第5話 クラゲの食べ物
あの後自分の分の食材も買って帰った僕は、無事に家路についた。もう日は完全に沈んで辺りはとっぷりと暗くなっていた。
僕が住んでいるのは、集合住宅の一室だ。
学院には寮もあり僕も以前はそこに住んでいたが、他の学生の重圧に精神が耐えられなくなり現在は学生の気配がない場所に移り住んだのだ。
学院との距離もそれほど遠くなく買い物にもまあ不自由はしない。いつもどおり暗い部屋に照明を灯した僕は、僕の服の中で窮屈そうにしていたクラゲを取り出して手に乗せた。
「閉じ込めてしまってごめんね。ここが僕の家だよ。」
おかえり、といいながらクラゲを取り出した。
呼びかけながらクラゲを撫でると体の表面の感触が気持ちいい。
クラゲも広い場所に出られてそこはかとなく気持ちよさそうだ。
クラゲに買ってきた物を色々試す前に自分の食事を済ませることにした。
今日は召喚の儀式の前に昼食をとったきりで、何も食べていなかったことを思い出した僕は腹に鈍い痛みを感じた。
夕飯は適当に緑の丸い野菜と赤い細長い野菜を適量千切りにして塩と砂糖と酢をかけて混ぜたサラダ。
あとはパンに硬く焼いた目玉焼きと緑の野菜の千切りを挟んで塩と胡椒を一つまみかけたものだ。
僕は魔力があるのに肌に長時間触れて水ぶくれにする程度の熱源しか作れないため、目玉焼きを焼く時には魔道具を使った。
魔道具は魔法の研究で出来た産物で、値段はそれなりで一度買えば数年は買い換えないで済むため魔法が使えない大多数の人間の生活必需品だった。
当然僕の部屋も数多くの魔道具が置かれている。
椅子に座り水を飲みながらパンとサラダをモシャモシャ食べる。うん、上等上等。
「お前って肉食じゃなくて菜食主義者だったりしないかな」
クラゲの目の前にパンに挟んだ野菜を持っていくが、生き物ではないからかちょっと触ったっきり見向きもしない。グルメな奴だ。
それならばとパンを目の前に持っていくと払いのけられて危うく取り落としそうになる。庶民の敵め。
仕方なくぷるぷるしているクラゲを見ながら夕飯を食べ終え、さっと後片付けをする。
「さて、お前は何が食べれるのかな」
釣具屋で買ったものをそれぞれ小分けにしてクラゲの目の前に持ってきた。
練り餌と小さいエビと虫。クラゲの目の前にそれぞれを持っていくと、果たして食べてはくれなかった。
虫は活きているものがやたらと多く、初めはなんでこんなもの触らなきゃいけないの?と思って忌避感が強かったが途中から慣れたようでウネウネニョロニョロしてるのを触っても何も感じなくなった。
やはり生きている者には好奇心が湧くのか積極的にピカピカと明滅し触りにいくようだが、食べ物とは認識してくれない。エビと練り餌は活きていないからかそもそも反応してくれないようだ。
今まで敵って認識したのはジェレミーだけだな。飼い主に似るって奴か。
しかし、これで駄目なら何を食べてくれるのかな。明日、相談を受け付けると言ってくれた通りレギーナ先生に相談をしに行こうと思った。
――ふと、試せることは全部試してやろうと、召喚士の店でナイフを見かけてから頭の片隅でずっと考えていたことを試してみることにした。
小皿をもう一つ取り出した僕は、新品のナイフを取り出して光に刃をかざしてみた。刃物には造詣が全くないが切れ味、先端の鋭さ共に申し分なさそうなナイフだと思い、今からする行動に思いを馳せて心が躍った。
初めて持ったナイフの刃に軽く非日常を感じてじっくり眺めていた僕は、おもむろに切れ味の鋭いナイフで指の先を傷つけ血を小皿に取ってクラゲの目の前に差し出した。果たしてクラゲは、逡巡した後に僕の血液を体に取り入れてくれた。歓喜で心がざわざわする。
