表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第一話:[小隊]

:第一話:[小隊]


 簡素で粗末な造りの双眼鏡越しに眺める世界は、色彩に乏しかった。

 空は薄く霞み、その下にはくすんだ灰色の廃墟が広がっている。寒々しい光景だった。

 実際、少し肌寒い。厚手の生地で作られた寒冷期用の野戦服が無ければ、体が震え出すほどだったろう。

 これからさらに気温は下がり、もっと厚着しなければたまらないほどの寒い日々が続くのだという。雨ではなく、雪、という、冷たい氷の結晶が、空から降って来る事さえあるのだと兵士は聞いていた。それが過ぎれば気温は段々と温かくなり、やがてじっとしていても汗が止まらなくなるほど暑い日々がやって来るとも聞いていた。この地域は、毎年毎年、そういう風に気候が変化する。

 一体それはどんなものなのだろうと楽しみな気持ちが半分、本当にそうなったら嫌だなという気持ちが半分だった。

「[新人]。報告をお願いします。」

 兵士が任務以外の事を考えているのを見透かした様なタイミングで、背後から声がかけられた。

 [新人]と呼ばれた兵士は、慌てて、だが、声をかけてきた相手に悟られない様に、意識を任務に戻した。双眼鏡越しに眺める景色に集中し、すぐに、霞んだ空にいくつかの黒い点と塊を見つけた。他に動くものは無い。

 フィンガーレスの合皮製グローブを身に着けた手で素早く双眼鏡を操作し、倍率をあげて黒い物体をしっかりと確認する。

「[鯨]が一に、[鯱]が四、他には見当たりません。」

「了解。・・・時間的には、定時の哨戒の様ですが・・・、進路は?」

 [新人]は双眼鏡の倍率を元に戻し、黒い物体が市街地の廃墟と一緒に映る様にした。事前に打ち合わせて決めておいた廃墟と、大きさの推定値が分かっている黒い物体の見え方を比較し、まず自分達からどの程度の距離にいるかを割り出した。それから、目印になる廃墟と黒い物体の位置関係の推移から、おおよその進行方向と速度を割り出す。

「進路は、南から北へ、速度は推定される巡航速度の範囲内だと思います。距離は遠い、ここは奴らの探知範囲外です。」

「では、やはり定期便ですね。・・・[新人]、少し下がって休んでください。見張りは私が代わります。」

 言われて、[新人]は双眼鏡を下ろして紐で首にかけると、後ろに下がって座った。

 彼女は、十代の半ば程に見える。ショートの黒髪に、黒の瞳、整ってはいるが印象に残りにくい地味な顔立ちをしている。身に着けているのは厚手の生地で作られた寒冷期用の野戦服の上下。頭部には野戦服と同じ迷彩模様の布で覆われたヘルメット、鉄帽と通称されるものを被り、足には靴底に滑り止めの鋲が打ち込まれた合皮製のブーツを履いていて、腰回りに水筒や小道具の類が入ったポーチがいくつかぶら下げられていた。

 彼女がいるのは、大きな建物の屋上に、半円状に土嚢を積み重ねて作られた堡塁で、監視所として使われている。上空から発見されにくくするため、頭上は都市部用の灰色を基調とした迷彩模様のシートとネットが張られている。シートは横にも大きめに広げてあって、雨風の横からの吹き込みも凌げる様に配慮されていた。

 傍らには、武骨な外見の小銃が二丁、土嚢に立てかけてある。生産性を重視して極力少ない部品で作られた、粗雑で簡素な仕上げの銃で、弾倉には三十発の口径五.五六ミリ小銃弾が入り、モノポッド(伏せ撃ちの時に銃を安定させるために用いる単脚)が標準で取り付けられている。見た目は悪かったが、作動は信頼のおける水準に達している。

 監視所として使われているその堡塁には、[新人]の他にはもう一人しかいなかった。そのもう一人は[新人]と入れ替わりに見張りにつき、先ほど[新人]がやっていたのと同じ様に、双眼鏡使って黒い物体の様子を確認している。

 恐らくは、[新人]の報告が正しい事を自分の目でも確認しているのだろう。[新人]は自分の視力に自信があったが、気が気ではなかった。明言はされていなかったが、常に試されている様な気がしてならない。

[鯨]と[鯱]は、肉眼でも何とか見える。

 それは、空に漂う大きな黒い塊と、小さな黒い塊で、輪郭がはっきりしない幻の様な存在だったが、そこに間違いなく存在している。遠目で見るとゆっくりとした速度で、実際にはかなり速い速度で移動していた。それらは[新人]達の存在にはまるで気が付かない様子で、[新人]から見て右から左へ、遊覧飛行でもする様に通り過ぎて行く。

大きいのが[鯨]で、小さいのが[鯱]だったが、名前の元になった生物に形が似ているわけではない。昔、誰かがしゃれか何かのつもりでつけた名前がそのまま呼称になっているだけだ。

事情を知らなければ、何とも、のどかな光景に見えたかもしれない。

だが、それは、人類が築き上げた文明を破壊しつくした脅威に他ならなかった。

[亡霊]と呼ばれる存在の一種で、[亡霊]に甲、乙、丙、丁と四つある分類の内の丙種、飛行タイプに分類されている。昨日、装甲列車の集中砲火を浴びせてかろうじて倒した相手、巨人型の甲種とは別のタイプだ。ゆったりと飛んでいるだけに見えるため、丙種は一見、無害に見えるし、油断し切っているところを攻撃すれば簡単に倒せそうにも思えてしまうが、[新人]は別種とは言え、既に[亡霊]の威力を目の当たりにしている。手を出そうなどとは思わないし、出来れば二度と近づきたくはない。

その存在を[亡霊]と呼び始めたのは、いつの事なのか、誰が始めたのか、詳しい事は記録が消滅してしまっていて分からない。ただ、それらと人類がまだ激しく戦争していた頃には既にその呼称が一般的になっていた。人類側は無抵抗でも無力でも無かったが、[亡霊]はいくら破壊されても数を絶やさず、やがて人類を壊滅させ、この惑星上で堂々と活動する唯一の勢力となった。

その[亡霊]達は、段々と遠ざかって行った。それを目で追っていると、自然とその[亡霊]達の向かう先にあるものが見えてくる。

それは、[亡霊]と同じく、輪郭が朧で、幻の様にも見える、黒い球体だった。見た目そのまま、[黒球]と呼ばれている。それは海の彼方にあり、水平線に半分ほど隠れている。

[新人]に与えられた知識の中で、[黒球]は[亡霊]の出現場所とされている。この世界には最初、[亡霊]など存在はしなかったが、ある時[黒球]が発生し、そこから無数の[亡霊]達が解き放たれた。[黒球]の内部がどうなっているのか、そこからどうやって[亡霊]が出現するのか、詳しい原理を人類は解き明かそうとしたが、具体的な成果を上げる前に戦争の趨勢は決してしまった。

人類は、五年間、戦った。最初は、人類がその文化や社会形態毎に形作っていた国家それぞれで個別に交戦した。次は、国家という枠組みを乗り越え、団結して戦った。一時は反撃に成功して[黒球]の周辺まで押し返したというが、[黒球]からさらに[亡霊]達が湧き出してきて、反撃は頓挫した。その後は勢力を衰えさせない[亡霊]の前に劣勢となり、地上の人類は着実に殲滅されていった。やがて、兵器の生産もできなくなり、情報ネットワークは寸断され、日々の食料にも事欠く様になった。生き残っていた人々は孤立し、[亡霊]達に虱潰しにされていった。そうして人類は完全に敗北し、この惑星上から駆逐され、その世界は破壊された。

残されたのは、人類が築いていた文明の残滓のみだったが、それも徐々に風化し、自然の植生の中に埋もれつつある。

「やはり、いつもの定期便の様ですね。・・・昨晩の事は、把握されていない様です。」

 まるで親子の様に、仲睦まじく寄り添う様に空を泳いでいく[鯨]と[鯱]の姿を見送りながら、もう一人の兵士は、小さく安堵の吐息を漏らした。

 もう一人の兵士は、[新人]と同じ姿をしていた。服装や体格だけではなく、顔立ちもそっくりで、大きな丸い眼鏡をかけている事と、[新人]よりもやや大人びた雰囲気を持つ事がわずかに見分けられるポイントだった。

「安心しました。奴ら、やはり、連携が取れなくなっている様です。」

 もう一人の兵士は双眼鏡を首にかけると、その場に腰を下ろした。どうやらそれだけ余裕のある状況らしい。

「あのぅ・・・、[中尉]殿。」

 [新人]は、少し表情が穏やかになった様に見える眼鏡の兵士に、控えめに声をかける。

「その・・・、怒らないんですか?」

 [中尉]と呼ばれた眼鏡の兵士は、怪訝そうな表情で[新人]の方を向いた。

「怒られたいのですか?」

「いっ、いえ、決して、そういうわけじゃありませんけど。」

「[新人]。もし希望するのであれば、とてもとても特別な[新人教育]を実践しますが?私の教官直伝ですよ?」

「いえっ、結構です、遠慮しておきますっ!」

 [新人]は慌てて、体の前で両手を左右に振った。特別な[新人教育]とやらがどんなものかは分からなかったが、敢えて体験したいとは決して思わない。

「ただ、その・・・、昨日のアレは、その・・・、規律に反していましたし。装甲列車まで動かしてもらいましたし・・・。小銃も、一丁、無くしてしまいましたし・・・。」

「そうですね。昨日の貴女の行動は、明らかに規律に反していただけでなく、支給された装備を無くした上、貴重な弾薬も大量に消費する結果となりました。上層部の判断によっては、最悪、[廃棄]されるでしょう。」

 [中尉]は直球でそう述べ、[新人]は落ち込んで俯いた。

 [防人]とはそういうものだ。分かってはいるが、出来れば避けたい事だった。

「しかし、我々が黙っていれば済む事です。」

「・・・えっ?」

 [中尉]の口調は素っ気なかった。あまりにも自然に出てきたその言葉に、[新人]は驚いて顔をあげる。

「貴女の行動は、適当にポカして上には報告してあります。ですから、恐らく、何か処分が下るという事は無いでしょう。昨日の戦闘は、[亡霊]にこちらの所在が露見しそうになったため止む無く発生したもの。そういう[事]で話を進めてあります。どうせ、報告書を書くのも私ですから。黙っていればバレません。」

 平然としている[中尉]を、[新人]は呆けた顔で見た。明らかにとんでもない規律違反を犯しているのに、この落ち着き様はどういう事なのだろうか。

 そんな[新人]の目を、[中尉]は覗き込む様にして見る。

「[新人]。貴女は、自分が何をやったのか、きちんと分かっていますか?」

「はい・・・。分かっている、つもりです・・・。」

「反省していますか?」

「してます・・・。」

「では、それで構いません。・・・幸い、誰も負傷しませんでしたし。」

 [新人]には、[中尉]が微笑んだ様に思えた。

「でも・・・、何と言うか、何のおとがめなしっていうのも、変な気がします。」

「罰なら、当番以外の見張りを、徹夜明けの今、やっているでしょう。・・・この話は、これで終わりです。」

 [新人]は釈然としない、不完全燃焼している様な感覚を覚えたが、[中尉]にそう言われては黙る他は無かった。

 会話が途切れ、[新人]は[中尉]から視線をそらした。

 堡塁の中に冷たい隙間風が入り込み、僅かに偽装のシートが揺れた。首筋から忍び込んでくる冷気に、[新人]は思わず首を縮める。

 戦闘の事後処理が終わった頃には日が昇っていた。昨日は一睡もする時間が無かった。いい加減、眠気が襲ってきてもいい頃だったが、断続的に吹き寄せる冷たい風のせいか、それとも無意識のまま緊張した状態が続いているのか、少しも眠くならない。

