近所にも支店を出したらしく、そこのオススメ商品だとか。
「コーヒーも、おいしいです」
「でしょ? 春斗から教えてもらった……ネコの喫茶店? じつはあそこに、ちょっと伝手があってね」
コーヒー豆を分けてもらえたらしい。
そうか。私が社会人になって二年ほどの間に、祖父母が相次いで亡くなって。それ以来、あの喫茶店には行ってなかったけど。
こんな味だったなぁ。
そんな話をしているうちに、今回の訪問のことになって。
「春斗ったら、大袈裟なんだから。軽く事実を伝えるだけで、よかったのに」
タルトを食べ終えたお母さんの大きな目が、春くんを睨む。
「いや、ムリだから。軽くなんて」
「そう?」
「そりゃぁさ、幼稚園からの付き合いだった、お母さんから見たら、お父さんがギタリストなのは当たり前のことだろうけど」
「まあね。まっくん、ギターを弾くことしかできないし」
ざっくりとお母さんにまとめられてしまった、お父さんの才能だけど。普通の人は、ギターが弾けませんって。あんな風には。
なるほどなぁ。春くんが言うように、子供の頃からの付き合いならでは……なのだろう。
そもそも、織音籠のMASAを"まっくん"呼びできる人なんて、この世に何人いるのだろう?
「世間の人は、そう見ないだろ? 現に、尚太は彼女に振られてるし」
あ、やっぱり。そんな理由だったんだ。
辛いなぁ。珠世も、尚太くんも。
「だから俺は、ハルちゃんから話が出るまで言い出せなかったし、それなりの覚悟も要ったわけだから。軽くなんて済ませられないよ」
春くんの声は。思い詰めたような色をしていて。聞いているこっちも、思わず息を詰めたけど。
「それでも、やり過ぎじゃない? 『彼女、連れてくる』って言うから、てっきり結婚の話かなって、思うでしょうが」
「俺は、このまま結婚の話をしてもいいけど?」
いやいや。親子でそんな、突っ走らないで。
焦った私の心の声が聞こえたかのように、
「そんなところ、お父さんに似なくていいから」
お母さんが、呆れた顔でストップをかけて。
「オレ? そんなこと、したっけ?」
急に話題に出されたお父さんが、首を捻る。
「覚えてないの?」
『いや、覚えてるわけないか。まっくんだし』って、額に手を当てて唸るお母さんに、
「痴話喧嘩か思い出話かわからないヤツは、俺たちが帰ってからにしてくれる?」
春くんが空になったカップをテーブルに戻しながら、話を遮った。
『お昼、用意してあるから』ってお母さんの言葉に甘えて、ご馳走になって。
帰りの電車を待つプラットホームで、
「ハルちゃん、改めて……なんだけどさ」
春くんが真面目な顔で言うから、こっちもなんとなく肩に力が入る。
「俺、あんなお父さんの息子だけど。結婚のこと、考えてくれるかな?」
そんな流れになりそうな気はしていた。駅への道を黙って歩く彼を隣で見ていて。
"そうなりそうな気"は、していたけど。
『はい、そうですか』って、そのまま話を進めるわけには、いかないよね。
「春くん」
"秘密にしていたお父さんのこと"を、覚悟を持って明かした春くんに、私も見せなきゃならない。
「結婚の覚悟があるなら……」
今度、私の両親にも会ってくれる?