とある農夫の前に現れた奇跡
それは、うちの畑で取れた野菜を街まで売りに行った、その帰り道でのことだった。
夕焼け空の下、森の中を通るひとすじの街道は、俺が帰るべき村までずっと続いている。
そんな道を、一介の農夫である俺は、荷馬をひいて歩いていた。
「はあ……俺このまま、農夫として一生を過ごすのかね……」
俺以外に誰もいない街道で、ひそかにため息をもらす。
その声すらも、周囲の森の中に消えてゆけば、あたりには再び静寂が訪れ、重たい馬の足音だけがわびしく響き渡る。
今年で十七歳。
両親を早くに亡くした俺は、親から引き継いだ農地を耕し、田舎村で細々と暮らしている。
だがそんな生き方に、俺は早くも飽きを感じ始めていた。
毎年毎年、畑を耕し、種をまき、作物を収穫する。
飢饉でもなければ食うには困らないが、それ以上の面白いことも何もない。
これから何十年もこうして、爺さんになって死ぬまで、畑を耕して生きるだけ。
そう思うと、今の暮らしに退屈を感じてしまうのだ。
子どもの頃は、家にあった英雄物語を読んで、わくわくしていたもんだ。
一冊だけしかないその本を、何度も何度も読み返して――内容をすべて覚えてしまう頃には、自分もこの英雄のような冒険がしたいと思うようになっていた。
でも、そんなのは夢物語だ。
畑を耕すという方法でしか飯の食えない俺には、どうしたらあんな英雄みたいな冒険ができるのかなんて、とんと想像がつかない。
冒険者だとか、騎士だとか、世の中にそういう人らが存在するのは知っている。
街で実際に見たこともある。
稀にだが、村に彼らが現れることもある。
でも、自分はどうしたら彼らのようになれるのか、それが分からない。
というか、俺にはきっと無理なんだろうと思う。
騎士のような地位にあるわけでもなく、剣の訓練も魔法の勉強もしたわけでもない俺が、今になって生き方を変えようなんて、どだい無理な話だろう。
だから俺は、このまま一生、農夫として暮らしてゆくのだろう。
村の娘の誰かと結婚をして、平凡で退屈な毎日を死ぬまで過ごすのだろう。
そんな、これまで何度行なったかも分からないような憂鬱な考え事を、いつものようにしていた、そのとき――異変は訪れた。
ガサガサと、前方横手の森から物音がして、そこから瀕死の男が一人、歩み出てきた。
体中のあちこちから血を流していて、特に腹部には、生きているのが不思議なぐらいの深い切り傷を負っていた。
「ぐっ……キミは、近くの村の農夫か……」
男は俺を見てそれだけ言うと、崩れ落ちるように街道に倒れ込んだ。
俺は突然のことに慌てた。
それでも我を取り戻し、介抱しようと馬を止めて駆け寄る。
「おい、大丈夫か……!?」
「に、逃げろ……いや、違う、これを……」
瀕死の男は、その腕から『あるもの』を取り外し、差し出してきた。
それは、驚くほど精緻な細工の施された、銀の腕輪だった。
俺は、何の気なしに、それを受け取った。
「それを……王都まで、届けてほしい……そして、伝えてくれ……王国魔装騎士団の、探索部隊は、全滅した、と……」
男がそう言ったとき、再び目の前の森の奥から、何かが這い出てくるような音が聞こえてきた。
森の奥を警戒して目をこらすと、暗がりの中、何やら黒い影がうごめくのが見えた気がした。
――どくんと、心臓が鳴った気がした。
「まずい……それを持って、早く……」
男がそう、俺を追い立てようとしたとき――
ピカアアアアア……
渡された腕輪――俺の手の中にあるそれから、まばゆい光があふれ出した。
そしてその光が、俺の全身を覆うように、暖かく包み込んでくる。
「え、な、なんだよこれ……?」
「……っ! これは、まさか……魔装器が使い手を選ぶという……」
男が驚きの表情を浮かべる。
だがそうしている間にも、森の奥にいた黒い影が、すぐ近くまで歩み出てきた。
ついに目の前に現れたそれは、人間のように二足歩行をした生き物だった。
だがそのシルエットは、人間とは大きくかけ離れている。
灰がかった青色の体皮。
太い指先から長く鋭い爪の生えた、四対八本の腕。
両の側頭部からは、野牛のような二本の角が伸びていて。
背から生えた翼は、コウモリのそれを大きくしたような形状だ。
そして――体格。
目の前に現れたそれは、見上げるような大きさだった。
身の丈にして、二メートルをゆうに超えるだろう。
――無理だ、勝てっこない。
戦おうとも思っていないのに、直感的にそう思ってしまった。
眼下にわずかに視線を落とせば、目の前に倒れた瀕死の男の腰には、鞘に収まった一振りの剣があった。
でも、それを拝借したところで、何になるというのか。
戦いの素人なりにも、手傷の一つぐらいはつけられるかもしれないが、その直後に俺の命は無惨に刈り取られているだろう。
「おい、農夫……こうなったら、イチかバチかだ……唱えろ……」
瀕死の男が、何か言ってくる。
農夫呼ばわりが気に入らなかったが、文句を言っている場合でもない。
「唱えるって、何をだよ!」
「『着装』だ……そう、唱えろ……」
「ちっ、何だかわかんねぇけど……!」
逃げても、逃げ切れる気がしない。
目の前に現れた生き物が、一体何なのかは分からないが、とにかく感じるのは、絶対的な命の危機だった。
だからとにかく、なりふり構わず、俺は言われたとおりに叫んだ。
「――着装!」
俺の体を覆っていた淡い光が、さらに強く、輝いた。
視界が真っ白に塗りつぶされる――




