ネコの喫茶店
新年度が始まり、春くんは社会人に、私は大学四年生になった。鵜宮市で就職した春くんは、卒業前に言っていたように一人暮らしを始めて。
バイトと卒論、それから就活の合間を縫って、彼の部屋へと遊びに行く。
「春くん。お盆のお休みは?」
って訊いたのは、学生最後の夏休みが近づいてきた土曜日。
付き合うきっかけになった夏祭りの日が、春くんの会社では毎年恒例の飲み会らしくって。今年は無理そう。
じゃあ、花火大会の日はどうかな? って。
去年、グダグタになった浴衣を、今年こそはリベンジしたい。
「とりあえず、土日と合わせて四日間が休みって聞いてる」
海の日が微妙に飛び石連休になってて……と言いながら、冷蔵庫から麦茶を出した春くんは、
「ハルちゃん、グラス取って」
と、シンクの洗いカゴの方へと頭をかしげるから、二人分のグラスをテーブルに並べる。
手渡された片方に、口をつけて。胃袋の形に麦茶が沁みてくる。
熱中症が怖いっていうことは、テレビやネットで毎年のようにアナウンスされているから、知識としては知っている。でも、真夏の外出時でもなければ、意識的に水分補給をしてはいなかった。
そして今みたいに、飲んで初めて渇きに気づく。
そんな私と違って春くんは、三度の食事には必ずお茶を飲む。そんな習慣があると知ったのは、彼が一人暮らしを初めてから。互いの部屋に泊まる機会が増えて、外食が減ったのがきっかけだった。暑くなってきた梅雨明け以来は更に、こまめに水分をを口にする。
喉が渇きやすい体質かな? なんて、考えていたけど。どうやらこれも"お母さんの躾"らしい。
看護師さんだから……なのかもしれないけど。子供の頃から健康に気をつけて、大事に育てられたのだと思う。
「お盆休みは、実家に帰るの?」
麦茶を半分くらい飲んだところで、改めて訊ねてみた。大事に育てた息子に、きっとお母さんは帰ってきて欲しいだろう。
「うーん。どうしようかなぁ」
『蔵塚のお祖父さんたちの家にも、一度くらい行かないと……』って、グラスの縁で唇をなぞりながら、呟く彼に、良いことを思いついた。
「じゃあ、蔵塚でデートしない?」
浴衣リベンジは、できないけど。夏休みだし、いつもとはちょっと違うデートもいいんじゃないかな?
「蔵塚で?」
「私もちょっとは実家に戻るし」
私の通っていた高校から、二駅北側にある水族館へ行くのはどうだろう? って考えていたら
「だったらさ、航の実家が喫茶店をしてるって聞いたけど」
「ぁぁ。ネコの喫茶店?」
「猫?」
「屋号っていうのかな? 近所ではそう呼ばれてるみたい」
「なるほど」
『航、猫好きだし……』って、納得している春くんに、話を促すと
「お盆休みに、行ってみる?」
思いもよらない案が出てきた。
「春くん、お祖父さんの家ってどこ?」
蔵塚市と一口に言っても、そこそこ広い。電車の路線的に、ぐるっと遠回りしないとダメな場所だってあるし。
「航の実家と同じ路線に、父さんの方も母さんの方もあって……」
それなら、ちょうどいい具合。今ちゃん先輩の実家は、私の祖父母の家と最寄り駅が同じだから、ついでに私も顔を見せに寄ることができる。
それで前の日か次の日かに、水族館も行っちゃうとか?
いつにしようか、って相談してて。ふと、気づいた。
「あ、でも。もしかしたら……お盆休み、かも?」
土日は営業しているけど、さすがにお盆くらいは……って先輩、いつだったか話してなかったっけ?
うん。そうだ。
まだ、今ちゃん先輩と知り合う前。中学生くらいのころに、せっかく行ったのに休みだったことがあったはず。
「それもそうか」
空いたグラスをシンクに置いて、春くんがテーブルからスマホを手に取る。
「航に訊けば知ってるかな?」
「えー? 今ちゃん先輩って、県外だよね? 確か」
「航だって帰省するだろ? 親の予定くらい、ある程度は……」
うーん? 親の予定なんて、知ってるもの?
