始まりのイリス
儂が赤子に転生してから、早いもので五年が経った。
この五年間はまさに、理解のできない事柄に打ちひしがれる日々だった。
日の本とはまるで慣習が異なるこの土地で、それでもどうにか「そういうものだ」と飲み込んで生活を続けているうちに、分かったことがいくつかある。
まず、儂が生まれ変わった赤子、今では五歳の幼子に成長した子の名はイリスという。
母親であるモルトナ譲りの金糸のような髪に、父親であるリヒト譲りの真っ直ぐな髪質と碧い瞳を持つ幼女が今の儂の姿だった。
そう、女なのだ。
まさか、儂の愛刀が二本とも無くなるとは……
幾多の戦場を潜り抜けた愛刀を失うことは覚悟していたが、生まれた頃より連れ添った愛刀まで無くなるとは予想だにしなかった。
あるべきものがそこに無い、なんとも言えない頼りなさを感じる股座に一抹の寂しさを禁じ得ない。
御仏は儂に何の恨みがあるのか。いや、二度目の生を戴いた時点で破格の待遇なのだが。
ともあれ、それはまぁ良い。剣を取ればその者は一人の剣士なのだ。そこに性別など差し挟む余地はない。
それよりも、この地では魔術と呼ばれる珍妙奇天烈な技術が、日々の生活で当たり前に使われていることが驚きだった。
彼らは火打石も無しに火を起こし、井戸も無しに水を生み、包丁も無しに料理をする。
父様に聞いたところ、ほとんどの人間が当たり前に出来ることなのだそうだが、様子を見真似ただけの儂には出来なかった。
父様はもう少し大きくなって、修練を積めば出来るようになると仰ったが、そもそも儂が積みたいのは剣の修練であって魔術の修練ではないのだ。今度こそ剣の極致へと至るため、余計なことに手を取られるのは極力避けたい。
その、肝心の剣の修練を積むにあたっても問題があった。
刀が、無いのだ。
恐らくは魔術が発達しているため、武力としての武器が必要ないのだろう。
この五年間で何度か騎士という、町奉行のような者達を見かけたことがあったが、彼らは一様に無手だった。
たまに腰から宝石の付いた筒状の道具を下げている者も居たが、刀はおろか剣ですら持っている者は一人も見たことが無い。
当然、稽古用の木刀など望むべくもない。
体躯が変わったこともあって、歩けるようになってからは日々体捌きと基礎訓練のみを繰り返すはめになった。
今日も今日とて、二階にある、なぜか二つずつ存在するぬいぐるみやら花やらが飾られた自室の姿見の前で体捌きの練習をしている。
常日頃から、可愛らしくあれと様々な小物を買い与えてくる母様には若干辟易していたが、この姿見を与えられた時は飛び上がって喜んだ。
今まで感覚で把握するしかなかった己の体運びを、客観的に見ることが出来るのだ。動きに無駄があればすぐに分かるし、どう直せばよいかも一目瞭然である。前世でもこれがあれば大分稽古も捗っただろう。実に惜しい。
「暫くは足腰の鍛錬を続けるしかないか。しかし、剣の道は手二分に足八分とは言うが、そろそろ素振りの一つもせんと勘が鈍りそうじゃ……」
最近では足運びも大分様になり、不用意にふらつくことも少なくなったが、やはり刀を持った状態で慣れたい。
この先の稽古のことを考えると、そろそろ木刀を調達する算段をつけておきたい。しかし、この世界に樫の木なんぞ存在するのだろうか。
姿見の前で立ち止まり、うんうん唸っていると、母様が扉を開けて入ってきた。
「イリス、出掛けるから支度して、ってあなたまた鏡を見ていたの? またあの変な踊りの練習?」
「お母様、いえ、これは体運びの練習を……」
「はいはい。踊りの練習も良いけど、今日は領主様のお城に行くんだから、きちんとおめかししないと駄目よ。丁度良いわ、ほら鏡の前に座って。まったく、せっかく綺麗な真っ直ぐの髪なのにこんな雑に縛って、もっと大事にしなきゃ駄目よ」
有無を言わせぬ母様の勢いに流され、大人しく姿見の前の椅子に座る。
下手に逆らうと、結果的に拘束時間が延びることになるのは、この五年間で嫌というほど学んだ。
いつの時代も家内で一番強いのは母なのだ。
