第一話 突然アニキができたが、へなちょこ信玄公だった。
「ねーねー。じろさ。親父を追放しちゃったんだけど……」
おれの部屋で、半分泣きながら助けを求める若い武士。コイツがおれの四歳上の兄貴だ。兄貴といっても、つい先日までは兄貴ではなかったんだ。
意味がわからないだろ。おれもまだ信じられない。
「ばかっ! やっちまったな」
おれは、コイツが親父を追い出す日が来ることを知っていたはずなのだが、やはり怒りがこみ上げてきて、語気が荒くなってしまう。
「じろさ、そんなこといったって、スルガやビゼンやヒョーブに頼まれちゃってさ」
◇◇◇
話は、半月ほど前まで遡る。
おれは、県立高校に通う高校生だった。それほど、勉強もできるわけでなく、落ちこぼれでもない。運動神経はかなりいい。高校の場所は甲府市内だ。彼女のひとりやふたりや……ひとりはいるな。
甲府といえば、山梨県の県庁所在地だ。首都圏でありながら、関東地方でもない。ちょっと微妙なポジションだ。
夏は非常に暑く、冬は余り雪は降らないけれど寒い。山に囲まれた典型的な盆地地形だ。
名物は、ブドウや桃など、フルーツ王国ともいわれているな。
そして、駅の南口にはでーんと、存在感のある銅像が聳え立っている。いや、座っている。
郷土の英雄、信玄公だ。うっかり口を滑らせて『公』を付けずに『信玄』と呼んで、爺ちゃんや父さんによく殴られたもんだ。
山梨県では、信玄公を貶めることは、やめたほうがいいだろう。信玄公が病死しなければ、天下を取れたと本気で言い出す輩も多いから。
余談が過ぎたが、事件は、高校の帰り道に起こった。
自転車に乗って、家に帰ろうとしたときに、『道が狭いな。怖くてしょうがない。信玄が道を広く造ってくれればよかったのに』などと考えていたんだ。
信玄公を呼び捨てにしたのが悪かったのかもしれない。やけに道の端を走ってきた大型トラックを避けようとしたら、あっけなく転んでしまった。
当然の如く路面はアスファルトだから固いので、
痛い! と思ったのだが、実際にはそれほど痛くはなかった。
周囲を見回せば草原のような場所である。アスファルトではなく草原なので転んだ衝撃を和らげてくれたようだ。
しかし、おれの記憶には全くない風景だ。ビルや店舗などの建物は全く見あたらない。絶対に何かがおかしい。
いったい……ここはどこだ?
呆然としていると、七、八人の着物を着た男たちが駆け寄ってくる。
「典厩さま、ご無事ですか?」
「典厩さま、そのお召し物は一体?」
「典厩さま、お怪我はありませんか?」
「典厩さま、大丈夫ですか?」
とりあえず、危害を加えられる様子もなく、介抱される立場であるのは助かった。
しかし、質問攻めは止めてくれよ。おれの方が山ほど聞きたいぞ。わけわかんねえ。混乱してきて頭が痛い。
こういう時に、我が吉田家に伝わった家訓がある。
――果報は寝て待て。
「典厩さまが倒れたぞー」
「典厩さま、しっかり!」
「戸板だー。戸板持ってこーい」
「はっ! 戸板持ってきまーす」
「徳本先生を呼ぶんだあ」
「たわけ! それは戸板じゃないぞ。すぐに戸板もってこーい」
「はっ! すぐに戸板持ってきまーす」
「典厩さまの馬はどこに行ったのだー」
「馬を探せー」
しまった。家訓を使ったら、余計に大騒ぎになった気がする。
しかし、こういう時にも、我が吉田家に伝わった家訓がある。
おれは考えるのをやめた。
◇◇◇
一〇日ほどの間、意識を失ったふり、調子が悪いふりをして寝ている間に、聞こえてくる言葉から段々と情報の整理ができてきた。
おれが戸板で運ばれて、寝かされた屋敷のような場所は、甲府の躑躅ヶ崎館であり、かの甲斐の大名武田家の居城であること。平成では、甲府駅の北口から少し山のほうへ登っていった武田神社と呼ばれている場所だ。
つまり、現在は戦国時代真っ只中ということ。西暦でいえば何年だか不明だけれど、天文一〇年らしい。鉄砲の話は全く出てこないので、一五四三年以前の確率が高いはずだ。授業で習うし、戦国時代のシミュレーションゲーム、『姫ちゃんの本』などの拙い知識であるが、このぐらいなら大丈夫。
そして、おれは、武田家の四男であるが、長男・三男が夭折しているので実質次男の、武田次郎信繁に容貌が瓜二つなので、信繁と扱われていること。実物の信繁さんは、どうやら落馬をした後に、消えてしまったらしい。何が起きたかわからないが、その落馬した場所付近に、おれが座り込んでいたようだ。信繁さんの名前と、おれの名前次郎が一致していることと、年齢がともに一七歳であったことが関係あるのかもしれない。