私がグラスに残った麦茶を飲んでいる間に、春くんは先輩にメッセージを送ったらしいけど。返信が来たのは、その日の夕方。夕食の支度に取り掛かった頃だった。
「木曜から三連休、って。完全に被ったかぁ」
「アウト?」
「うーん。最終日は、開いてるみたいだけど」
次の日は仕事って考えると……あまり現実的ではないか。
また次の機会、かな? なんて考えながら、お米を研ぐ。
「むしろ、その前の週、か?」
土曜日の午前中から出かけてオヤツ時。そのまま互いに祖父母の家で一晩過ごして、翌日は近場で……って、春くんが考え考え話す計画を、頭の中でシュミレート。
そうか。その手があったか。うん。それなら、花火大会にも行けそうだし。
結局、春くんの提案通り。お盆休みの前に帰省デートで、翌週には花火大会にも行くことになった。
私の方は祖父母の都合が悪くって、実家に戻ることにしたから、最低限の持ち物だったけど。一泊分の荷物を持った春くんと待ち合わせて電車に揺られるのは、ちょっとした旅行気分で。
「いつか一緒に旅行にも行きたいなぁ。こんな風に」
同じようなことを思ったらしい春くんが、窓からの日差しに目を細めて言う。
「旅行に行けるような仕事に就けたら良いのだけど……」
「ハルちゃんの一存じゃ決まらないからなぁ」
「そうなのよねぇ」
あと一息、で終わるかなぁ。就活。
お盆明けに待っている面接を思って、胃が痛くなる。
英語を生かした仕事を希望してるけど。
近隣の会社ではどうしても、同じ市内にある公立外大との勝負になるらしく、取り立てて優秀な”何か”が無いままの就職活動は、思った以上にシビアで。
友人たちが次々に内定を手にしているから、余計に焦る。
でもなぁ。研究者として働く父の姿を見てきたからかもしれないけど、英文科卒として学んだことを生かしたいって考えてしまうのよね。
春くんだって、大学の勉強を生かした仕事に就いているわけだし。
「あぁぁ。外大に受かっていれば……なぁ」
泣き言がつい、口をつく。
「ハルちゃん?」
「この期に及んで、受験について後悔してるの」
第一志望に合格していたなら、もう少し楽だったかもしれないのに。
「でもさ。違う大学に行ってたら、今のハルちゃんじゃなかったかもよ?」
「うん? どういうこと?」
また妙なことを言いだしたな。春くんってば。
「例えば、尚太とは違う出会い方をしてたかもしれないし」
最寄り駅が同じになるから、今ちゃん先輩のお膳立てがなくても、知り合う機会があったかもしれない。
「そしたら、俺とは出会わなかったかも?」
「あー? そう?」
「まあ、一つの可能性だけどさ。今までの人生で積み重ねてきたことが、今のここに繋がっているんじゃない?」
何か一つが違っていたら、今日の私は全く別の場所で、違う誰かと過ごしてのかもしれない。
なるほどなぁ。過ごした時間の全ては、今に繋がるのか。
「就職っていえばさ。タマちゃんは、地元に帰るって?」
珠世の進路を春くんが知っているのは、尚太くんからの情報だな。たぶん。
「うん。尚太くんとは遠距離になる、のかな?」
「いや、あいつもアッチの大学院を受けたみたいだよ?」
「院? 教育学部、じゃなかった?」
このあたりの学校で、先生になるのだと思っていたから、珠世から『実家の近くで就職が決まった』って聞いたときには、大変だなって思ったけど。そうか。
「学校の先生するよりも、スポーツ科学だかの研究に進むって」
「へぇぇ」
尚太くんがついていくのか。珠世の地元に。
目的の駅に着いたのは、おやつには少し早めの頃合いだった。
とは、いえ。駅の周りに遊ぶような場所も無いし。
お昼ご飯を食べに途中下車したターミナル駅で、もう少し時間を潰しても良かったかな?
