表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/19

慣れない浴衣

 石段を上がっていて踏んでしまった浴衣の裾が、だらしなく垂れる。

 着崩れを直すために、遊歩道の端で立ち止まる。


 確か……脇のスリットから手を入れて……。


 着付けのDVDを一生懸命思い出して直そうとするのだけど。襟元まで、グズグズと崩れてきてしまった。


 どうしよう、これ。

 駅まで、歩かないといけないし。その後、電車にも乗らなきゃ帰れないのに。


「ハルちゃん、できた?」

 周りの視線を遮るように、こちらに背をむけて遊歩道側に立ってくれていた春くんから声をかけられて、更に焦る。

 汗が一筋、胸元を流れる。

「ハルちゃん?」

 返事をしない私に、焦れた声が振ってくる。顔を上げると、呆れたような春くんの目と出会う。

「あー、やっちゃった?」

「……」

 やっちやった、よね。これは。

 情けなくって、涙があふれた。 


 こんなところで泣いてしまった私に、春くんは

「お助けマンを頼むから、大丈夫」

 と言って、ボディバッグから取り出したスマホを右手で操作しながら、空いた手で抱き寄せた私の頭を自分の肩に押しつける。

 自然と、肩に縋って泣くような姿勢になってしまって。彼が誰に電話かけたらしいことだけ分かった、


 涙を我慢しようとしながら、切れ切れに聞き取れた感じでは、駅まで戻らずにバスに乗って、どこかへ行くことになったらしい。

 通話を終えた彼が緩めた手から、顔を上げる。


「お母さんの友達が、ここからバスで……二十分くらいのところに住んでるから、その人に助けてもらおう」

 そう言って春くんは、スマホを片付けた。

「歩けそう?」

「……うん」

 歩かないと、仕方ない。

 せめてこれ以上は崩れないようにと、襟元と太股の辺りの前身頃を掴むようにしてそろそろと足を運ぶ。

 そんな私を春くんは、預けた籠バッグを片手に、肩を抱くようにして近くにあるというバス停へと誘う。



 大通りにあるバス停では、私たちと同じように、花火帰りらしき人達が待っていた。

 私を列に並ばせて春くんは、バス停の標柱へと時刻表を見に行く。

「あと、十五分くらいかな」

 スマホの画面を眺めながら戻ってきたのは、たぶん時刻の確認をしていたのだと思う。

 そのまま、画面に何やら打ち込んでたと思うと、着信音が流れる。

「ハルちゃん、お腹空いてる?」

「ええっと……ちょっとだけ?」

 軽く済ませた夕食は、そろそろ胃袋を通過した感じだけど。今は、それどころじゃない。


 なんでそんなことを訊くかな? って、尋ねようとしたところに、バスが来た。

 行き先表示に“臨”と文字が入っているあたり、どうやら花火大会のための臨時バスらしい。


 前払いのシステムに、『ICカードが……』って、籠バッグを持ってくれたままの春くんに声をかけたら

「いいから、乗って。乗って」

 と、肩を叩かれて。

「二人分でーす」  

 って、彼の声に背中を押されるようにして、ステップを上がる。

 っと。危ない。

 また、裾を踏みかけた。


 座れないほどに混んでいるバスの中。襟元と前身頃のどちらを押さえている手を離すか、究極の選択をして。

 人目につかなさそうな、身頃から手を離して手すりに捕まる。

 春くんと二人、ただ無言でバスに揺られる。


 途中に二回。

 メッセージの着信を示すようなメロディーが、春くんのスマホから流れて。

 彼が短い返事を送ったらしいことが、なんとなくわかった。



 目的地のバス停には、優しそうなおばさんが待っていた。 

「こんばんは。大変だったのね」

「すみません。こんな時間に……」

 『気にしないで』って、糸のように目を細めて笑ったおばさんは、

「春くんは、ちょっと向こうを向いていてね」

 と言って、手の中に握りしめていた安全ピンを、私の手に持たせた。


 あっちこっちと軽くひっぱるようにして、襟元が整えられる。

 おばさんの夜目にも白い手が、整えた襟元を安全ピンで押さえる。 

 その後、無様に垂れていた下前も、お端折りもどきを作ってもらって。こちらも数個の安全ピンの助けを借りて、それらしい形になった。

「これで、少し歩きやすくなったと思うの」

「ありがとうございました」

「遠い所まで来させて、ごめんなさい。お家の人は、遅くなって心配されてない?」

 こんなにあっさりと直してもらっただけでも、感謝しかないのに。

 そんな心配までしてもらって……。


「独り暮らしなので、大丈夫です」

 私の答えにちょっと考えたおばさんは、春くんを呼ぶ。

「あ、終わった?」

 振りむいた春くんは、ほっとしたような息をついて

「さすが、悦子さん。すごい」

 と、拍手をした。


「ええっと……ごめんなさい。彼女さんのお名前、聞いてなかった、よね?」

 悦子さんって名前らしいおばさんは、私と春くんを交互に目をやりながら尋ねる。