 その上、兵士には気になっている事があった。

「昨日、見かけた女の子ですけど・・・、一体、どこへ行ってしまったんでしょうか?」

「また、その話ですか。」

 [新人]の疑問に、[中尉]は呆れた様に肩をすくめた。

「[新人]、貴女が嘘を吐くとは思いませんが、その少女について、仲間は誰も見ていないと言っています。・・・まぁ、夜間で、暗視ゴーグルの類も使っていませんでしたから、こちら側から視認できていなかっただけ、という可能性もありますが。」

「でも、本当にいたんです。」

「一応、[シェルター]に近い場所を警備している他の部隊にも確認しましたが、[シェルター]から誰かが出て来たという話はありませんでした。[シェルター]の防御隔壁は開かれておらず、閉ざされたままです。そして[シェルター]以外に、人間の生き残りはいません。その上、地上には我々、[防人]しかいません。あの場に人間がいた事など、あり得ない事です。訓練課程で貴女もそれを理解しているはずですよ、[新人]。」

「それは・・・、そうですけど。」

 [新人]は[中尉]を説得する言葉を思いつかなかった。黙り込むしかない。

 同時に、[シェルター]で体験した訓練課程での様々な出来事を振り返り、その時の不快感を思い起こした。頭に大きくて重く、複雑な配線が何本も飛び出しているおかしな器具を取り付けられ、長時間に渡って知識を刷り込まれたり戦闘シミュレーションを繰り返されたりした事や、実際に身体を動かし、肉体を極限まで酷使して行われた実戦訓練。さすがに実弾で撃たれる事は無かったが、過酷な日々であった事は間違いなかった。何より、毎日提供される食事は栄養バランスと必要カロリーの摂取のみを考慮したペースト状の気味の悪い食料でしかなく、思い出すだけでも嫌だった。もっとも、食べなければ訓練にならず、訓練ができなければ不良品として廃棄される運命が待っていたため、いつも全て平らげた。

 [防人]というのは、見た目は人間の少女のそれに他ならなかったが、実際には兵器であり、物だった。訓練と言うのは言わば、[亡霊]との戦闘に投入できる能力水準を持った使える[防人]を育成するための行為であり、言い換えれば[製造ライン]に他ならなかった。[防人]とはその製造ラインから供給される製品であり、製品である以上、規格に満たない不良品は生産過程から弾かれ、廃棄される。

 どれほど辛くとも、廃棄されないために[新人]は全てをこなさねばならなかった。

 [新人]は軽く首を振ってあれやこれやを思い出そうとする自身の思考を中断させた。それから、ふと浮かんできた疑問を、[中尉]に尋ねる。

「[中尉]殿。ちょっと変な事を思いついたんですが・・・、地上に人間がいないっていうのは、本当なんでしょうか?」

 [シェルター]からは誰も地上へ出てきていない。とすれば、残る可能性は、地上にも人間がいるという事だけだと、[新人]には思えた。

 [シェルター]が人類にとって最後の都市である。そう教えられていたが、地上に出てみて、世界は自分が教えられていたものよりも遥かに広いのだという事を知った。そのどこかに人間の生き残りがいても、あり得ない話ではないはずだと思えた。

 [中尉]はすぐには答えなかった。微かに目を細め、[新人]の方をじっと眺めた。[新人]には、何を馬鹿な事を言っているんだコイツは、と、内心で呆れられている様に見えた。

「ぁぅ・・・、その・・・、すみません、忘れてください・・・。」

 [新人]は[中尉]の視線に耐えきれなくなり、再び顔をうつむけた。

「地上に人間の生き残りがいるか、いないか。・・・その答えは、正確なところ、何もわからない。そう言う他はありません。」

「・・・・・・、え?」

 [新人]は穴があれば入りたい、いっそのこと自分でタコツボ(一人用の塹壕)を今から掘ろうか、とか考えていたので、[中尉]の言葉をすぐには理解できなかった。

「地上に人間がいるかどうか。実際のところは分からない。それが答えです。」

 [新人]が理解できていない事を察し、[中尉]はもう一度、言葉を簡潔にして言い直してくれた。

「で、でも・・・、地上には誰もいないって・・・。」

「いるかもしれないと言ったのは貴女ですよ。そして私は、それを完全には否定しません。」

 [中尉]はそこで言葉を区切り、「こういう話は、[長老]に任せた方がいいのですが」と独り言を漏らした。それから、視線を[新人]へ向け直し、口を開く。

「[新人]、よく考えてみてください?人間は[亡霊]との戦争に敗れて、何とか隠れ潜んでいる様な状態です。昔はとても通信技術が発達していて、いつでも、どことでも不自由なく連絡が取れましたが、そのシステムは破壊されてしまいました。今も流れ星になっていますよね?ですから、どこかに、他にも人間の生き残りがいるのだとしてもそれを知る手段がありません。定期的に、物資を得るため、我々[防人]の一部が[シェルター]周辺を離れて地上を探索する事はありますが、広い地域を隅々まで捜索する力はとてもありませんし、その過程で、他の人間の集団が存在する痕跡を見かけた報告は、公式にはありません。が、それは本当に人間が他には生き残っていない事を示している訳ではありません。何しろ、連絡を取る手段が無く、広大なこの世界の隅々まで探索できている訳ではないのですから。」

「は、はぁ、・・・なるほど。」

 [新人]は[中尉]の言った言葉を頭の中で整理して理解しようとした。

 要するに、[シェルター]の周辺しか、正確な状況はつかめていないという事だ。それ以外の場所になら、可能性はあるかもしれない。

「じゃ、じゃぁ、昨日の女の子は、[シェルター]出身じゃなくて、地上の人間・・・?」

 自分の言っている事が、実際にあった出来事だと信じてもらえるのではと、[新人]は淡い期待を抱いて[中尉]の方へ顔を向けた。

「いえ。それは、無いでしょう。」

 だが、[中尉]はきっぱりと否定した。

「この周辺は何度も捜索隊が出ていますし、付近は[亡霊]によって定期的な監視が行われています。生存にはとても不向きな環境下にあります。少なくともこの近くに人間の生き残りはいない。・・・記録では、そうなっています。」

「そ、そうですよねェ・・・。」

 [新人]は再びがっかりして、顔をうつむけてしまった。

 傷心の[新人]を横目に、[中尉]は少し体を伸ばして防塁から外をのぞき、[鯨]と[鯱]が遠くへ去った事を確認した。それから、うなだれている[新人]の方へ、気配を消し、音を立てない様にそっとにじり寄る。

「[新人]。ひとつ、確認したいのですが。」

「へっ?・・・ぅへぁっ!?」

 自分が落ち込んでいる間に目の前まで[中尉]が接近していた事に、[新人]はやや大げさに驚いた。

「び、びっくりさせないでくださいよ!?」

「いえ、まぁ、そういう貴女の反応が面白くて、つい。」

 [中尉]は悪びれず、そして真顔でそう言った。

 [新人]はからかわれた事を不満に思ったが、相手は上官であり先輩で、お世話になっている相手なのですぐに思い直した。むしろ、[中尉]こそ面白い人だと思った。普段は生真面目なのだが、たまにこういう、予想のつかない行動をする。人間はこういった性質を[天然]と言っていたらしい。廃墟で拾った本にそういう事が書いてあった。

「それより、何でしょうか?」

「ああ、すみません。・・・少し、確認したかったんです。[新人]、貴女は、もし、この世界に、[シェルター]以外にも、ですよ?人間が、それも大勢、生きているとしたら。どうするつもりでしたか?」

「どうするつもりでしたか、って・・・。」

 問われて、[新人]は少し困った。そこまで考えて質問していた訳ではない。だが、問われてみれば、それは、[防人]にとっては重要な事だった。

 [防人]とは、人類と[亡霊]との戦争の末期に、悪化する戦況をどうにかしようと人類が作り出した、完全自立型の軍事システムの事であり、それを構成する、少女の姿をした人造人間達の事を指す。

 [防人]は、人間を守るために創られた。だが、今、与えられている任務は[シェルター]の防衛、すなわち[シェルター]の中にいる人間を防衛する事で、それ以外を含んではいない。[防人]は人間を守るために生み出されているのだから、人間である以上は誰であっても守るべきだという解釈が成り立つ。だが、実際に行われている任務は、[シェルター]という限られた空間に存在する人間だけを対象としたものに過ぎない。

 人間が[シェルター]の中にいる者だけで全員であれば、何も問題は無い。[防人]の存在理由と与えられている任務は完全に合致する。だが、それ以外にも生き残りの人間がいるとなると、[防人]の現在行っている行動はおかしなものという事になり、齟齬が生じる。

 [防人]達は実質的に[シェルター]を守るために編成され、配備され、陣地を築いている。限られたわずかな人間を守るために使われているというのが現状だ。

 人間を守っているのか、[シェルター]を守っているのか。それをどの様に認識するかは、[防人]の在り方にとって重要な事だと言えた。

 そして、仮に、地上にも人間の生き残りがいるのだとして、それらの存在を知った時、どのように行動する事が正しいのだろうか。[シェルター]を守るために地上の人々は見捨てるのか。それとも、[シェルター]を危険にさらすとしても、手を差し伸べるのか。

 [新人]は何度も似た様な思考を繰り返し、迷った。それから、昨日の自身の行動や、その時の気持ちをよく思い出し、自身がどうあるべきか、やっと、結論した。

「それは・・・、[シェルター]にいる人間達と同じ様に、守るべきだと、思います。」

「それが、[シェルター]の防衛に隙を与えたり、私達の生命を決めてしまったりする事でも、ですか?」

 [中尉]は、念を押す様に、[新人]に言葉を重ねる。

「はい。・・・そうする方が、正しい気がするんです。」

 [新人]は、迷う事なく肯定した。

「・・・・・・。そうですか。」

 [中尉]は特に何の感想も示さなかった。[新人]は[中尉]の表情を観察したが、彼女が何を思ったのか、何を考えてそれを[新人]に確認したのか、分からなかった。

 [中尉]は[新人]から離れると、土嚢を背に座り直し、それから、身に着けた腕時計で現在の時刻を確認した。

「[新人]。そろそろ、見張りはいいでしょう。下に降りて、食事にしようと思います。[亡霊]側に目立った動きもありませんし、当面は安全と判断します。」

 言われて、[新人]は昨夜の夕食以降、何も口にしていない事を思い出し、猛烈な空腹を感じ、すぐに腰を浮かせた。

「賛成、賛成、大賛成です!」


 [新人]と[中尉]が見張りに就いていた監視所は、倒壊し切らずに残った、[亡霊]との戦争が始まる前は博物館として使われていた、大きな建物の屋上に作られていた。

 その建物は不思議な形をしていて、遠目から見ると、四本足の動物の様に見えない事も無い。他の廃墟と比べれば比較的原形を保っており、跡形も無く崩壊する様な事は無さそうだった。もちろん、無傷ではなく、動物で言えばお腹とお尻(あるいは頭)に当たる部分に大きな穴が開いている。中に在った施設は、攻撃で破壊されたり、火災で焼失したりで、原形を留めているものは少なかった。

 建物の側面、線路側に、地上と行き来するためのゴンドラが設置されていた。建物が健在だった頃には無かった設備で、屋上に監視所を設ける際、資材を運搬するために設置され、その後も人員の行き来に利用されているものだった。

 二人がゴンドラに乗り込むと、[新人]は昇降スイッチを操作する。ゴンドラの簡素な扉が自動で閉まり、モーターが駆動してするすると降下が始まる。

 そのゴンドラは、元々どこかの高層ビルで外壁清掃用に用いられていたものらしかったが、状態はすこぶる良く、動きは滑らかで、景色を眺める暇も無く地上へ着いた。

 降りた先が、[防人]の野営地だった。太い四本の足で支えられた建物の下、動物で例えればお腹の下に当たる空間にテントが設置されている。周囲には土嚢が積まれ、一応の防御と野営地の隠蔽ができる様に簡単な陣地が作られている。

 一見、そこが地上に見えるが、実際にはさらに下も建物の一部であり、下の建物には[防人]が使う物資や車両などがいくらか保管されている。しばらく使われていないためか、それらは保護シートと一緒に埃も被っている。