母様は儂が頭の後ろで束ねていた髪を解くと、鏡台の引き出しから櫛と香油を取り出し、丁寧に髪を梳きはじめた。その表情はとても楽しそうだ。
儂から見れば長い髪なぞ邪魔でしかないが、母様はこの真っ直ぐに伸びたサラサラの髪を大層お気に入りのようだった。
以前、邪魔だから切りたいと申し上げた時など、勿体ないから駄目だと強硬に反対されたものだ。
悶着の末、肩口までは残してそれ以上は切ることを認めさせた自分を褒めてやりたい。
それに、なんのかんのと言いつつも誰かに髪を梳いてもらうのは思いのほか心地よいので、こうして今日もされるがままに任せている。
「髪をまとめたいなら、今度バレッタでも買ってこようかしら。それともリボンの方が似合うかしらね?」
「わし……わたしは、その辺の紐で十分なのですが……」
「ダ メ よ」
母様の笑顔が怖い。
娘とのお洒落を楽しみたい母親という心情は理解できなくもないが、残念ながら儂には女物の善し悪しがまるで分らないのだ。
前世では襤褸か着流しばかりで、布さえ纏っていれば良いとさえ考えていた。そんな儂に洒落や歌舞伎など分かりようもない。
旗色が悪いと見て取った儂は、話題を変えるために視線を走らせると、後ろで髪を梳る母様が、二重生地の袖口がゆったりとした白地のローブという礼服を着ているのに気付く。
そういえばどこかへ出かけると言っていたか。
「ところでお母様、今日はどちらに出かけると仰いましたか?」
「領主様のお城よ。イリスは今月で五歳になるでしょう、五歳になる子供はお城の聖堂で魔晶石を授かるの」
「マショウセキ、ですか?」
「魔術を使うための触媒というか、自分の魔力を魔術に変換しやすくするための石よ。同時にマギアシュタット領の領民の証にもなるの」
マギアシュタット領は、儂らが今現在暮らしている領地の名前だ。
丘陵地から山岳地の峰にかけて広がる領地にはいくつかの街が内包されており、儂らが住んでいるこの街は領地名そのままにマギアシュタットというらしい。
「では、わ……たしも、魔術を使えるようになるのですか?」
「すぐには無理よ。魔晶石が体に馴染むまでに二年はかかるから、本格的な魔術の勉強は学校に入ってからになるわね」
「そうですか……」
学校とは、マギアシュタットの子供が七歳になった時に入る学び舎のことだ。
最初は寺子屋のような勉学を望む者のみが集う場だと思っていたので、全員が例外なく通うことになると聞かされた時は目の前が真っ暗になった。
率直に言って儂は勉強が嫌いだ。
前世では宮仕えをする機会もあったため、礼儀作法はもとより読み書きや算術なども嫌々ながら勉強したが、この世界の言語は前世のそれとはまるで異なるので、一から覚え直しになって大変な思いをしたのだ。
最低限この世界の知識を得るために、以前連れられて行った図書館という本が大量に保管されている場所で本を何冊も読み、写本を繰り返すことでようやく文字の読み書きが出来るようになった後で、学校という場所で全員が読み書き算術を習うのだと知った事も、儂の陰鬱な気分に拍車をかけていた。
知見が身を助けることは承知しているつもりだが、どのような知識を得るかは選択できても良いのではなかろうか。
どうせ習うならばこの世界の兵法などを学びたいと思う。
そんなことを考えている間に髪を整え終えた母様が、部屋着にしていたワンピースの上に白いケープを着せてくれる。
「はい、おしまい。お父さんが下で待ってるから、見せてあげておいで」
「ありがとうございます。お母様」
母様に礼を言って部屋を出ると、階下へと続く階段を下りる。
始めは装飾の凝った木造の階段と二階建てという構造に戸惑ったが、毎日上り下りをしている間にすっかり慣れてしまった。
とてとてと靴音を響かせながら居間に入ると、こちらも礼服姿の飾り帯が付いたグレーのローブに身を包んだ父様が居た。
儂の姿を見つけた父様は、柔和な笑みを浮かべながら少し屈んで、両手を差し出してくる。
「おいで、イリス」
「お父様!」