そんなことを話しながら、お店のある裏通りへの角を曲がる。
「なんか、航っぽい通りだな」
足を止めた春くんが、辺りを見回して微笑みを浮かべたけど。
「今ちゃん先輩っぽい?」
先輩っぽい通りって。なんだ? それは。
「航がここで育ったことに、納得っていうか」
「うーん?」
『思わない?』って訊かれて、普通の家の合間にお店や低層のビルが混じる通りの風景を眺める。
私にとっては祖父母の住む町、って感覚なんだけど。
「先輩っぽい、かなぁ?」
再び歩き始めて。 首を傾げた私に春くんが
「まあ。人には色んな面が有るっていうし。ハルちゃんと俺で、見ている航の顔が違うのかもよ?」
人生の真理を見つけたような声で言う。
あ、なるほど。ペルソナ、だな。
人は皆、何かの仮面を身につけて、役割りを演じているって。先輩が、言っていたっけ。
通りを半分ほど、進んだ辺り。
紺色の暖簾に白い文字で『きっさ』と書かれたお店が、静かに佇んでいた。
「ここ?」
一目で春くんが目的地を言い当てる。
「ここも、先輩っぼい?」
「うん。航の雰囲気」
本当にもう。
春くんにとって先輩ってどんなイメージなの?
先に立った春くんが、引き戸に手をかける。
軽く滑るように開いた戸の奥から、
「いらっしゃいっ」
通りの良い低い声が私たちを迎えた。
軽く身体を捻って戸を閉める私を待つように、少しの間をおいたマスターが、
「そちらのテーブルへどうぞ」
カウンターの中から手を伸ばして、戸口から二つ目のテーブルを示す。
頷きで応えた春くんが、私の背中に軽く手を添えて。その手に促されるように、席に着く。
メニューやお冷のグラスと一緒に運ばれてきた、このお店の約束事を書いたクリアケースに
「ちょっとこれは……意外だったかも?」
って春くんが呟く。
『店内禁煙』とか『写真撮影はお断り』とか。
まあ、いろんなお店でトラブルを防ぐために言われることを箇条書きにしてあるわけだけど。
私の父は、『誰が見ても分かりやすいのは、良いことだ』って、気に入っているらしい。
「マスターのこだわりポイントなんだって」
そう言いながらお冷のグラスを手に取ると、下からコースターに施された白い刺繍が、顔を覗かせた。
「航って、お母さん似なのかな? マスターとはあまり似てない」
戸口に背中を向ける側の席で春くんが言ったのは、注文を終えてからのこと。
作務衣姿のせいもあるのか、今ちゃん先輩と似ていると思うような部分が、マスターにはほとんど見当たらないけど。
「どうだろう? 先輩のお母さんって、私も見たことないし」
「そうなんだ?」
「中学生の頃は、試合の応援とかにも来てたらしいけど。先輩が高校に入ったくらいから、単身赴任している……とか、言ってたと思う」
そういえば、私の母の同僚にも産後、定時上がりの一般職を経て総合職に返り咲いた人がいて、ここ数年は単身赴任も……って話を聞いたのは、この春休みだった。
転勤、かぁ。
うちの両親からは、転勤なんて話を聞いたことがないけど。
もしかしたら、春くんや私自身が転勤する可能性もあるのかもしれない。
『まずその前に、就職先が決まらないと……』って考えながら、ふと見た彼は、マスターのことが気になるらしくって。ずっとカウンターの方を眺めていた。
「お待たせいたしました」
渋い声と共に、アイスコーヒーがやってきた。
「アイスコーヒーの氷増しと……」
「あ、はい。私のです」
軽く手を挙げて、アピール。ここのアイスコーヒーには時間が経っても薄くならないように、コーヒーで作った氷を入れてくれる"氷増し"のメニューがある。
『大盛りコーヒー?』なんてメニューを見て言ってた春くんは、何杯も続けて飲めないからって、普通のアイスコーヒーでガムシロップつき。
私たちの前に新しいコースターとグラスをセットして、『チーズスフレは、あとでお待ちしますので』の言葉を残してテーブルから離れたマスターが、カウンターの内側へと戻っていくのを待って。
「ね、春くん」
「うん?」
「どうしたの?」
訊ねながらストローを手に取って、封を切る。春くんは、ガムシロップをグラスに垂らす。
「さっきから、黙っているけど?」
「うん? ああ……うん」
またカウンターへと目をやりながら、春くんが生返事をする。
「春くん?」
「ああ、ごめん。なんか……マスターがさ」
ちょっと咎めるような声を出してしまった私に、春くんは申し訳なさそうな顔で笑ってみせて。
「航よりも、俺の幼馴染に似ている気がしてさ」
理解しにくい事を、言い出した。
「え? なに、それ?」
親子よりも似てる他人って?