「[新人]、少し、ここで待っていてください。」

 いつもの様にテントの中に入って休もうとした[新人]を、[中尉]が引き留めた。

「へっ?何でですか?」

 [新人]は間抜けな声を漏らした後、怪訝そうな顔で振り返ったが、[中尉]は理由を教えてくれなかった。

「[中尉]です。入りますよ。」

 [中尉]はそう言うと、テントの中に入り、それから顔だけを出して、きょとんとしたままの[新人]を見た。

「いいですか、[新人]。私が入っていいと言うまで、決して中に入ってきてはいけませんよ?いいですね?決して、決して、入って来ない様に。」

「は、はぁ、分かりました。」

 [新人]は状況が呑み込めていなかったが、[中尉]が有無を言わさぬ様子だったために頷いた。

「そんなに待たせたりはしませんので。・・・ああ、覗いてもいけませんよ。」

 [中尉]は念を押す様にそう言うと、テントの中に姿を消した。

 [新人]は数回、瞬きを繰り返した。何が何だか分からないままだったが、少し冷静になると、好奇心が出てくる。

 [中尉]は、覗くなと最後に言った。

 そんな事を言われては、覗いてみたくなるのが人情というものだろう。

 [新人]はうずうずとし、今すぐにでもテントの中を覗きたいと思った。

「[新人]、もう、入ってきていいですよ。」

 だが、[中尉]が呼びかけてくる方が、[新人]が好奇心に耐えきれなくなるよりもはるかに速かった。本当に、そんなに待たせたりしなかった。

 [新人]は拍子抜けしてしまったが、入ってもいいというのだから素直にテントに入る事にした。腹ペコをどうにかしたいと思った。

 テントに入ると、同時に、ぐぅと腹の虫が鳴いた。テントの中は美味しそうな食べ物の匂いで満たされており、空腹の[新人]にとっては天国の様な地獄に思えた。

 同時に、パン、パン、と、火薬の爆ぜる軽い音がテントの中に響いた。

 [新人]の頭の中は一瞬の内に真っ白になった。パニックだった。

 何故なら、[新人]は生まれてこの方、火薬の爆ぜる音と言ったら銃火器の発砲音か、爆発物の炸裂音しか耳にした事が無かったためだ。

「ぅへぁっ!!?」

 [新人]は、奇妙な悲鳴と共に後ろへひっくり返った。


「ごめんねー、[新人]ちゃん。まさかあんな風に驚くとは思わなかったんだよ。」

 朦朧とした意識の中で、[新人]は、誰かが自分の顔を覗き込みながら、すまなそうにそう言う声を聴いた。

 徐々に、意識がはっきりとする。

 まず感じたのは、頭部の鈍い痛みだった。後ろに倒れた際にぶつけたらしい。鉄帽は被ってはいたのだが、よほど勢いよく倒れたらしく、軽い脳震盪を起こした様だった。

 次に感じたのは、後頭部の下の柔らかな感触だった。

 [新人]が目をうっすら開くと、心配そうにこちらを覗き込んでいる少女の顔が見えた。

 地上で[シェルター]の防衛任務に就いているのは全て[防人]なので、彼女も当然、[新人]と同じ顔立ちだったが、どことなく優しげで包容力のありそうな雰囲気が滲み出ている。

「えっと・・・、[ドクター]?」

 [新人]はすぐには状況が呑み込めず、助けを求める様にその兵士を見上げた。

 どうやら、[新人]は膝枕をされているらしい。柔らかな感触は[ドクター]と呼ばれているその兵士の太ももで、頭を打った事による痛みはあったが、何とも言えない心地良さを後頭部に感じられた。

「おっ、[新人]ちゃんがお目覚めみたいだよー。」

「おう、思ったよりか早いじゃん。じゃ、さっそく始めないか?」

「これっ、お主、少しは[新人]を心配してやらんか。」

「ごもっともですが、あれは見ものでした。」

 近くで四人の声が聞こえた。[新人]が視線を声の方にやると、テントの天井に吊るされたランプの明かりに照らされて、四人の少女が、簡易な構造のベッドに腰かけて座っていた。

彼女達も[防人]だ。

 右から、快活で、悪く言えば能天気そうな雰囲気の[運転士]。次が精悍で猛禽を思わせる相貌を持ち、常に持ち歩いている愛用の大型ライフル銃を今も抱えている[狙撃手]。続いて、テントの最奥にある他より少しだけ造りの良いベッドに腰かけた、右足の膝から下が義足で、他より随分年長な雰囲気の、悪く言えば老化して見える[長老]。残る一人は[中尉]だ。

 皆、[防人]として生み出された人造人間で、[新人]と変わらない外見を持つのだが、何となく見分けがつくくらい、雰囲気に違いがある。

 その場にいる[防人]は六名、年長順に並べると、[長老]、[中尉]、[ドクター]、[狙撃手]、[運転士]、[新人]の順番になる。

 この六名が、地上で監視活動を行っているチームで、[小隊]と通称されている。本当は長ったらしい番号と記号を並べた正式名称があるのだが、面倒くさいのと、現在地上に常駐している唯一の部隊なので、皆この[小隊]という通称を使っている。他の部隊でも通じるほどには知られている。

 名前と言えば、[防人]達も番号と記号を組み合わせた正式な名称というか、識別コードを持っている。[新人]や[中尉]といった呼び方は、その[防人]の経歴や立場から、[防人]達が勝手に名付けて使っているものだった。

[小隊]のメンバーは皆、無機質な番号で呼ばれる事を特に嫌っている。自分達は単なる物ではないという自負を持っている。

 [小隊]の指揮官は[中尉]で、その名の通り中尉の階級を持つ、生まれてから十二年は経過しているベテランの[防人]だった。士官教育をかなり優秀な成績でクリアし、実戦経験も豊富。[長老]は[中尉]のおよそ倍も生きている、[防人]の中でも最も長生きしている一人で、[新人]はその階級を知らないが、[中尉]に助言したり知恵を貸したりしているからには相当な立場にいるのだろう。[防人]の耐用年数は二十年とされており、その年数を過ぎた[長老]は体力が衰え、近頃はベッドに寝たきりになる日もあるが、その経験と判断力は[小隊]にとって貴重なものだった。[ドクター]は、生まれてから十年以上経過している[防人]で、本来衛生兵という種別が存在しない[防人]の中では珍しく医療技能を持っている。技術は独学で、廃墟で見つけた本や資料から学んだらしい。階級は曹長。[狙撃手]は生まれてから八年経過しており、その呼び名の通り抜群の射撃技術を誇る。対物狙撃銃を愛用しており、いつも近くに愛銃を置いている。階級は伍長。[運転士]は生まれてから五年で、能天気そうな見た目からは想像できないかもしれないが、車両から航空機まで、一流と言える運転技能を身に着けた優秀な[防人]だった。機械の簡単な修理も得意で、手先が器用な上等兵。最後に、[新人]は生まれてから半年ほどが経過したばかりの若い[防人]で、まだまだ勉強中の身だった。階級は二等兵。

「いやー、[長老]。そんな事言われましても、私ら何にも悪くないじゃないですか。」

「そーですよ。ボク達はただ、[新人]ちゃんを歓迎しようとしただけじゃないですか。」

 肩をすくめた[狙撃手]に、[運転士]が同調して唇を尖らせた。

「だいたい、パーティ用のクラッカーでひっくり返るかね、普通。」

 [狙撃手]から呆れた様な視線を向けられ、[新人]は少しムッとした。

「そんな事言われても。あたし、クラッカー何て知りませんし。」

「結構苦労して作ったのになー。」

 そう言いながら、[運転士]は暗がりから三角錐状の物体を取り出すと左手で構え、てっぺんにある紐を右手で引いた。同時に、パン、と軽快な破裂音が響き、円錐の底が開いてカラフルな紙吹雪が飛び出した。

 [新人]は再び瞬きを繰り返した。先ほどの様に度肝を抜かれはしなかったが、とても物珍しいものに思え、そして何でわざわざそんなものを作ったのか疑問に思った。

「[新人]ちゃんも、ホラ、いつまでもへたばってないで、一つやってみなよ。面白いよ。何せ、今日の主役は[新人]ちゃんなんだから!」

 不思議そうにしている[新人]に、[運転士]はクラッカーを一つ、放ってよこした。屈託の無い彼女の笑顔からは、悪意の欠片も感じられない。

「えっと・・・、主役、って・・・?」

 [新人]は戸惑ながら身体を起こし、きょとんとした顔で数回瞬きを繰り返した。その様子に、他のメンバーは楽しそうに笑った。

「あはは、鈍いなぁ、[新人]ちゃんは。」

「そこがかわいいところでもある。」

「なっ、ひどいっすよっ!?」

「いえ、でも、これは、[新人]が面白いのがいけないですね。」

「まぁ、愛嬌はあるかのぅ。」

 [新人]をからかうばかりの他のメンバーを見かねて、[ドクター]がそっと、これがどういう会なのかを教えてくれた。

「これはね、[新人]ちゃん。貴女の歓迎会なの。私達、[小隊]に配属されて一週間経ったでしょう?だから、そろそろお祝いしてあげようって話になったの。」

「しかも、昨日は初陣まで飾ったし、もう、うちらのれっきとした仲間って事でいいでしょう。お客さんは卒業かな。」

「そうだよ。ほら、[新人]ちゃん、盛り上がっていこうよ!」

 [狙撃手]がウインクし、[運転士]が催促した。

 [新人]は、渡されたクラッカーを視線の高さに持ち上げ、興味深そうに眺めた。

「こうやって構えてねー、紐を引っ張ればいいんだよ。」

[運転士]が、[新人]にお手本を示す様に、先ほど鳴らしたクラッカーの紐をもう一度引いて見せた。[新人]は見様見真似でクラッカーを構え、紐を引いてみる。

小気味よい破裂音と共に紙吹雪が舞い散り、鼻孔を火薬の匂いがくすぐった。

「・・・・・・。ぇえっと・・・、これって、どういう意味があるんですか?」

 [新人]は、舞い落ちる紙吹雪を怪訝そうな顔で眺めた。

「何って、そりゃぁ、面白いからだよ。人間はみんなコレを使っていた、らしいよ?」

「そうそう、これがあるのと無いのじゃ、盛り上がりに違いが出るんだよ。ほら。」

 [運転士]と[狙撃手]は互いに顔を見合わせた後、[新人]に向き直ると、新しいクラッカーを[新人]の方に向けて構えた。

「目標、[新人]。クラッカー、鳴らし方始め!」

「うりゃっ!くらえ[新人]ちゃん!」

「はっはっはっ、紙吹雪をくらえ!」

 [中尉]の号令で、二人は[新人]を狙ってクラッカーを交互に鳴らし始めた。

 気づけば、[ドクター]も、[長老]も、クラッカーを手に取り、[新人]に向けて次々と鳴らした。[新人]は紙吹雪を頭から浴びせられたが、くすぐったくは感じたが悪い気持ちはしなかった。

 確かに、楽しいと思った。同時に、人間というのは、どうも、不思議な事をするものなのだなと思った。

「・・・ありゃ、もう、無いや。あー、もっとたくさん作りたかったなー?」

 ひとしきりクラッカーを鳴らした後、自身が腰かけているベッドの下の箱をガサゴソと漁った[運転士]が残念そうな顔をした。

 それから、[中尉]の方へ物欲しそうな視線を向ける。

「弾薬を解体した事が見つかると面倒ですので、我慢してください。あまり増えると書類をごまかせなくなります。」

「ちぇっ。」

 [中尉]が淡々とした口調で物騒な事を言い、[運転士]は無念そうに引き下がった。[新人]はクラッカーがどうやって作られたかを察したが、気づかなかった事にした。

「まぁ、いいや。それじゃ、さっさとご飯にしよう。」

 [新人]は、[運転士]のその一言で、自分が腹ペコであった事を思い出した。

 [防人]達はベッドの下から空き箱を取り出し、ひっくり返して並べると、たちまち食卓が出来上がった。それから、奥の大鍋で温められていた缶詰が取り出され、それぞれに渡されていく。

