両親
クラウトに礼を言ってから木工工房を出ると、すでに日は落ちかけていて辺りの影が大分伸びていた。
日が暮れてから子供が一人で外をうろつくのは危ない。
何が危ないかと言えば、人攫いなどよりも帰った時に落ちる母様の雷が一番危ない。
食事中はおろか、食後すら椅子に座らされたまま延々と説教を聞かされ続けることが、禅寺で説法を説かれるより辛いことを知っている儂は、立ち並ぶ家の隙間を走る裏道を通って真っ直ぐに家へと向かう。
既に何度か通ったことのある道を迷わずに抜ければ、日没前にどうにか家の門をくぐることができた。
「今日はずいぶんと遅かったのね? どこに寄り道していたのかしら?」
夕餉の席で、斜向かいに座った母様が儂を見て言う。
てっきり父様から話が伝わっているものだと思っていた儂は、一瞬だけ面食らってしまった。
向かいに座る父様に目をやると、父様は黙ったまま頷いた。
自分で伝えろ、ということか。
「城を出た後は、騎士団の訓練場を見学して、お父様の勤め先の癒術院に寄り、最後に木工工房に行っていました」
「まぁ、木工工房? どうしてまたそんな所に?」
口では驚いているが、母様に驚いた様子はない。しかし、その目は真剣に問いかけていた。
理由までは聞いていないのだろう。或いは儂の口から聞くことを望んだのか。
母様の口調は穏やかだったが、儂が後ろめたさを自覚しているせいか、詰問されているような居心地の悪さを覚えながら父様に伝えた言葉をもう一度口に出す。
「木刀を……木で出来た剣を作ろうと思ったのです」
儂の言葉を聞いた母様が、口を押えて息を飲んだ。
その表情には怒りも悲しみも浮かんでいない。何を言っているのか理解できないという顔だった。
ややあってから頭が痛いとばかりに額を抑えた母様は、胡乱な目で絞り出すように問う。
「け、剣? 剣なんて作ってどうするの?」
「? 振るのですが……」
母様が完璧に固まってしまった。
固まったまま動かない母様と、母様の反応が理解できなくておたおたしている儂を見た父様が、苦笑いを浮かべながら助け舟を出してくれる。
「イリスはね、剣士になりたいんだそうだ。いや、剣を持っていないだけで既に剣士なのかな?」
「剣士!? そんなの御伽噺にしか出てこないような存在じゃない。本気なの?」
弾かれるように顔を上げた母様に強い視線を向けられるが、ここで怯んではいけない。こちらも真っ直ぐに見つめ返して頷く。
一瞬だけ悲し気な表情を見せた母様をみて、思わず胸の内が痛む。しかし、だからといって今さら曲げられるような生き様でもないのだ。
前世では当たり前だった生涯を剣に捧げるということに、これほど雑念を感じてしまうのはこの身が幼子だからだろうか。
それとも、儂は体だけでなく心まで弱くなってしまったのだろうか。
「母さんはね、あなたが……イリスが生きていてくれただけで嬉しかった」
黙って見つめあっていた母様が、ぽつりと呟く。
小さく零された言葉は、二度の人生でも聞いたことが無いほど慈愛の情に溢れていた。
「あなたには話したこと無かったかしらね……イリスが生まれた時のこと」
それは、儂がイリスという赤子として目覚める前の話。
赤子をあやす母様の顔を見る前の話。
「イリスはね、双子だったのよ。お腹の中にね、あなたより少しだけ大きかったお姉ちゃんが居たの。名前も決めていたのよ、アリエスって。双子の姉妹だって分かった時は本当に嬉しかったわ。娘たちと一緒にお買い物をしたり、お洒落をしあったり、一緒の毛布に包まって夜中までおしゃべりしたり……きっと楽しいことが一杯だって。早く生まれてこないかしらって、毎日思ってた」
一人目は、流れた。
そう、聞いた。
不意に、母様の表情が悲痛なほど歪む。
当時を思い出しているのか。
「もうじき生まれそうだという頃にね、アリエスがお腹の中で、亡くなったと聞かされたわ。心臓が止まっていて、もう育たないんだって。このままでは、イリスも危ないだろうって」
ぽつぽつと語る母様の声に、嗚咽が混じり始める。
それを聞く父様の顔も沈んでいた。
「とても辛かった。悲しかった。それでも、あなたが居たから、イリスが、懸命に生きようとしていたから、この子は絶対に産んであげなきゃって、ぜったいに……」
顔を伏せて言葉を詰まらせる母様の背を、父様がそっと撫でる。
言葉を失くして泣きはじめた母様を労わりながら、父様が言葉を引き継ぐ。
「イリスもね、生まれた時はとても危険な状態だったんだ。いつ死んだっておかしくない、そんな状態がしばらく続いたんだ。僕は懸命に癒しの魔術をかけたよ。一日、かけ続けた」
初めて聞いた、両親の悲しげな声。
初めて見た、両親の悲しげな顔。
イリスがどれほど暖かいものをだけを注がれて育ってきたのか、初めて知った。
自分がどれだけ愛情を注がれて育ったのか、改めて知った。
「予断を許さない状態だった。けれど、ある時ふっと容体が落ち着いたんだ。あぁ、この子は神に生きることを許されたんだって。そう、思ったよ」
「それからのあなたは、今にも死にそうだったのが嘘のようにお転婆に育ったから、びっくりしてたのよ。でも、そんな元気なあなたの姿に救われていたわ」
少し落ち着いた母様が、目元を拭いながら力なく微笑む。そしてきつく口を引き結ぶと、涙の揺れる瞳を不安気に染めて、こちらを見つめる。
「ただ、生きていてほしい。危険なことなんてしないで、笑って生きていてほしい」
鼓動が早鐘をうつ。
鈍い胸の痛みに、思わず顔を伏せる。
「それは……」
それは、暖かい両親に守られ、たくさんの愛情を一身に受け、イリスとして生きる道。
剣を捨て、前世を捨て、一人の少女として、慎ましやかに幸せを享受する道。
それはきっと、笑顔があふれた、心穏やかな生活だろう。
わたしはきっと、幸せな人生を歩めるだろう。
しかし。
そこに。
儂が死してなお望んだものはないのだ。
再び顔を上げた儂の表情を見て、母様が少しだけ悲し気に微笑んだ。
「私はね、イリスが、あなたが生きていてくれるだけで良いの」
伏せた目蓋に涙が浮かぶ。
「だから、あなたの人生は、あなたのものよ。自分でこれと決めたなら、私は反対しないわ」
微笑む母様の瞳から、涙が流れ落ちた。
同時に、わたしの頬を冷たいものが伝った。
「でもね、どうか、どうか、私を悲しませるようなことにはならないで……」
「お母様っ!」
わたしは母様の元に駆け出していた。
母様の体に顔を寄せて、声を上げて泣く。
そんなわたしの頭を、母様は優しく撫でてくれた。
初めて、イリスが泣いた。
改めて、儂は誓った。
必ず、生きると。
生きて、両親を見送るのだと。
イリスは儂であり、わたしでもあります。
どちらも大切なイリスの人生。
次回は閑話が入ります。