「顔立ち……よりも、声なんだけど」
声なら、うん。あるかもね。
「マスター、印象的な良い声してるね」
「やっぱり、ハルちゃんもそう思う? その幼馴染も、良い声しててさ。去年、みんなで行ったカラオケ、覚えてる?」
「テニスのつもりだったのに、尚太くんが雨を降らせた?」
「そう、あれ」
あれから一年以上、経ったのよねぇ。早いなぁ。
しみじみと時の速さを思いながら、ストローに口をつける。
「あの時に俺が歌えなかったアレ、軽々と歌ってしまうヤツなんだよ。中学生のくせに」
音域が合わないとかで、サビの部分でリタイアした織音籠の歌だよね。
「マスターも……様になりそうな声だなって」
「ああ、たしかに」
想像できる、な。
軽く振り返った視線の先。カウンター席に座っている老婦人の世間話に相槌を打っているマスターの声は、歌うところを聞いてみたいと思わせる響きを持っていた。
ほどなく、カトラリーケースと一緒に、チーズスフレのお皿が運ばれてきて。お皿に散らされたダイス状のフルーツが、スフレを引き立てる。
何度来ても、この瞬間が一番、期待にワクワクする。
「これ撮れないのって、もったいない」
残念そうな顔で春くんが、テーブルに伏せてるスマホに伸ばした手を引っ込める。逆の手で、カトラリーケースからフォークを、取り出す。
「マスターのこだわりだからね」
「それはわかっているけどさ。この後で行くから、お祖父さんたちにも見せたいなって」
電車でちょっと。そんな場所にひっそりとある喫茶店の話をしたいって、気持ちはわかるけどね。
カウンター席の老婦人は、私たちの注文がそろうのを待っていたようなタイミングで席を立った。
マスターが一人でしているお店だから、『作業中は手が空くのを待って……』っていうのも、この店の約束事で。SNSなんかで広まりすぎても困るのだろうなって思うと、撮影禁止も仕方ない。
老婦人の席をマスターが片付け終えたころ。新しくやってきた三十歳前後の男性は、通路を挟んで私のすぐ横。カウンターを勧められていて。
やっぱりあそこは私たちとは違う、大人席よね? なんて思いながら、スフレを一口。
豊かなチーズの風味が口に広がる。マスターの手作りらしいスフレは、春くんも気に入ったみたいで。『実家へお土産にできないかな?』とか言ってる。
「じゃあ、市役所のあるターミナル駅に、八時半ね?」
「うん」
明日予定している水族館デートの、待ち合わせの確認していると。
「マスターって、結婚してますよね?」
カウンター席の男性が、マスターに話しかけるのが聞こえた。
「ええ、まあ。おかげさまで」
それまで洗い物をしていたマスターが、濡れた手を拭きつつ応じる。
聞くともなしに二人の会話を聞きながら、コーヒーをストローでぐるりと混ぜて。他では見ない黒い氷が、からりと涼しげな音を立てる。
ストローに口をつけながら、『おかげさまでって、何のおかげなんだろう?』って私が内心で首を傾げている間に、男性はマスター相手に恋人との将来についての悩みを語り始めて。
カウンターがいつのまにか、カウンセリングテーブルの雰囲気になっていた。
「あの感じは、航に似てる」
オレンジを刺したフォークを宙で留めた春くんが、視線でマスターを示す。
「うん、そうだね。先輩、けっこう相談ごととか受けてた」
「わざわざ自分から『困ってない?』とか、訊いたりもしてさ」
そう言った春くんの口へと、オレンジが姿を消す。
「ああ、あるね。っていうか、何度かそうやって、助けてもらったなぁ」
後輩の指導だったり、他の部活や生徒会との絡みだったり。
困ったなぁ。って思ったときには、本当に頼れる先輩だった。
私たちが小声でおしゃべりしながら、のんびりとおやつを楽しんでいる間に、お悩み相談している男性以外に二組いたお客は、会計を済ませて出て行った。
私には切れ目がないように思える、愚痴なんだか惚気なんだか分からない、男性の話だけど。
タイミングを上手に見計らって帰っていくように見える、他のお客の後ろ姿に、"人生経験"の差を見る気がする。
他のお店なら私だって、自分の帰りたい時に帰るだろう。
でもこのお店で、マスターとの会話を遮ってしまうのは、なんとなく『"作業"の邪魔をしない』って約束ごとに背くようで。
経験値の低さは、仕方ないから。男性の相談が終わるまで、付き合うしかないかな? とか考えていると。
春くんの背後で、引き戸が静かに開くのが見えた。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
朗らかな挨拶と一緒に入ってきたのは、母くらいの年頃の女性で。
マスターが何も言わないうちに、スタスタと私たちが座るテーブルの横を通り過ぎると、私のすぐ後ろのテーブルの辺りから、椅子を引く音が聞こえてきた。
「少し、失礼しますね」
そんな断りを男性にいれたマスターが、お冷とメニューを持って私の横を通り過ぎた。
あ。これはもしかして。マスターが注文を取りに行った後のタイミングなら、席を立てるかな?