 本日のメニューは肉の缶詰、豆と野菜のトマトスープ缶詰だった。それらに加え、付属として大きな乾パンとティーパック、飴玉が入ったパックを渡される。これで一食分だった。

 缶詰は既に開封済みで、テントの中に漂う美味しそうな匂いの原因になっている。

「「「いただきます。」」」

 この地域の古い伝統にのっとり、両手の手の平を軽く合わせた後、[防人]達は食事を始めた。食器は箸しかなく、缶詰の缶がそのまま器代わりだった。

 味の方は、[新人]にとっての比較対象が訓練期間中に提供された気味の悪いペーストであるため参考にならないかもしれないが、美味しかった。

「はー、訓練中も、こういうご飯だったら良かったのに。」

 乾パンをトマトスープに浸して口に運びながら、[新人]はしみじみと思った。

「あれは、何と言うか、機能面しか考えていないモノだからねー。」

 缶詰肉を箸で器用に切り分けながら、[ドクター]が教えてくれる。

「[防人]ってね、培養カプセルを出る段階で身体はできているんだけど、その後の訓練課程で無理やりいろいろ詰め込まなきゃだから、栄養価とか諸々計算して、必要な栄養を効率的に取れる様に、栄養が偏らない様にされているんだよ。」

「それにあのペースト、[防人]それぞれの状態に合わせて調整もされているんだ。」

 スープをすすりながら、[狙撃手]が会話に加わる。

「へー、そうだったんですか。全部、一緒だと思っていました。」

 ペースト食料は、味がほとんどしない。したとしても、多少苦さやしょっぱさ、化学薬品ぽさがあるくらいで、[新人]は一度も変化を感じなかった。今の様な食事を初めて口にした時は、ひっくり返るくらい驚き、実際に椅子から落ちた。

「ふっふっふっ、[新人]ちゃん、あれはそれだけじゃないよー。」

 [運転士]が意味ありげにほほ笑んだ。

「あれにはね、栄養だけじゃなく、いろいろ入っているのさぁ。訓練内容がちゃぁんと身に着く様に頭を活性化するお薬とかぁ、疲労を無くすお薬とかぁ、後、ナノマシンとか。」

「なのましん?何すか、それ?」

 [新人]にとっては聞き覚えの無い単語だった。大抵の知識は頭脳に刷り込まれているはずだったが、何故かその単語の意味は知らない。

「目に見えないくらい、とても小さな機械の事じゃよ。体の中に取り付いて、いろいろと役割を果たすものじゃ。いろいろと、な。」

 乾パンを長くスープに浸し、柔らかくしながらゆっくりと食べていた[長老]が答える。

「まぁ、我々には不要なものだから、取り除いてあるがの。ほれ、[新人]、地上に出てからすぐに我々が飲ませた薬があったじゃろ?あれのおかげでナノマシンはもう機能を停止しておる。」

「へー、そうなんですか。」

 [新人]は頷きながら、ふと、疑問に思った。ナノマシンを停止させたという話だったが、そもそも何故ナノマシンを食事に混ぜていたのだろうか。わざわざ混ぜたのだから、何らかの目的があるはずなのだが、機能を停止させても構わないのだろうか。

 だが、その場にいる[新人]以外の[防人]達は、何も気にしていない様子だった。だから[新人]も、深く考え過ぎだと思って、すぐにその疑問を忘れてしまった。

 昨晩、[亡霊]との交戦もあり、皆いつもよりお腹を空かせていた。料理はすぐに平らげられ、食後のお茶の時間になった。

 お茶をすすり、デザート代わりの飴玉を舐め、[新人]はすっかり満足した。

「おやおや、[新人]。メインはここからだぞ?」

 幸せそうにしている[新人]に不敵な笑みを向けると、[狙撃手]はベッドの下から新たな箱を取り出す。

 その箱には、何らかの液体の入った瓶がぎっしりと詰め込まれていた。

「おお、凄い。良く、こんなに見つかったねー?」

「瓦礫をどけたら、たまたま見つかったんだよ。箱に入っていたから、瓶が割られずに済んだみたい。」

 両手をバタバタとし、全身で喜びをあらわにする[運転士]に、[狙撃手]は自慢そうだった。

 見ると、[ドクター]も[長老]も、[中尉]でさえも、どことなく嬉しそうだった。

 だが、[新人]は、その瓶の中身が何なのか知らない。

「あのー、[狙撃手]、殿?それは、いったい・・・?」

「それはね・・・、飲んでみての、お楽しみだよ?」

 [狙撃手]は意味深にほほ笑むと、箱から瓶を取り出し、封を切った。


 瓶の中の琥珀色をした液体が、トクトクトク、と独特な音を発しながら、人数分用意されたグラスに注がれていく。ランプの揺らめく光で照らされ、その琥珀色の液体は魅力的な輝きを放っていた。

グラスの目いっぱいまでは注がれない。グラスの底に、指一本分の深さで注がれただけだった。[新人]はケチっているのかと思ったが、それだけ貴重なものなのかとも思った。

 [狙撃手]が瓶を元の箱の中に戻すと、[ドクター]が、いつの間にか用意していた水筒から、グラスに水を注ごうとする。

「あ、ちょっと待った。」

 その動きを、[狙撃手]が制止した。

 [ドクター]は怪訝そうな表情で[狙撃手]を見返したが、[狙撃手]がウインクをすると何かを察したらしく、困ったような、仕方ないなとでも言いたそうな顔をして下がった。

「さ、[新人]。最初の一杯を、真っ先に飲み干す権利を差し上げよう。何たって今日の主役だからね。」

 [狙撃手]はそう言うと、恭しい手つきでグラスの一つを手に取り、[新人]に捧げた。

「いいね、いいね!ぐいっといっちゃいなよ!」

 それを見た[運転士]が、楽しそうにはやし立てる。

「いやぁ、どうもっす。」

 [新人]は照れながらグラスを受け取り、口元に引き寄せた。

 しかし、すぐには飲まない。中身が何なのかが気になった。

 とりあえず匂いを嗅いでみると、琥珀色の液体はそれまでに[新人]が嗅いだ事の無い香りを放っていた。木の香りと、微かに甘い香り。その他にも[新人]には形容する例えが思いつかない様々な香りが混ざり合い、独特の、魅惑されてしまうような芳醇な香りが作り出されている。

 とてもいい香りだと思ったが、薬の様だとも思った。

「あのー、[狙撃手]殿?これって、何て言う飲み物ですか?」

「まぁまぁまぁ、飲んでみなって。」

 [新人]は確認してみたが、[狙撃手]は笑って胡麻化すだけだった。

 何となく不安に思ったので、[新人]は他の[防人]の顔色をうかがう。

「こう、ちょっと口をつけて、なめるくらいにしておけ。」

 [長老]はそう言いたそうな、たしなめる様なジェスチャー。

「ぐいっと、思い切っていきましょう。」

 [中尉]はそう言いたそうな、促す様なジェスチャー。

「・・・・・・。」

 [ドクター]は、ちょっと困ったような表情のまま、無言。ただ、先ほどグラスに注ぐのを止められた水を、すぐに使える様に持っている。

 [新人]はグラスの中の琥珀色の液体へと視線を戻した。ランプの淡く揺らめく光に照らされて、その液体はゆらゆらと揺れながら輝いている。

 [新人]はほんの少し躊躇し、それから、そもそも毒では無いのだから、飲んでも大丈夫だろうと判断した。それから決意の揺らがない内にグラスを持ち上げ、傾け、一気に口の中に琥珀色の液体を流し込んだ。

 それは、ほんの少しトロリとしていて、甘みがあり、口いっぱいに素晴らしい香りが広がり鼻孔へと突き抜けて行く飲み物だった。美味しいと思った。

 だが、その液体が、喉に差し掛かった時だった。

 喉が焼ける様な感覚。食道が一気に押し広げられる様な衝撃。そして、全身が急に熱くなる様な、身体の中で飲み込んだ液体が燃える様な感覚。それらが同時に押し寄せ、[新人]の身体を震わせた。

「ぐほっ!?」

 [新人]は反射的に咳き込み、咽て、何度も咳き込んだ。

 [狙撃手]と[運転士]と[中尉]が声を立てて笑いだした。

 [長老]は呆れた様子で笑う三人と咽る[新人]とを見やり、[ドクター]は冷静に[新人]へ水を差しだした。

「[新人]ちゃん、はい、お水。」

 [新人]は[ドクター]から水を受け取ると、ラッパ飲みに勢い良く喉へと流し込んだ。

 喉の感覚は大分マシになったが、胃では相変わらず、何かが燃えている様な熱い感覚がしている。[新人]はまた少し咳き込み、それから呼吸を整えると、さらに水をいくらか自身の身体の中へと流し込んだ。

「[狙撃手]殿っ!?ひどいですっ!それに、これは一体何なんですかっ!?本当に飲み物何ですかっ!?」

 それから、腹を抱えて笑っている[狙撃手]へと抗議する。

「はっはっはっ、いや、ごめん、ごめん。」

 [狙撃手]は一応[新人]に謝ったが、まだ笑っている。

「これはね、[新人]ちゃん。お酒って言うんだよ?大丈夫、薄めずに飲んだからキツイだけで、薄めて飲めばちゃんと美味しいから。本当は人間の大人しか飲んじゃいけないんだけど、僕らは[防人]だから、大丈夫。多分ね。」

 続けて、[運転士]がそう説明してくれたが、やっぱり笑ったままだった。

 [新人]は憮然とした。

「あたしばかりからかって、ずるいじゃないですか。[狙撃手]もやってください。」

「ひー、はー、ふぅ・・・。そんなの、お安い御用さ。」

 [狙撃手]は呼吸を落ち着けると、[新人]に不敵な笑みを向ける。それから琥珀色の液体の入ったグラスを一つ手に取ると、[新人]と同じ様に一気にあおった。

「くぅっ、コイツはいい!」

 だが、咳き込んだりはしないし、実に美味そうに飲み干した。食卓の上に戻されたグラスが、とんっ、と、小気味よい音を立てた。[狙撃手]は軽く口元を右手で拭うと、小さく舌なめずりまでする。

「へっへっへっ、もう一杯。」

「ぐぬぬ・・・。」

 [新人]は、平然として次の一杯をグラスへと注ぐ[狙撃手]を睨みつけながら、悔しそうに唸る他は無かった。

 仕方なく、怒りの矛先を別に向ける。

「[運転士]、それに、[中尉]!二人もさっき笑いましたよね!?二人も同罪です!さ、やってみせてくださいよ!」

 [運転士]も[中尉]もまだおかしそうにしていたが、笑顔が引きつった。

「へっ?い、いやー、[狙撃手]がもうやったんだし、もう、イインジャナイカナー?」

 [運転士]は若干棒読みでそう言いながら、睨んで来る[新人]から視線をそらした。

「あー、信じられないかもしれませんが、私は笑っていませんよ?」

 [中尉]は、真顔を作り、分かりきった嘘を述べた。

「二人とも。みっともないぞ?」

 [長老]が叱ったが、[運転士]はヘタな口笛を吹き、[中尉]は何も聞こえていませんよとでも言いたそうに無表情を保った。

「ちょっと、ちょっと?だらしないよ、二人とも。」

 そんな[運転士]と[中尉]を、二杯目の注がれたグラスを手に取った[狙撃手]が挑発する。

「[新人]はもう、うちらの仲間だ。なら、ケジメはちゃんとしないと。ケ・ジ・メ。何事もフェアにやるべきじゃありませんか?」

「・・・ぅう、笑わなきゃよかった。」

「・・・仕方ありません。これは、沽券にかかわります。」

 お互いに顔を見合わせると、[運転士]と[中尉]も、渋々グラスを手に取った。

「「「カンパーイ!」」」

 三人はグラスを掲げて息を合わせると、グラスを一気にあおった。

 一人は平然と美味そうに飲み干し、二人は[新人]と同じ様に咳き込んだ。

「はい、余興はそこまで。お酒は楽しく、ほどほどに。」

 苦しそうに咳き込む二人に水の入った瓶を渡し、それから、[ドクター]は数回手を叩いて注目を集めた。

「無理せず、水で割って飲みましょうね。[狙撃手]もそうしなさい。調子に乗ると飲みすぎますからね。あと、おつまみもいくらかあるから。」

 [ドクター]はそう言うと立ち上がり、軍用レーションでは無さそうな缶詰をいくつか奥の鍋のお湯の中から取り出して食卓の上に並べた。

 缶詰には色付きで中身のイメージ写真が印刷されており、[焼き鳥・タレ][焼き鳥・塩][鯖のみそ煮][秋刀魚蒲焼][まぐろ油漬け][牛肉大和煮]など、料理名がそれぞれの商品をより魅力的に見せる様に工夫された字体で描かれている。手で触れるぐらいに暖められていた。

