「月夜に似合う歌をおしえて」
「月夜に似合う歌をおしえて」
給水棟の梯子の手すりを掴む。手のひらに夜気の冷たさと、錆びのザラリとした感触が伝わる。
ゴウッと風が鳴る。首をすくめて素早くのぼると、狭い屋上で向きを変えた。
梯子を振り返ると、途中までのぼったサキの頬をゴムでまとめられた髪が風に煽られて叩いていた。
寒さか、髪が邪魔なのか、顔を顰めたサキへ手を伸ばす。掴んで、ひっぱりあげる。
給水棟の屋上に2人で立って見上げると、団地は窓枠もベランダも引っ剥がされ、剥き出しになった部屋が闇の中、そこが一層深い闇に続く入り口のように、並んで口をあけていた。
忍び込んだ敷地内はコンクリートが剥がされ、土が剥き出しになっていた。
1階の部屋に面した小さな庭で育てていた野菊と水仙も、跡形もない。
団地を世界から遮るように、敷地の縁に沿って、解体業者が設置した、金属製の組み立て式の塀が続いている。敷地に残ったコナラの葉が風に激しく揺れ、散った月光をのっぺり吸収したように、ひえびえと金属の塀は、2人を見下ろしている。
瓦礫の転がった団地の階段を手を繋いでのぼる。サキがはめた軍手の滑り止めのプツプツを指先でなぞると、一箇所、わずかに破れている。月が夜空に入れた切れ込みのような小さなその裂け目から、わずか、やわらかくてあたたかい感触が伝わる。
5号棟の3階、突き当りから一つ手前。304号室。サキの家族が住んでいた部屋だ。
部屋の前に立つと扉は撤去され、部屋の中が丸見えになっている。部屋の中も何もない。
仕切りの壁やふすまは全て取り払われ、ガランとした大きな空間に、水底に沈んだ難破船のマストのように柱が立ち尽くしている。
サキはしばらく玄関に立って部屋の中を眺めていたが、足元の小さな石を拾い上げてジャンパーのポケットに入れると、いつもそうしてきたように、軽い足取りで部屋へ入っていった。
手を引っ張られるように、あとに続く。
かつて、南向きの窓があったリビング。とても日当たりがよくて、団地の南の端に植えられた、山茶花がよく見えた。それが気に入って、この部屋にしたのだと、サキの父親が言っていたのを思い出す。
不思議だろう、一番南の305号室の方が見晴らしはいいんだが、この山茶花は、こちらの部屋の方が、よく見えるんだ。
サキの父親は窓際の、ウッドチェアでよく本を読んでいた。
サキは、ウッドチェアが置かれていたあたりの瓦礫を乱暴に蹴り飛ばすと、外へ、足を投げ出すように腰を下ろした。隣りに並んで座る。四本の足が、虚空に下がる。少し揺らすと、そのまま体ごと前へ持っていかれそうな錯覚で、つま先がジンとなった。そこに、サキが音符でリズムを刻むように、足をぶつけてくる。
「ねぇ」
声が聞こえた気がして横を見るけど、つややかに、頬を白く光らせて、サキは前を見ていた。
いつからサキの声が出なくなったか、覚えていない。
団地の取り壊しが決まった頃か、あの陽だまりと、ウッドチェアと山茶花を愛していた父親が帰ってこなくなった日からか、母親が、部屋中に長い梵字の書かれた札を貼るようになった頃からか。
覚えていない。でも、覚えている。今でも話している気がする、ずっと。今も。
繋いだ手の先で。触れたつま先で。並んだ虚空で。
それは全部、もう遠い、昔の2人の会話のどこかの、リフレインだって分かっていても。
「手紙を書くよ」
もう何度も告げたその言葉を、繰り返す。
そんな言葉は弱くて、ふわっと風に乗ってしまって、隣りのサキには届かないのに。
長くて、強くて、風に負けない言葉はどこにあるのか。大人になったら手に入るのか。
もうずっと話してる気がする。2人でここに来た時から。給水棟で手を掴んだ時から。
仮設の部屋を時間を合わせて飛び出した時から。ずっとずっと話してきたんだ、きっと。
音のない声で。それで充分だけど、それでも伝えたい。音の鳴ることばで。
明日の、一番列車でここを離れる。手を繋げるのも、この夜が最後だ。
ぐっと前を向く。聳えていた、銀色の塀の向こうに、おだやかな住宅街の明かりが広がっている。
「サキの声が、今も聞こえる」
そんな言葉が、口からふいに漏れた。絡んだ足が解けたら、隣りで小さな肩が震えていた。
* * * * * * * * ・・・・・
プラットホームは沢山の人でごった返していた。朝霧が流れ、やわらかく、人々の表情や肩のあたりを覆っている。濁った視界に、見慣れた姿はない。
サキは、見送りに来なかった。
列車がホームに滑り込んできて、大きな白い影のようにどどっと人々の塊が動き出す。
それに流されながら、軽く拳をにぎる。力が入った手首に違和感を覚えて視線を下げると、見慣れた、紺色のゴムがキュッと巻かれているのが、沢山の人の背中や腹や腕の隙間から、わずかに見えた。(終)