SF風にいえば、おれが平成から戦国時代にタイムスリップしてきて、信繁さんが次元の狭間かどこかに行ってしまったということ。もしかしたら、信繁さんが平成に行っているのかもしれない。それはそれで嫌なのだが、もう考えないことにする。とりあえず、おれが武田次郎信繁ってことだ。
おれを運んでくれた武士たち――武田家の家臣が口々におれに呼びかけていた『典厩』というのは、おれが朝廷から授かっている『左馬助』という官職を、中国風に読み替えた呼び方(唐名)らしい。官職といっても名誉称号のようなもので、京に行って仕事をする必要はない。
平成のおれは一人っ子なのに次郎だったが、戦国時代の次郎信繁には、太郎晴信という、四つ上の兄貴がいる。このアニキが問題である。
郷土の英雄、武田信玄になるはずなのに、まず体型からお話にならない。ひょろっとしていて、おれより一五センチほども身長が低く、色白で病弱のようにも見える。身長はこの時代の栄養状態のせいかもしれないけれど、頼りがないことこのうえない。信玄のイメージは、だるまのような小太りで、白い毛がワシャワシャした兜を被って、ひげを蓄えて、眼光鋭いのであるが、とんでもない。
「じろさ、じろさー! 木に毛虫が沢山いてすごく嫌だよお。何とかしてよー」
毛虫ごときに半泣きなへなちょこである。
シミュレーションゲームなどでは、武力、統率力、政治力、知力などステータスが軒並みほぼマックスであるのが全く信じられない。これで大名になれるのかよ。全く頼りがなくて、信用ならない。
とは、いっても憎みに憎みきれないんだ。一言でいえばアニキは優しい。庭を歩くときも、虫や蛙を潰して殺さないように、そろりそろりと歩いている始末だ。
性格がいいのもあるのだろう。男性にも女性にも非常に人気がある。顔はそうだな。おれのほうが……おれより少しいい男であるのも、人気がある理由かもしれない。ゲーム的にいえば魅力はマックスなのは認める。
そして、相手に頼まれると嫌とはいえず、何とかがんばってやってしまおうとする。赤の他人であれば、本当にいいヤツなんだ。
ところが、自分のキャパを超えてしまうと、これだ。
「ねーねー。じろさー。ゲンスケが怒ってるよ。どうしようか?」
戦国歴半月にも満たない歳下のおれに向かって、難題を振ってこないでほしい。
「あー。ごめんなさいって、手紙書いとけ」
おれは、この戦国時代から元の平成に帰る方法を探さなくてはいけないのだから、適当にやっておいてくれよ。まだまだ情報も集めなければいけないし、ゲンスケなんて知らないぞ。好きにしてくれ。
簡単に石鹸なんて作って大儲けできるわけないし、リバーシなんて餓死しそうな奴らがゴロゴロいるのに売れるはずがない。それに、ゲームで大活躍するような優秀な武将が、伝手もないのに仕官してくるわけないだろ。
まずは、情報を集めてできることからやろう。平成に帰る方法よりも、とりあえず、この世界でうまく生きていかなくては話にならない。
◇◇◇
ない知恵を巡らせ、薄れる記憶を辿りつつ頭を悩ませていたところに、冒頭の追放劇である。
「ねーねー。じろさ。親父を追放しちゃったんだけど……」
「ばかっ! やっちまったな」
「じろさ、そんなこといったって、スルガやビゼンやヒョーブに頼まれちゃってさ」
すっかり忘れていたよ。へなちょこアニキはそういえば、親父の信虎を追放して家督を継いだんだよな。さてと、どうしようか。
「頼まれたからって、どうして追放しちゃったんだよ」
「三人にこのままでは、家臣が離反するからって言われたんだ。困るでしょ?」
「ああ。確かに困るけどな」
離反は困るとはいえ、親父を追放するのも非常に困るだろう。三人は、どうして親父を追放しようと思ったのか。訊いてみよう。
「スルガとビゼンとヒョーブ! 出てきやがれ!」
「はっ! 板垣駿河守(信方)参りました」
「甘利備前守(虎泰)。お呼びのことで」
「はい。飯富兵部少輔(虎昌)参上仕った」
名前と顔がまだ一致していないこいつらを、とりあえず『爺三人衆』と心の中で呼んでおこう。必要ならばそのうち覚えるはずだ。
「お前たち、親父を追放してアニキで何とかなると思ったのかよ? 毛虫で泣く男だぞ?」
「そこは、典厩さまの助力にて」
「典厩さまあっての武田でございます」
「典厩さま、なにとぞなにとぞ」
追放を唆した爺三人衆。お前らがなんとかしないのか? 爺までへなちょこかよ。
そして、典厩とはおれのことだよな。
何だよ。このハードモードは。
逃げたい。今すぐ平成に帰りたい。
だが……仮にいま平成に帰れたとすると、英雄信玄公ではなく、へなちょこ信玄が甲斐の大名になるわけだ。まずいまずい。甲府の未来がお先真っ暗だ。戻れたとしても甲府がスラム街などは論外だ。
わかった。おれがへなちょこアニキを英雄信玄公にしてやる!
こうしておれの戦国ハードライフが始まった。