「[ドクター]、これって、[シェルター]からの補給品ですか?」

「違うよ。これは、世界がこうなる前に、普通に流通していたものなの。作られたのは大分昔だけど、まだ缶は膨らんでないし、十分、美味しく食べられる状態の奴を選んで集めたの。」

「へー・・・。昔の人間は、こういうモノを食べてたんすか。」

 軍用レーションの武骨な見た目の缶詰しか見た事の無かった[新人]は、感心しながらそれらを眺めた。どれも食べた事の無い料理だった。

 六人は協力し、缶詰を並べ、グラスに琥珀色の液体と水を注いで混ぜ合わせた。

「それでは、改めて。[新人]の[小隊]着任を祝って。」

「「「乾杯!」」」

 六人は年長の[長老]の音頭でグラスを重ねた。

 水で薄めたので、もう[新人]も咳き込んだりせずに飲む事ができた。

 琥珀色の液体はウイスキーという。穀物を発酵させて蒸留し、木の樽の中に詰めて熟成させて作られる。いわゆるお酒という奴で、アルコールを多く含んでいる。

 [新人]は、その初めて口にする飲み物と食べ物を、喜んで食べた。それらは素晴らしい味だったし、[新人]はとても気に入った。

 それに、なんだか心地が良くなってきた。

 水で薄めたウイスキーは、生で飲んだ時ほど味も香りも濃くは無かったが、あの喉が焼かれるような強烈な感覚は無く、単純にその美味しさを楽しむ事ができた。[新人]は[ドクター]のやり方を真似、他の[防人]に作ってあげたり、作ってもらったりしながら、一杯、二杯、三杯と、楽しく飲み干した。

 気が付いた時には、すでに真っ直ぐ立っていられない様な状態だった。

「あーれー、なんだかふらふらしますねー。」

 [新人]は、理由も無く楽しい気分になって、身体を前後左右にゆらゆらさせた。まるで重力が無くなったみたいに身体が軽く、だが真っ直ぐにしていられない。軽いはずなのにおかしいなと思ったが、それが何だかたまらなく愉快だった。

 しゃべってみて、舌が上手く回らない事も、同じ姿勢を保っている事もできない事を[新人]は自覚し、これでは[亡霊]が襲ってきても全く戦えないなと思ったが、それらは全く、どうでも良い事だと思えた。だって、今はこんなにも楽しいのだから。

 意味も無く頬が緩み、[新人]はにやけた顔で幸せそうにしている。

「あっはっはっは、[新人]ちゃんができあがってるーぅ。」

 [運転士]が[新人]を指さしながら笑う。だが、[運転士]もまた、[新人]と同じ様に身体を揺らし、いつにも増して陽気に笑っている。

「いいね、いいね、楽しそうだね。ささ、もう一杯、やりなよ。」

 何でも無いのにけらけら笑っている[新人]と[運転士]のグラスが空になっているのを見て取り、[狙撃手]がすかさず、流れる様な動きでウイスキーの水割りで満たされたグラスを渡した。

 [新人]と[運転士]は笑顔でそれを受け取り、何度目かの乾杯をし、嬉しそうに口をつけて美味しそうに飲んだ。

「[狙撃手]?いけませんよ?」

 楽しそうにしている[新人]と[運転士]を見て不敵な笑みを浮かべている[狙撃手]を、[ドクター]が笑顔のまま睨みつけた。

 [狙撃手]はおどけて肩をすくめ、震えあがった演技をすると、悪びれすに言ってのける。

「やだなぁ、教育ですよ、教育。人類の友とのお付き合いの仕方を教えているんです。人類の友なら、すなわち、我々[防人]にとっても友という事でしょう?」

 [狙撃手]の指は酒瓶を指さしている。

「でも、こんなペースで飲ませたら、明日が大変ですよ。」

「いいじゃないですか、それも経験です。[新人]は酒の善悪を学べるし、[運転士]はいい加減ペースってもんを覚えるでしょうよ。すーぐ調子に乗るんだから。」

 [ドクター]の注意もどこ吹く風だった。[狙撃手]は逆に、もう一杯酒を作ると、[ドクター]へと差し出す。

「どうです、[ドクター]も、もう一杯。いっつもペースを抑えてるんだから、たまには全力ってもんを見せてくださいよ。」

「私まで潰れたら、誰が貴女達を介抱するんです?」

 [ドクター]は不満げに唇を尖らせたが、[狙撃手]が差し出したグラスは受け取り、酒席の礼儀として口は付けた。ちなみに、彼女はこれが二杯目だった。

 [新人]と[運転士]は、普段なら何でもない事でもたまらなく面白いらしく、相変わらず笑い合っていた。手で太腿を叩き、足を踏み鳴らしてリズムを刻み、お互いに手を差し出してタッチし合い、けらけらと笑っている。

 自身の分の酒を作りながら、[狙撃手]は奥の暗がりで気配を消す様にしている他の二人へと矛先を向ける。

「あっれー?[長老]殿、[中尉]殿。さっきからお酒が減っていませんよー?」

「わしは年だからの。体に障る。なめるくらいがちょうどいい。」

 [長老]は苦笑し、言った通り、グラスをなめる様にちびちびと飲んでいる。

「私は、その、あまり飲んでしまっては、隊の規律を維持する上で問題があるかと思いますので。」

 [中尉]は[狙撃手]から視線を逸らすと、中身がどれくらい残っているかを隠す様にグラスを手で覆った。

 [狙撃手]は[長老]と[中尉]の顔を、視線だけを動かして鋭く交互に見比べた。それから、[長老]を見ながら何度か頷き、次に[中尉]に視線を移し、精悍な相貌を細め、薄ら笑いを浮かべた。今日の獲物を見つけた、とでも言う様な表情だった。

[狙撃手]は酒瓶を手に立ち上がると、席を移し、[中尉]の隣に腰かける。危険を察した[中尉]は逃げようとしたが、[狙撃手]に太腿を押さえつけられて阻止された。

「くっ、何をするんですかっ?」

「いやいやいや、それはダメですよ、ダメダメ、[中尉]殿。今日は無礼講で行きましょう!」

 [狙撃手]は[中尉]を座らせると、ニヤニヤと笑みを浮かべながらグラスを二つ用意し、持ってきた酒瓶の中身を注いだ。

 それはやや黄色がかった半透明な液体で、微かに酸味の効いた、爽やかな果実由来の香りと、樽の中で熟成される事で形成された複雑で味わい深い香りのする飲み物だった。

「まーまー、[中尉]殿、隊長殿、上官殿。これはとっておきの一品ですからぜひ味わっていただきたいと思いましてね。ささ、ぐっと行きましょう!」

 [狙撃手]にグラスを顔に押し付けられるものの、[中尉]はなおも抵抗する。

「し、しかし、とっておきの一品ならまず今日の主役の[新人]に飲ませるべきではっ?」

「いやいや、もう一本ありますから遠慮なさらず!」

「わっ、私は何故か他の[防人]よりお酒に弱いんです!」

「見え透いた嘘を言うもんじゃないですよ。この前一緒に飲んだ時はもっといいペースだったじゃないですか。ちゃんと見てたし覚えてますからね、騙されませんよ?隊長殿はもっとガンガン行っても大丈夫です。」

「きょっ、今日はちょっと調子が悪くて・・・、がぼごぼっ!?」

「はっはっはっー、そんなにこぼしちゃだめじゃないですかー。」

 [狙撃手]は[中尉]の口に流し込む様にグラスの中身を注ぎ込んだ。[中尉]は相変わらず抵抗しているので、大半があふれてしまったが、いくらかは[中尉]の口にも入った。

「くっ、こんな、無理やりっ、がぼっ!?」

「無駄な抵抗をしなければいいんですよ、[中尉]殿。一緒に楽しくなりましょうよ。」

 [狙撃手]はさらにグラスを傾けると、[中尉]にグラスの残りも飲ませようとする。

「やれやれ、水を得た魚じゃな。」

 [長老]は呆れた様に呟いたが、口元は楽しそうにほほ笑んでいた。

 抵抗する[中尉]と、続けざまに酒を飲ませようとする[狙撃手]との攻防戦に、[新人]と[運転士]がげらげら声を出して笑った。

「そこの二人、笑ってないで、勝負だ!」

 [狙撃手]は不敵な笑みを浮かべると、[中尉]の口元からグラスを離し、[新人]と[運転士]に挑戦する。

「えー、なんっすか、しょうぶってー?」

 [新人]は、相変わらず楽しそうに身体を揺らしている。

「ゲームをしよう。人間が遊んでいたカードゲームだ。インディアンポーカーっていう奴。」

「えー、でも、あたし、ルール、知りませんよぅ。」

「ルールは簡単だから、すぐに分かるさ。」

 [狙撃手]はそう言うと、ベッドの下をまさぐり、古びたカードケースを取り出した。使い込まれているらしく、紙でできたケースはボロボロで、汚れていたが、大事に使われているらしく大きな損傷はない。

「ルールは簡単。カードを一枚引く、引いたら数字を見ないで自分の額に、他の相手にだけ数字が見える様に掲げる。そしたら、順番に、誰かに一回ずつ質問をして、質問をされた人は質問をした人の数字がいくつか、ヒントを出す。すぐに数字が分かる様なヒントじゃだめだぞ、ちょっと分かりにくくするんだ。そこの駆け引きが面白いからね。誰に質問をするかは、各々で決めていい。で、最後に一斉にカードの数字を見て、数字についた役が一番強かった奴が勝ち。ヒントを聞いた時に一回だけカードは引き直せるけど、引いたカードが前より強いとは限らないから、よく考えてやるんだ。」

「へー、ほんとにかんたんっすねー。」

「あー、そのゲームかぁ。それなら、僕にも勝ち目あるねー。」

 [新人]と[運転士]は場所を移動すると、[狙撃手]と輪を作った。

「で、今日はどうするのー?何か賭けるー?」

 [運転士]の問いかけに、[狙撃手]はニヤリとして答える。

「元のルールが単純だから、少し面白くしよう。負けた奴は、一番勝った奴が作った酒を飲む。ただし、酒の量は一口で飲めるくらいにしておく事。すぐに潰れちゃったらつまらないしね。」

「いいっすよー。」「りょうかーい。」

 その提案を[新人]と[運転士]は了承し、[狙撃手]はカードの束を取り出して、慣れた手つきで混ぜ始める。

「三人共、ほどほどにするんですよ。」

 その時、こぼれた酒を拭いていた[中尉]が、どこか他人事の様にそう言った。[狙撃手]の矛先が[新人]と[運転士]に向いたと思って、すっかり油断し切っている様子だった。

 そんな[中尉]に、[狙撃手]は満面の笑みを向ける。

「何言ってるんですか?[中尉]殿もやるんですよ?」

 [中尉]は、ぎょっとして[狙撃手]を見た。

「えっ?何故、私がっ?」

「だって、みんな[中尉]殿とやりたがっていますから。・・・なぁ、二人とも?」

 [狙撃手]に言われて、[新人]と[運転士]はお互いの顔を見合わせた。それから、二人とも同意見に達したらしく、お互いに笑みを浮かべる。

「ちゅーいどのっ!あっそびましょーっ!」

「あっそびましょーっ![中尉]殿のー、ちょっといいとこ、見てみたい―っ!」

 二人は立ち上がると、心底楽しそうに、無邪気な子供の様な笑顔で、少し怖い感じもする笑顔で、[中尉]ににじり寄る。

「ちょっ、ちょっと、何をする気ですかっ!?こらっ、やめなさい、上官命令ですよっ!逆らったら反逆罪ですよ!今ならまだ間に合いますっ!止まりなさい、止まってっ!ぁあっ、くっ、来るなっ、来るなーぁっ!」