誘われるがままに手を伸ばして駆け寄ると、そのまま抱き上げられて頬を寄せられる。
父様は髭が薄いので痛くはないが、やはり男に頬ずりをされるというのは何度経験しても背筋が凍る。
しかし我慢だ。
父様はとても子煩悩な方で、一子目が流れたこともあってかイリスという幼子のことを殊更に可愛がっていた。
そんな愛し子の中身が、可愛らしさなど欠片もない枯れ果てた爺では両親が余りにも不憫だろうと思い、両親の前では出来る限り年相応の子供のように振舞おうと決めている。
無論、下手に気味悪がられて万が一にも捨てられたりしないようにという保身の意味もあるのだが。
この両親には、親としての愛情を十二分に注いで貰っているのだ。せめて儂が一人で生きていけるようになるまでは、馬脚を現さず親孝行をしたいと思う。
生前の儂に親孝行などと言えば、正気を疑われるじゃろうな……
ちなみに「お父様」と呼ぶのは、父様たっての希望だ。
ようやく口がきけるようになった頃、父様のことを「父上」と呼んだら「お父様だよ、イリス。さぁ、お父様って言ってごらん」と笑顔で矯正された。
仕方がないので、母上の事も合わせてお母様と呼んでいる。
どうやら娘にお父様と呼ばれるのが夢だったらしい。
妻すら娶らなかった儂には分からぬ感覚だが、当人が嬉しそうなので良しとしておこう。
「あぁ、イリスは可愛いなぁ。日に日に可愛くなっていく気がするよ」
「お父様、昨日も同じことを仰っていましたよ」
父様に抱き上げられたまま苦笑していると、母様が遅れて降りてきた。愛娘に頬ずりをする父様の姿を見て、呆れた顔をしている。
「あなた、そろそろ出ないと遅れるわよ」
「おっと、そうだった。今日はイリスの晴れの日だからね、遅れるわけにはいかないな」
父様に下ろしてもらい、三人揃って玄関へ向かう。
父様と出かけるときは、儂が玄関の扉を開けるというのが暗黙の了解だ。
初めて開き戸を見た時、前世では引き戸しか使ったことが無かった儂は好奇心から自分で開けてみたくなり、頭上にある僅かに届かない取っ手を掴もうと四苦八苦していた。
その様を見て以来、父様と一緒に出掛ける時、父様は儂が扉を開けるのを笑顔で待つようになったのだ。
ちなみに今は多少背丈も伸び、背伸びをするだけで扉の取っ手に届くようになっている。
しかし、父様は相変わらず儂が扉を開けるまで笑顔を浮かべて待っていた。
少しずつ出来ることを増やしてゆけという父様なりの教育だろうか。
庭先の門を抜けると、南通りを挟んだ向かいの家の門の所で、栗毛色の髪をした少年が立っているのが見えた。
彼の名はベック、通り向かいの家の次男坊で儂より二つ歳上の七歳だ。
近所で近い年ごろの童が他に居ないため、よく儂が面倒を見ていた。
もっとも周囲の大人から見れば、儂がベックに面倒を見られているように見えただろうが、実際は儂が面倒を見てやっていたのだ。
ベックは門から出てきた儂らの姿を認めると、手を上げて駆け寄ってきた。
「よぉ、イリス。どこか出かけるのか?」
「うむ、領主様の城に魔晶石を授かりに行くのじゃ」
「あー、魔力登録の儀か。そういやイリスも五歳になんのか……見えねぇな」
確かに儂の身丈は歳の割に些か小さいかもしれないが、年相応に見えないほどではない。はずだ。
「失敬な、儂だってちゃんと成長しとる。それより、ぬしこそ門前に突っ立って何をしとったのじゃ?」
「オレ?オレは掃除だよ。学校で風と地の魔術適性があるって言われたって母さんに報告したら、練習に丁度いいから庭掃除しろってさ。せっかくランディが騎士団寮に移ってせいせいしてたのに、その分の手伝いがオレに回ってくるんだぜ。たまんないよ」
そう言って、肩を落としたベックは門前の掃除に戻っていった。
今年で七歳になるベックは、すでに学校に通い魔術の勉強を始めているらしい。
今度学校について詳しく聞いてみるのも良いかもしれない。無論、内情を精緻に知るためだ。
決して避けて通る方法が無いか調べるためではない。
ランディはベックのお兄さん。本名はランドルフです。
登場人物が増えて来ました。