召喚する時に血液を使ったことも思いついた要因だが、何よりも僕はこの子に僕の血を飲んで欲しかったのだ。これから苦楽を共にするパートナーで、長い僕の孤独を埋めてくれた相棒で、悪夢の楔から救ってくれた希望。僕がこの子に抱いた感情はとても複雑で、親愛なる大切な存在へのそれだった。
仮に召喚で血液を使っていなかったとしても、自分の欲望を優先してこの方法を試していただろうと思う。クラゲの半透明な青い体に、皿に触れた部分から赤いものが広がっていく光景は心に深い満足感を与えた。
あっさりと小皿は空になり、僕のクラゲは舐めとるように皿を綺麗にしていた。
それならばとクラゲの体に傷ついた指を押し込むと、僕の指からも幾らか血液を取り入れているようだった。何とはなしにクラゲに流れ込む血液に魔力を乗せるイメージを作った。以前、吸血鬼という種族の話を聞いたことがある。
彼らは獲物の血液を取り入れることで飢えを満たし快楽を覚え、獲物も血を吸われているのに深い快楽を覚えるそうだ。吸血鬼は魅了やカリスマなど獲物の心を支配する術に長けているというのでそれも要因の一つらしい。だが、魅了されていなくとも快楽を感じるのではないかと今の僕は思う。
愛情を感じる相手と一つになりたいと願って行った行為ならば、そこには快楽が生まれるに決まっている。
吸血鬼の伝承はおそらくただの都市伝説だろうが、少なくとも魅了や吸血は現実でも起こりうることだろうと思った。
惚けた頭で考えていた僕は、幾らか血液が流れ込んで吸われるような反応がなくなったところで押し込んでいた指を離した。すると、指に付いていたはずの傷は綺麗に治っていた。魔力で治療してしまったのかと思ったが、僕はこんな短時間では傷を治せない。
この子が治してくれたんだろう。どことなく満足している様子のクラゲにえらいぞーと声を掛けてグリグリと撫でてやった。
※※※
その後は釣り餌を袋に戻して後片付けをした。明日釣具屋のおじさんにこれ余ったので釣りにどうですかって持っていってみよう。もう使わないし。
そうしてから一緒にシャワーを浴びたが、クラゲの姿が子供用の玩具や大人のオモチャにしか見えなくて笑ってしまった。
丹念に全身を洗ってやるとどことなく気持ちよさそうだったし、お湯で流してやると犬のように体を振って水滴を飛ばしていて素直に可愛いと思った。
そうして今は一緒に床に就いている。ほかほかに湯だったクラゲは心なしか満足げだ。寝返りで潰さない位置に置いてタオルケットを掛けてやるとそこから動かなくなった。
一つ懸念事項が消えてほっとした。僕とこの子と一緒にいずれきっと起こるであろうジェレミーの衝動の発露に耐えなければいけないが、その前にこの子が居なくなっては元も子もない。そうなったら僕は、手を尽くせなかった後悔に今まで生きてきて最大の傷を心に受けて二度と前を向く気力が起きなかっただろう。
明日やるべきことを考えてみよう。レギーナ先生に一応この子のことを報告してみよう。クラゲの図鑑や海の魔物の本を読んでもこのクラゲの従魔の情報が出なかったことから考えて、レギーナ先生自身かその身内などが過去にクラゲを召喚した可能性がある。もっと詳しく話を聞きたい。
狼の魔物とジェレミーの取り巻きの従魔についての情報も調べなくてはならない。取り巻きの従魔は全く視界に入れる余裕が無かったので、どんな従魔を連れているのかをまず確認する必要がある。そして情報に合わせた準備をする必要があるだろう。
この子にも頑張ってもらう必要がある。食べられる物が分かった以上、それを与えて成長を促す必要がある。この子は一見頼りないがジェレミーの一件の通り潜在能力はかなりの物だろう。クラゲの毒針はときに人をも脅かすということを思い知らせてやる。
明日のことを考えながら、僕は瞼を閉じたのだった。