 [中尉]は、逃げられなかった。

「全く・・・、まぁ、明日、後悔すればいいんです。」

 [ドクター]は呆れ顔で、不満げに焼き鳥を口に運び、

「若いというのは、いいのぅ。」

 [長老]はどこか羨ましそうに、しみじみとした口調でそう言った。


 その日の[新人]の最後の記憶は、カード勝負で何度目かの負けを被り、恨みがましい眼つきの中尉が作った酒を、[狙撃手]や[運転士]が手拍子で促すままに飲み干した所で途切れていた。何となくだが、ほとんど原液に近い濃さだった様な記憶がある。

 薄らと瞼を開くと、テントの布地がぼんやりと見える。どうやら仰向けの体勢でベッドの上にいる様で、すっかり眠ってしまった様だった。

 普段のテントの中にしては、やけに明るかった。頭だけを動かして見回してみると、テントの入り口は開け放たれ、窓も全て開け放たれていた。明るいのはそこから空がよく見えるからだった。

 どうやら、既に日が変わり、宴会の翌日の昼間らしい。昨日の宴会もおよそお昼ごろに始められたから、まるまる一日か、もしかしたらそれ以上の間、気を失っていたらしかった。

「ぅわっ、寒い・・・。」

 [新人]は寒けを感じ、寝ている間に蹴飛ばしたらしくベッドから半分ずり落ちそうになっていた毛布を引き上げてくるまった。テントの開けるところを全て開け放っているため、光と一緒に外の冷気も容赦なく入り込んでくる。

 おかげですっかり目が覚めたが、それは、[新人]にとっての地獄の始まりだった。

「ぅご、ごごっ・・・、なに、これ・・・っ?」

 [新人]は、まず、猛烈な頭痛を知覚した。

 それは激しい鈍痛で、心臓が鼓動する度、頭の中で広がり、反響し合う様に痛みの感覚が飛び交っている。今までに経験した事の無い苦痛だった。

 次に、身体の奥底から湧き上がって来る様な吐き気を自覚した。胃が何かとんでもなく重量のある物体にすり替わってしまったかの様に重く、今にも内容物が逆流してせりあがってきそうだった。胃だけではなく、他の内臓もいつもとは違う感じで、どうしようもない不快感が体内を渦巻いていた。

 [新人]は口元を手で押さえ、吐くのをひとまず堪えた。この場で吐いたら、後始末でとんでもない苦労をする羽目になる。

 だが、重層的に襲い掛かって来る苦痛に、[新人]はいつまでも耐えられそうになかった。

「だっ・・・、誰か、誰か・・・、いません、か・・・。」

 [新人]は涙目になって、か細い声で救援を求める。

 微かに、衣擦れの音が聞こえた。

「・・・ぉー・・・、[新人]ちゃん・・・、生きていたんだねぇ・・・。」

 [運転士]の声だった。

 その声はいつもの明るいものではなく、[新人]の様に今にも消え行ってしまいそうなものだったが、[新人]にとっては唯一の希望だった。

「ぅ・・・、[運転士]・・・、ご無事、でしたか・・・。」

「無事とは、言えないねー・・・、とても、とても・・・。」

 [新人]が何とか首を回して声のした方向を見ると、そこには、[新人]と同じ様にベッドに寝ている[運転士]の姿があった。

 うつぶせで、枕に顎を乗せ、[新人]と同じ様にとても苦しそうで、額には汗が浮かんでいる。顔色も悪かった。

「てっ・・・、敵の・・・、新兵器、で、ありますか・・・?」

 唐突に浮かんだその考えに、[新人]は身震いした。その場には[新人]と[運転士]しかおらず、もしかすると他の[小隊]の仲間はやられてしまったのかと思った。

 そんな想像は普段なら荒唐無稽だと分かったはずだったが、頭の中で大鐘がガンガンと鳴り響く様な痛みに捕らわれている現状でそんな判断ができるはずも無かった。

「しんへいきー・・・?ぁあ、違う、違うー・・・、ぅー・・・・・・。」

「それは、二日酔いって言うんですよ。」

 苦しそうに唸っている[運転士]に代わって教えてくれたのは、[ドクター]だった。

「[ドクター]っ!!?・・・ふぐっ、ぐすっ、たすけてくださいぃ・・・・・・。」

 その声は、[新人]にとってはまさしく救いの神の声だった。

 [新人]は何とか声のした方へ顔を向け、悲痛な声で懇願する。

「死にそうですぅ、[ドクター]・・・。あたし、このまま、死ぬのいやですぅ・・・。」

「二日酔いでは、死んだりしませんよ。安心してください。」

 [ドクター]は苦笑すると、[新人]の隣に腰かけた。

「はい。二日酔いに効く特製ドリンクです。」

 そう言うと、[ドクター]は[新人]に見える様に、液体の入ったコップを差し出した。

 見るからに毒々しい色をした液体だった。臭いも強烈で、中身が何なのか、材料が何なのか、想像すらしたくない様なものだ。

「見た目も、臭いも、味も酷いけれど、よく効くの。ほら、頑張って体を起こして、一気に飲み干して。本当に酷いから、少しでも味見して見ようなんて気を起こしちゃだめだよ?もちろん、すぐに全部楽になるわけじゃなくて、少し時間がかかるけれど。」

 もし、普段の[新人]だったら、絶対にその液体に口をつけようとは思わなかっただろう。命令だと言われても、可能な限り抵抗しただろう。

 だが、今はすがる様な思いだった。

 何とか半身だけ起こした[新人]は、[ドクター]が差し出してくれているコップに口をつけ、[ドクター]が傾けるままに一気に飲み干した。

 [ドクター]に言われた通り、その飲み物は酷かった。なるべく味を感じない様に一気に飲み込んだが、後味も最悪で、泥水と湿布を混ぜ合わせた様な感じだった。

 だが、不思議な事に、身体の中身がすっきりした感覚があった。猛烈な吐き気も幾分収まり、何とか耐えられそうだった。

「後は、調子が良くなるまでじっとしてなさい。・・・それから、これに懲りたら、次にお酒を飲む時はもっとペースを考える事。」

「はい・・・・・・。よく、分かりました。」

 [新人]は[ドクター]に言われるまでも無く、次回からはもっと気を付けようと心に決めた。むしろ、二度と口にするものか、とさえ思った。

 今[新人]を苦しめている苦痛は、昨日の楽しい思い出をもってしても、その様な決意をさせる程のものだった。

 しかし、[新人]のその決意には、大いなる暗雲が立ち込めている。

「ぅー・・・、[ドクター]、僕にも、僕にもくださーぃ・・・・・・。」

 [新人]と同じ様に苦しんだ経験があるにも関わらず、同じ過ちを繰り返し、苦しみにうめいている人物がすぐ隣にいるのだ。

「ふふふ、だーめ。」

 地獄の底から救いを求める様に伸ばされた[運転士]の手から、[ドクター]は特製ドリンクを遠ざける。

「[運転士]?これで何度目ですか?いい加減反省したらどうですか?二度と自分のペースを忘れない様に、うーんと、苦しめばいいんです。」

「そんなぁ、後生ですからぁー・・・。」

 [運転士]の言葉が力なく響く。

「では、もう、二度と、自分の飲める量を逸脱してお酒を飲まないって約束しますか?飲んでもその事を忘れませんか?」

「しますぅ、しますぅ、約束しますぅ。」

「・・・なら、仕方ありませんね。約束しましたからね?」

 だが、結局、[ドクター]は[運転士]にも特製ドリンクを飲ませた。何というか、彼女は優しいというか、どうしても、苦しんでいる人を放って置けない様な性格をしている。

 [新人]は多少マシになったものの、依然として続く苦しみに耐えながら、不安に思う。

 思考が跳躍していく。

 人は、物事を忘れる生き物だ。そして、かつて生きた多くの人々が、この地獄の様な苦しみを味わいながらもそれを忘れ、あの素晴らしい飲み物を口にし、そして繰り返し、苦しんできた。それもまた人類の歴史の一部に他ならない以上、[防人]とは言え、自分だけがその輪から逃れる事などできはしないのではないか。そうではないか。

 などと、思考が壮大になるのは、相変わらず頭の中でぐるぐると回る様な不快感が渦巻いているせいだった。普段なら馬鹿げているとすぐに分かる様な事でも、それが全く真っ当だと思えてしまう。どんな空想でも、絵空事でも、止まらない。

 というより、何かを考えていないと、吐き気に全てを持って行かれそうだった。

 だが、空想を描いている内に、少し気分が楽になっていくのを感じた。

「ぁのぅ・・・、[ドクター]?」

 特製ドリンクのおかげで少し回復した[新人]は、言う事を聞かない[運転士]の脇腹を指でつついて懲らしめている[ドクター]に問い掛ける。

「他の仲間は、どこに行ったんでしょうか?みんな、その、二日酔いっていうのが、平気なんですか?」

 その問いかけに、[ドクター]は小さく声を出して笑った。とても優しげな笑みだった。

「みんな、貴女と同じ様に苦しんで、それから、上手なお酒との付き合い方を会得しただけですよ。ぁ、[狙撃手]だけはちょっとおかしいですけど。同じ[防人]とは思えないくらい、あの子はお酒に耐性があるから。」

「耐性、ですか?」

 [新人]は、率直に羨ましいなと思った。お酒を楽しく飲めて、その後苦しむ事も無いとは。少しお得ではないだろうか。

「そうとしか考えられないぐらい、あの子はお酒に強いの。体はみんな同じハズなんだけどね。本人は、飲み方の問題だ、って言うんだけど。何かコツがあるのかしら?・・・それで、他の[小隊]メンバーだけど。[狙撃手]は、定時の見張りに就いているわ。[中尉]と、[長老]は、[師団本部]に呼び出されてさっき、出かけて行ったよ。戻ってくるのがいつかまでは、聞いてないけど。」

 どうやら、ここにいない三人も無事だったらしい。

 [ドクター]は、[新人]の額を、優しくなでる。

「お仕事はちゃんと回しているから、今は休みなさい。」

「はい・・・、なるべく早く、復帰できる様に頑張ります。」

 [新人]は[ドクター]の暖かな手の平を額に感じながら、気分がまた少し良くなった様な気がした。

「そうしてね。それと、こんなに甘やかすのは、今回だけですからね?貴女はもう、[小隊]の一員なんだから。次からは気を付けるんですよ。」

 [新人]にとても甘い[ドクター]に、[運転士]の抗議の声が浴びせられる。

「ひいきだ、ひいきだっ。僕にも、それくらい優しくしてよぅ。」

 [ドクター]は、手厳しい。

「お酒が入るとすぐに調子に乗るのを直してくれたら、考えてあげます。」

 [新人]は、今後は気を付けようと改めて心に誓い、ベッドの上で楽な姿勢を取って瞼を閉じた。[ドクター]が休みなさいと言ってくれているのもあったが、いずれにしろ、今はまともに動けそうになかった。真っ直ぐ歩く自信さえなかった。

 だが、[ドクター]の特性ドリンクの効き目は抜群の様だった。[新人]は段々と気分が良くなっているのを実感しながら、段々と眠りに落ちていった。


 長年に渡ってろくな手入れをされて来なかった地下のトンネルは、汚れ、煤けて、みすぼらしかった。だが、大きな破損等は見受けられず、それが建造された当時の優れた土木建築技術を感じさせた。