「あ、ハルちゃんって言うんだ」

「あら。春くんとハルちゃんなのね?」

「ハルハルコンビって、尚太たちには呼ばれてる」

 へぇ。尚太くんのことも知っている人なんだ。


 春くんの答えに、楽しそうな笑みを浮かべた悦子さんは

「じゃあ、ハルちゃん」

「はい」

「ハルちゃんたちがバスに乗ってる間に、春くんに訊いたけど。この後まだ、電車で帰るのよね?」

「あ、はい」

 私達の乗ってきたバスは、西へと向かう路線だった。

 帰るには東向きのバスを使って、更にターミナル駅から南方向の電車に乗ることになる。


「今、私がしたのは、ほんとうに応急処置だけなの。だから、電車に乗るなら、心許ないと思うのね」

「え、でも」

「駅まで行く途中に家があるから、寄ってもらえたらきちんと直せると思うのだけど……」

「そんな……ご迷惑じゃ……」

「大丈夫。主人も今夜は遅いし、娘たちは独り立ちしてるから。遠慮はしないで」

 甘えていいのかな? って、春くんを伺う。


「ハルちゃん。悦子さんは、俺にとって親戚のおばさんみたいな人だから」

 そういえば、尚太くんのことも知っているような感じだったっけ。

「すみません。じゃあ、お言葉に甘えて」

 お世話になります。



 悦子さんの案内で住宅地を通り抜けて。一軒の家に着いた。

 カラリと音を立てて、引き戸が開けられる。

「さ、どうぞ」

 招かれるままに、お邪魔する。


「春くんは、このままお台所に行ってね。おにぎりがあるから、食べてて」

「その前に、手を洗わせて」

 って会話が下駄を揃えている背後で聞こえる。

「大人になっても、そういうところは変わらないね」 

「まあ。お母さんの躾が……」

「さすがは、ゆりちゃん」

 “ゆりちゃん”が、春くんのお母さんかな?


 念のため……って感じで御手洗を済ませて、玄関脇の和室で一度浴衣を脱ぐ。

 さっき使った安全ピンも、回収されて。

 

 着付けるときのコツとか、崩れた時の直すポイントとかを教えてもらいながら、悦子さんの手を借りて着付け直した。



 その後、私も一つだけ、おにぎりをごちそうになった。お皿に二つ並んだうちの、左側に手を伸ばす。

 あ、鮭フレークだ。中身。

 一口囓って。“当たり”って、嬉しくなる。


 大好きな具は、空腹を満たすだけじゃなく。

 ここへ来るまでの心細さまで癒やしてくれた。



 グラスに注がれた冷茶をお供に口を動かしている私の隣で春くんは、残ったもう一つのおにぎりを食べながら、悦子さんと世間話をしている。


 なるほど。

 尚太くんが失恋した、“幼馴染みのお姉さん”が、悦子さんの娘さん、ってことみたい。

 来年の夏くらいに結婚式なんだって。



 夜食まで頂いたお礼も告げて、悦子さんの家を後にする。

「ゴメンね。春くん。遅くなって」

 人気のない夜道に、下駄の音が響く。

 『駅までは、十分くらい』と聞いたけど、浴衣だからもう少しかかりそう。

 そこから快速電車一本とはいえ、春くんは市内を横断して帰るわけだから、さっきの悦子さんじゃないけど、お母さんが心配するんじゃないかと思う。


「俺は別に問題ないけどさ」

 春くんの家は今夜、お母さんが夜勤で。お父さんも仕事で遅くなるらしい。。

「ハルちゃんの方こそ、帰り道危なくない? 家は駅から近い?」

「駅から、十五分くらいかな?」

「十五分、か……」

 うーん、と唸った春くんは、『駅前の商店街を抜けて……』って説明する私に相槌をうちながら、スマホを取り出す。


「十時過ぎてるよなぁ」 

 画面で時刻を確認したらしい彼は、もう一度唸って。

「ハルちゃん。家まで送るから」

 なんて、更に遅くなるようなことを言い出した。


「そんなの、いいって。送ってくれなくっても、大丈夫」

 バイト帰りより少し遅い程度だし。 

「商店街なんて、この時間閉まってると思うけど?」

「あー。まあ、そうだけど……でも、珠世たちとご飯を食べに行ったら、このくらい……」

 現に、春くんと出会った合コンの時も、十時ごろに帰ったと思う。

 

 でも

「その格好で、何かあっても走れないだろ?」

 とまで言われると。

 直したばかりの浴衣の襟元を、思わず押さえる。 

 下駄の足音が耳につく。


「送ってもらえたら、安心だけど。春くんの帰りが、すごく遅くなるじゃない?」

 最寄り駅から私の家まで、往復三十分。さらに市の東端に近い所まで帰るとなると……って考えたら、ちょっと気が引ける。


「じゃあ。ハルちゃん」

 繋いでいた手が、一度強く握られた。

「今夜、泊めて?」

「え? 春くんを? うちに?」

 ええっと。

 今日、部屋を出てくる時。

 片付けてから出てきたかな?


 カレシを連れて帰るには、自信がないなぁ、って、ためらった私に

「ゴメン、忘れて!」 

 って、慌てたような春くんの声が聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