僅かの時間で終わる、お冷とメニューのセッティングのあと……は、ちょっと慌しい。でも、さっき私たちが注文した時のように、マスターはカウンターに戻るだろうから、女性に呼ばれてテーブルに向かうタイミングなら……。
すっかり氷溶けたコーヒーの残りを、ゆっくりと吸いながら、そんなことを考えていると、
「マスター、ここの子は?」
後ろから、女性の声がする。
ここの子って……今ちゃん先輩のこと?
「ああ、ごめん。そこの招き猫、一昨日、落としてしまって」
あ、招き猫か。この店、『ネコの喫茶店』と呼ばれるだけあって、店内に何匹か招き猫が座っている。
「あー。壊れちゃった?」
「左手の先が……ね。お盆休みに神社に納めて、新しい子を迎えようかと」
なんとなく、このまま招き猫について語り合いそうな雰囲気。
私自身のバイト経験から、この年代の女性が世間話を始めたら、マスターはすぐにはカウンターに戻らないだろう。
でも、カウンターの男性のお悩み相談は良いのかな? なんて、他人事ながら心配になったの伝わったかのように、
「コーヒーと、スフレを」
招き猫の話から、いきなりの方向転換で、女性が注文を告げて。
「やっぱり、スフレなんだ?」
それを受けたマスターの声が笑う。
「そう。やっぱりスフレ、なの」
「では、しばらくお待ちを」
え、ちょっと、待って。もうマスター、カウンターに戻るの?
注文の復唱すらしなかったマスターの、意外な行動に一人で焦っていると、
「え? ハルちゃん、何?」
って、春くんに訊ねられて。焦りが態度に出ていたことを知る。
「あ、いや。うん」
お冷を一口飲んで、落ち着こう。
「春くん、そろそろ出る?」
「ああ、そうだね。ハルちゃん、飲み終わってるし」
そう言う春くんのグラスは、氷が溶けて限りなく無色に近い液体が残っているだけになっている。
伝票を手に立ち上がった春くんに、マスターが気づいて。
「お帰りですか?」
確認の問いかけが、やってきた。
それに対して軽く頷いた春くんの返事を受けて、水を汲んでいたヤカンを、コンロに置いたらしい。ガスに火を付けた音がしてから、マスターはレジへと移動してきた。
なんだか、拍子抜け。こんな簡単なこと、だったのか。
二人分を支払う春くんに
「失礼ですが、お二人は航の……?」
マスターが、訊ねる。
「学生の頃の友人です」
「それは……いつも息子が、お世話になってます」
「いえ、こちらこそ」
「航は明後日には、こっちに帰ってくるようですよ」
「あ。そうなんですね。じゃぁ、また連絡してみます」
お釣りの受け渡しをしながら、二人がそんな会話をして。
「内緒の、お土産です。よかったら」
声を潜めたマスターが、数枚のアイスボックスクッキーの入ったビニールの小袋を、私に差し出した。
ありがたく受け取って、店を出る。
何気なく振り返って。奥のテーブルにいた女性と目が合った気がする。
そのまま目を逸らすのも失礼な気がして、軽く会釈をした私に彼女は。
口元に楽しげな笑みを浮かべて。
顔の横で小さく手を振った。