 多少、地下水がトンネルの壁面から染み出している箇所もあったが、定期的に[防人]達が行っている点検では、構造上の重大な問題は発見されていない。もっとも、そのトンネルを建造した技術、および技術者達は既に存在せず、それを修繕する手段は失われて久しい。

 未だにその機能の大部分を保っている文明な貴重な遺産を、そのトンネルに敷かれたレールの上を、一台のトロッコが走っていた。

 かつてその路線を走っていた電車の台車部分を取り外し、発電機と簡易的な走行装置を取り付け、数名が乗り込める簡素な座席が取り付けられたトロッコで、少数の物資や人員の移動、連絡に用いられている機材だった。トロッコは四サイクルのエンジン音をトンネル内に反響させながら、前方を照らすためのまばゆい光を放つライトを点灯させ、人がゆっくり走るくらいの速度で走っている。トロッコが乗っているレールは[亡霊]との戦いが始まる前の物がそのまま使われているが、こちらはさすがにトンネルの壁面と違って整備の手が入っているらしく、かなり状態が良かった。

 トロッコに乗っているのは、三人の[防人]だった。[中尉]と、[長老]と、伝令のためにトロッコを走らせてきた[防人]の三人で、前方の操縦席に伝令の[防人]が座ってトロッコを操作し、後方の三人掛けの座席に、[中尉]と[長老]が腰かけていた。

「のぅ、[中尉]。大丈夫か?」

 ゆっくり走り続けるトロッコの上で、[長老]が[中尉]にだけ聞こえる声で話しかける。

「大丈夫、とは、どういう事ですか?」

「昨日は大分、[狙撃手]に飲まされていたからのぅ、それが心配でな。」

「・・・・・・。ご心配なく。[ドクター]の特性ドリンクをもらって飲みましたから。」

 [中尉]はそう答えたが、顔色は悪い。

「・・・それより、[長老]。[師団本部]の方達、と言うのは、どの様なお方なのでしょうか。その・・・、[小隊]の指揮官を拝命した時以外には、まともに顔を合わせた事がありませんので。[長老]は、ご存じではないですか?」

「確かに、わしは良く知っとるよ。なぁに、心配はいらんさ、最近新しく入ってきた一人はお主もよく知っておる相手だしの。それより、大人しくしておれ。ここで吐かれでもしたらえらい事だからの。」

「・・・・・・。」

 [中尉]は[師団本部]の[防人]の事を教えてくれない[長老]にやや不満だったが、大分マシになっているとはいえ尚も暴れている吐き気に耐える方に専念する事にした。

 トロッコは途中、かつてはトンネル内の見張り所、防御の拠点として作られたトーチカ、厚い鋼鉄製の防御隔壁等、[亡霊]との戦争が始まってから慌てて築かれていった遺物を通り過ぎた。だが、それらは一様に、現在では使われている様子は無く、使われなくなってから数年は経過している様な雰囲気だった。空気はどこか埃っぽく、湿っていて、カビっぽい臭いがし、時折機械油の臭いが混じった。

 やがて、トロッコは一つ目の駅に差し掛かった。その駅にも、[亡霊]の侵入に備えて築かれたらしい様々な設備が存在したが、今は放棄されているらしく、何者の気配も感じられなかった。やはり、放棄されてから数年は経過している様子だった。

 それからさらに、トロッコは放棄された設備を幾つか通り過ぎた。それらは何らかの破壊行為を行われた形跡は無く、無傷で、ただ薄らと埃を被っていた。

 二つ目の駅には、少ないが[防人]の姿があった。何故なら、そこには昨日の[亡霊]との戦いでも用いられた装甲列車が置かれているからだった。駅は装甲列車を整備できる様に手が加えられており、それらの設備は今でもしっかり稼働する状態にある様子だった。だが、まともに動いているのは装甲列車に関する物だけで、[防人]の姿はまばらで、最低限の見張り所があるだけだった。ここにも[亡霊]との戦いに備えて築かれた防御設備が用意されているのだが、やはり、放棄されてから数年は経過している様子だった。

 トロッコはその駅で一旦停止した。乗っていた三人はそこで警戒についていた[防人]にそれぞれの身分証を見せ、通過する用件を伝えると、警備の[防人]はすぐに許可を出した。きちんと話が通っているらしい。トロッコは再び加速すると、スムーズに走って行く。

 しばらく走り、一際大きく頑丈そうな防御隔壁を通過すると、トロッコは広い空間に出た。

 トンネルに入って三つ目の駅は、それまでの駅とは比べ物にならないほど広かった。そこを通過する線路はそれまでの駅の倍はあり、ホームの長さも長く、そして、そこには多くの[防人]がいた。

 その駅に辿り着くまで、多くの放棄された設備を見てきたが、その駅の設備は今でもきちんと人員が配置され、機能していた。バルーンライトが幾つも配置され、駅の構内にはどこにも影が無い。ホームには今でも走行可能な列車が停車しており、地上へ物資の調達へ赴くべく、その準備作業が行われていた。[シェルター]の位置の隠匿のため、その列車が実際に地上へ出る事は無いが、地上で集められた物資はトンネルの入り口付近でこの列車へと積み込まれ、まとめて運搬される様になっている。

 その駅は、かつてこの地域でも有数の規模を誇った大きなターミナル駅で、往時は一日で数十万人もの人々が行き交った場所だった。今は[防人]で構成される[シェルター]の防衛部隊の本部が置かれ、[シェルター]を防衛するための最終防衛線として機能している。

 [シェルター]は、この駅のさらに地下深くに築かれている。それは元々、大都市の地下深くまで何層にも渡って築かれていた地下街で、[亡霊]との交戦後、巨大な防御隔壁や数万人をカバーする生命維持システムを備える様になり、今でも人類が生存している、恐らくは唯一の場所とされている。

 トロッコは駅の構内に入ると速度を落とし、やがて、ホームに[防人]が二人、トロッコの到着を待つように立っていた場所で停車した。

 待っていた二人の[防人]は、[中尉]と[長老]を出迎えるためにここにいる様だった。

 [中尉]はその二人の内の一人を見て内心驚いたが、同時に、[長老]の言う通り心配はいらなさそうだと安心した。

[中尉]は[長老]を手伝いながらトロッコを降り、姿勢を正すと、自身より上の階級章、大佐と大尉の階級章を持つ出迎えの[防人]に敬礼した。

 [中尉]は、命令により出頭した事を報告し、自身と、[長老]の製造番号([防人]全員に与えられているもので、公式に個体識別を行う際にも用いられるもの)を述べた。

 出迎えの[防人]は[中尉]の報告を了解すると、それから、態度を和らげる。

「[中尉]、久しぶりだね。士官教育以来、か。元気、そう?だね。」

「はい、教官殿。その節はお世話になりました。教官殿も、お元気そうで。」

 [大尉]に話しかけられた[中尉]は、そう答えると個人的にお辞儀をする。まだ顔色は戻ってはいないが、それを態度に表す様な事はしない。

「申し訳ないが、思い出話は用件を済ませてからにしてほしい[中尉]、[長老]、こちらへどうぞ。私がご案内します。」

 そのまま会話が始まりそうなのを[大佐]が割って入り、目的地である[師団本部]への移動を促した。それから、[中尉]と[長老]を先導して歩き出す。片足が義足のため歩行に注意が必要な[長老]には、特に恭しかった。

 一行は一旦階段を上がってホームから出ると、それから、再び下へと続く階段へと向かった。その階段は使用者のために装飾が施された駅の他の部分と違い、武骨なコンクリートむき出しの構造に厚い防御隔壁を持つ。駅本来の旅客用ではなく、軍事目的で建造されたと容易に分かるもので、駅にはそんな通路が他にも幾つも増設されている。

 それらの通路が通じている先は、[亡霊]との戦争が始まった前後に急きょ増設された地下壕で、通路と部屋が迷路の様に入り組んだ複雑な構造をしていた。元々あった地下街だけでは多くの人間を収容しきれなかったために増設されたもので、人間達の避難設備として急速に建造された多くの施設の一つだった。突貫工事で建造されたために造りは荒く、明かりは最低限のものだけで薄暗く、ところどころ地下水が染み出て濡れている。生命維持に必要な設備は空気の浄化と循環設備が備えられているくらいで、快適とは言い難かったが、一時的な避難所、あるいは防衛のための地下要塞としては十分に機能するものだった。

現在、そこは[シェルター]の最終防衛ラインとして機能しており、[防人]による[シェルター]防衛部隊の本部が作られている。その迷路の様な地下壕の一画に[シェルター]へと続く通路があり、特に厚く頑強に作られた防御隔壁で封鎖されている。

 迷路の様な構造になっているため、同じ[防人]であっても、普段からここで働いている者でなければ迷ってしまっただろう。[中尉]と[長老]は[大佐]と[大尉]の案内に従いながら迷路を潜り抜け、ようやく目的の場所へとたどり着いた。

 そこは地下壕の中でも比較的大きな部屋の一つで、出入り口には番兵として[防人]が武装して立ち、[師団本部]と墨汁で描かれた木の板が仰々しく掲げられていた。

 [大尉]が番兵と短いやり取りを交わすと、番兵が[師団本部]の鉄製の扉を開けてくれ、四人は促されるままに中へと入った。

 そこは、数十人は余裕を持って入れそうな部屋で、建造時からある天井灯の他にもランプが幾つか用意され、地下壕の他の場所よりも随分明るかった。壁も床もやはりコンクリートが剥き出しの粗末な造りだったが、折り畳み式の長机でロの字が作られ、同じく折り畳み式の椅子が用意されて、会議室として機能する様に内装が施されている。奥の方には別の出入り口があり、さらに奥がありそうだった。

 奥の長机に用意された椅子に、一人の[防人]が腰かけていた。目の前には執務用の古びたノートパソコンが一台置かれている。直前まで執務をしていた様子だった。その[防人]は四人が入って来ると、その場で立ちあがり、姿勢を正して敬礼する四人に向かって返礼の敬礼をする。中将の階級章を持つ事から、この中では最も高位の将官だった。

「[師団長]殿。[小隊]より、[中尉]、[長老]、以上二名、出頭いたしました。」

「ご苦労様[大佐]、[大尉]。それから、[長老]殿、[中尉]、ようこそ。・・・では、さっそく用件に入りましょう。全員、まずは、どうぞ腰かけてください。お茶も今、準備していますから。」

 [大佐]が報告すると、[師団長]は頷き、それから、四人に手ぶりで椅子を勧めた。

 中将という、[防人]の中では最高位に位置する階級を持つ人物だったが、[師団長]は物腰が丁寧で、柔和な性格の様だった。[中尉]が想像していた人となりとは随分違った。

 [大佐]は[師団長]の右に、[大尉]は[師団長]の左に腰かけた。[中尉]と[長老]はその三人と向き合う形で並んで腰かける。ほぼ同時に部屋の奥の扉が開き、[防人]が二人出てきて、温かいお茶を出してくれた。

「それでは、まずは、[亡霊]の様子について確認させてください。もちろん、報告は常に受けていますが、それだけでは伝わらない事もありますから。」

 [師団長]はお茶を一口すすると、穏やかな口調でそう質問した。

「はい。それでは、ご報告します。」

 [中尉]は湯呑をソーサーに置くと、立ち上がる。

「[亡霊]の動向についてですが・・・、あの、何か?」

「わざわざ立たなくていいですよ、[中尉]。そんなに固くならないでください。規律は大事ですが、どうせ、ここには私達しかいませんから。」

 [師団長]は気さくな笑顔で[中尉]に座る様に促す。[中尉]は戸惑ったように[大尉]の顔を見、それから[長老]の表情を確認した後、ややぎこちない動きで再び腰を下ろした。

「案ずるな。[師団長]は、そういう奴じゃ。」

「は、はぁ・・・。」

 [中尉]は尚も戸惑っていたが、[長老]の言う事を疑う理由は無い。[中尉]は腰を下ろした。

「えっと、では、改めてご報告します。・・・[亡霊]の動向についてですが、相変わらず、あちらの情報ネットワークは切断されたままの様子です。一昨日、[亡霊]の甲種と遭遇、交戦しましたが、その後の追加戦力の投入は無く、また、哨戒も丙種による定時哨戒のみで、異常は見られませんでした。」

「それは、良い知らせですね。」

 [師団長]は微笑むと、[長老]へと一瞬、視線を向ける。

「五年前の作戦から、[亡霊]側は回復していないという事が改めて確認できました。これで、[亡霊]側が補充や補給を充分に受けていないという仮定を信頼できます。今後の我々の行動に弾みがつきますよ。・・・多くの同胞を失いましたが、決して、無駄にはなっていません。」

「・・・・・・。あの作戦は、[レコンキスタ]は、失敗じゃった。」

 [師団長]の言葉に、[長老]は絞り出す様な声でそう言った。

 [中尉]から見た[長老]の横顔は、何かをじっとこらえている様なものに見えた。[長老]はたまに、一人でこういう顔をしている時がある。

 [中尉]は何があったのかは知っていたが、それが[長老]にとってどのようなものだったのか、よく分からないと思っている。当事者の口は総じて重く、そこで何があったのか、細かなところまで聞けた事は無い。

 [師団長]は、静かに、だが、力強く首を振った。

「確かに、[黒球]を破壊するという、初期の目標を達成できたとは言えませんが・・・。それでも、あの作戦が無ければ、今の我々はありません。・・・作戦のおかげで、[亡霊]側の情報ネットワークは切断され、戦力は大幅に減少。交戦する機会も目に見えて減りました。おかげで地上を常時監視する必要もなくなり、人員不足の我々には計り知れない恩恵がありました。・・・今の我々にとっては、何よりも必要な事です。」

「それでも・・・、得られなかったもの、失ったもの、余りにも、大き過ぎる。・・・後どれだけ生きようとも、この事実だけはどうにもならんよ。」

 [長老]の言葉は、呟く程度の大きさのものだったが、その場にいた全員に届いていた。特に、[長老]の言う作戦を直接経験した事のある[師団長]や[大佐]は、数秒、黙祷する様に視線を伏せた。

「さて。・・・話を変えましょう。[亡霊]の動向については、概ね、これまでの仮定が正しい事が確認できました。次は、もう一つの重要事項についてです。・・・[新人]の様子は、どうですか?」

「概ね、成功したと判断してよいと思います。」

 [中尉]は、[師団長]の方へ顔を向けると、はっきりと断言した。

「彼女からは、本来の我々に存在するべきいくつかの特徴が、明確に見られません。逆に、今の我々にとってあるべき特徴はほとんど備えています。彼女の製造過程に手を加える事で我々が得ようと企図した結果は得られたと判断します。服従プログラム、思考暗示、強迫観念といった要素は、今のところ見られません。体調の異常もない事から、ナノマシンの排除も成功したと判断できます。彼女は、我々が望んだ様に、まっさらな状態だと思えます。・・・少なくとも、今のところは。」

「そうですか。素晴らしい成果です。しかし、少し、含みのある言い方ですね?」

「はい。まだ、[新人]が配備されてから日が浅いですから。我々の計画が完全に成功したとはまだ断言したくありません。・・・おそらくは、上手く行くと信じていますが。」

「分かりました。少なくとも、見通しは明るいという事ですね。・・・この成果を、大々的に反映できないのが、残念ですね。」

 [師団長]は、しかし、悲しそうな表情だった。

「反映できない、という事は・・・、やはり?」

「残念ながら、[防人]の生産ラインを、我々で持続的に稼働させるという目標は、ほとんど手詰まり状態にあります。生産ラインは相変わらず停止したままで、復旧の見込みは立っていません。」

 顔をあげた[長老]の質問に、[大佐]が答えた。

「我々に知らされている情報があまりに少ないのと、根本的な物資不足、エネルギー不足。要員が頑張っていますが、今のところ、抜本的な対応策は見いだせていません。培養層の安定した稼働ができないのです。余剰部品も資源も無く、それらの再生産の見込みも立ちません。そもそも何かを生産しようにも、十分な材料がありませんから。」

「[防人]の、種としての存続・・・。無理そうか・・・。」

 [長老]は、嘆息交じりにそう言い、机の上で手を組んで顎をそこに載せた。

「[シェルター]との連絡が途絶して、はや五年・・・。結局、我々は置いてけぼりのままで、自然に消える未来が待っておるのみ、か。補充される事なく、寿命が来た者の分だけ、どんどん減っていく。[レコンキスタ]で失った同胞を補う事もできない・・・。来る途中も、大分寂しくなっていたのぅ。」

 [大佐]に代わって、[師団長]が口を開く。

「ですが、理論上、我々の手で[新しい]同胞の生産が可能であるという事は、既に確定したと言っていいでしょう。時間さえあれば、やがて・・・・・・。」

 だが、そこまで言うと、[師団長]は沈黙した。

 時間さえあれば。そう口にして、その時間が無いのだという事を、彼女は思い出した。

「・・・いずれにしろ、[新人]の事は、これからも[小隊]で、よろしくお願いしますね。彼女は、我々にとって、重要な一歩なのですから。」

「はい。承知いたしました。お任せください。」

 [師団長]の言葉に[中尉]は頷き、それから、彼女は[師団長]の顔をじっと見る。

「それで・・・、[師団長]殿。本題は何でしょうか?」

「察しがいいですね。」

「今までのは、[師団本部]まで出向いて説明する様な内容ではありませんでしたから。」

「ふふふ。そりゃ、分かりますよね。」

 [師団長]は微笑むと、それから深呼吸をした。

 自分自身を落ち着けるための様だった。

「[シェルター」から、久しぶりに連絡が入りました。」

「[シェルター]から・・・?」「何とっ!?」

 [中尉]と[長老]は驚き、二人は軽く腰を浮かせた。

「はい。本当です。・・・[大佐]、[大尉]、お願いします。」

 [大佐]と[大尉]は頷くと、部屋の隅の箱からプロジェクターを取り出し、長机の上に設置して配線すると、部屋の壁の一面にプロジェクターの光を当てて、映り具合を調整した。それから[師団長]のノートパソコンとプロジェクターをつなぎ、機器を操作してノートパソコンのデータをプロジェクターに表示させる。部屋の壁はコンクリートの地肌が剥き出しのままだったが、そこだけ白いシートが張ってあり、映し出された文章は明瞭に読み取る事ができた。

「通信部隊が受信した、[シェルター]からの命令書です。」

 表示された命令書の内容を、直立不動の姿勢を取った[大佐]が読み上げる。

「発:人類軍統合作戦司令部、宛:第八0一[防人]師団。師団は[シェルター]より逃走した少女一名を至急捜索し、拘束の上、速やかに[シェルター]へ報告せよ。補足:一、少女の拘束後の扱いに関しては、[シェルター]より追って命じるものとする。二、拘束の手段は問わないが、少女の生命は確実に維持せよ。三、少女の情報については、別途、転送するファイルを確認せよ。四、本件は至急にして枢要であるため、師団は可能な限りの全力を持って速やかに行動せよ。追伸:目標は激しく抵抗すると予想される。必要な場合は火器の使用を任意に行う事を許可するが、補足:二を確実にせよ。・・・以上です。」

 [大佐]が読み上げている間に、奥の部屋へと行っていた[大尉]が、紙に印刷された資料を二部、持ってきて、[長老]と[中尉]に配った。

「資料によると、この少女が[シェルター]から逃走したのは、一昨日・・・、ちょうど貴女方[小隊]が[亡霊]と交戦した夜の事だそうです。こちらの交戦と、少女の関連は無いと思われますが。」

 [大尉]の説明を聞きながら、少女の顔写真や、外見上の特徴等が記された資料に目を通した[中尉]と[長老]は、一瞬、眉をひそめてお互いに顔を見合わせた。確信は無かったが、少女の存在に、心当たりがあったからだった。

 だが、そんな素振りは見せず、[中尉]は[師団長]に確認する。

「つまり、我々[小隊]に、この少女の捜索をせよ、と?」

「はい。そうです。」

 [師団長]は頷き、はっきりと肯定した。

「ですが、命令によれば、本件は師団全力で当たれ、との事です。ご存じとは思いますが、[小隊]だけではとても手が足りません。この世界は我々の手から離れて久しく、広大です。」

「もちろん、[小隊]だけで探索せよ、とは言いません。師団全体で、可能な限りの捜索隊を出します。・・・[小隊]には、[小隊]にしか捜索できない場所を探していただきます。」

「・・・・・・。[共同体]、ですか。」

 しばしの沈黙の後、[中尉]は憂鬱そうに呟いた。

 [師団長]もどこか悲しげな表情だったが、姿勢を正すと、明確に述べた。

「あそこで何があったか。それは、よく知っています。ですが・・・、それでも、あの場所を捜索するのに適任なのは、[小隊]以外にあり得ません。」

 [中尉]は、考えさせてくださいと言いたかった。しかし、任務の特性上、そのように躊躇している時間は無かった。

「・・・了解いたしました。[小隊]は、[共同体]にて、少女の捜索を遂行します。」

 [中尉]の返答に、[師団長]は一度、頭を下げる。

「[中尉]、ありがとうございます。それと、連絡係として[大尉]を同行させてください。この世界で、誰かを探し出せるとしたら、[共同体]が最も可能性が高いですから。一緒に、支援物資も持って行ってください。その方が話を通しやすいはずです。」

「承知しました。出発は早くとも明日になると思います。」

「こちらも、それまでに準備を整えましょう。[共同体]行の路線のホームに、必要品と電車を準備させておきます。[大尉]とはそこで合流を。[小隊]は地上の監視所を撤収し、明朝0八00時に移動準備を完了しておいてください。同時刻に迎えをやる様に手配します。」

「感謝いたします。」

 今度は、[中尉]が[師団長]に頭を下げた。

「それでは、よろしくお願いします。」

「以上、解散。」

 [師団長]の言葉を引き継ぎ、[大尉]が会議の終了を告げた。


 帰り道、地下壕を、[中尉]と[長老]は[大尉]に案内されながら戻った。今度は[大佐]はいなかったが、[中尉]にとっては人目を気にせず、歩きながら[大尉]と打ち合わせができたので、少し有難かった。元々顔見知りでもあり、連絡のためとは言え[防人]部隊の中枢にいる[大尉]が選ばれたのは、[師団長]による配慮によるものだと思われた。

 駅のホームに戻る頃には、今の内にしておくべき話は終えられた。詳細は翌日、出発前に他の[小隊]の仲間も交えて話し合うと決めた。

 [大尉]に見送られ、再びトロッコに乗車した。トロッコは、今度は地上へと向かうために二人を乗せる。来た時と同じ様に四サイクルエンジンの音をトンネル内に反響させながら、トロッコはゆっくりと進んでいった。

 [ドクター]の特製ドリンクが効いたのか、[中尉]の顔色は普段とほとんど変わらないものになっていた。だが、その表情は硬い。

 緊張した様子の[中尉]に、[長老]が身体を寄せる。

「のぉ、[中尉]よ。今回の任務、断れなかったとは言え、よく、即答で引き受けたの。」

「・・・できれば、受けたくはありませんでしたが。」

 [中尉]は正直にそう答えると、顔を伏せた。じっと、何かに耐える様に、唇を引き結んでいる。

 [長老]は、視線をトンネルの天井へ向けると、嘆息した。

「・・・当然じゃな。あそこにはいい思い出もあるが、しかし、悪い方の思い出が勝ち過ぎる。特に、お主にとってはそうじゃろう・・・。」

 [長老]はそう言うと、励ます様に、[中尉]の肩にそっと手を置いた。

「安心せい。わしがついておる。仲間もきっと力になってくれる。お主の教官だった[大尉]も、一緒に来てくれるのだろ?それに、今度は人を一人、探すだけじゃ。ずっとあの場所に留まる必要なない。あんな事には、絶対にならんじゃろ。」

「はい。・・・きっと。」

 [中尉]は頷くと、自分に言い聞かせる様に呟く。

「きっと・・・、全部、上手く行きます。・・・今度は、誰も失いません。」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