3
ポチは十番めの石段を登り継いでいた。
汗だくである。
自分の家の蔵に戻るには四つほどの石段を登れば辿り着いたはずだったが、メイの「物理的な音圧」に往く手を阻まれてそれは果たせず、ポチはだいぶ遠回りしたあげく山に入り込んでいた。
主観的には全力(命の危機なのだし)なのだが、前も言ったように持久力はからきしなので、はためにはよろよろと石段を登っているようにしか見えない。思い出したように見上げては追っ手を探す。
メイにとって、くたびれたポチを仕留めるのは雑作もないことだろうに、時々休まざるを得ないポチをゆったりとした調子で追ってくる。時間にして一時間超えるくらい、隠れて体力回復しながら逃げ回っているうちに、ポチはいつのまにか山の上に追い込まれつつあった。
「いたぶってんのか……よっ!」
お堂の上側に差し掛かり、空に向かって見えない敵に毒づいた瞬間、腹に響く低音が連続した。ポチの眼の前の地面が音圧でブレて、かき消すようになくなった。
「おわあっ!!」
ポチは空中を踏み抜いて、前のめりに急斜面を転がり落ちる。
何とか頭はかばったが、灌木の枝に額をいやと言うほど打たれ、右肩を岩にぶつける。
しかし最後はやはりヘッドスライディング。
腐葉土に頭が半分埋まった。
「ぐ……ちっきしょ」
上空から、メイはポチが転がり落ちる姿を眺めながら、眉をひそめていた。
実際にポチに興味はないようだ。
メイは首を振りながら、お堂の周辺を検分していた。
「なるほど……正十七角形か。ずいぶんと念入りに封印してくれたものねえ」
首を振って肩をすくめる。
ポチのあずかり知らぬことだったが、上空から見ると、裏山にはお堂を中心として、正十七角形が描かれている。
真ん中に月縛を置き、上方にあたる頂点に日縛、時計回りに頂点にあたる箇所ひとつ置きに残り五曜が配置され、計都と羅喉にあたる方角は空位。
――言ってみれば、無秩序の中の秩序だ。
紀元前のギリシャから、数字と概念で世界を語る試みは連綿と続けられてきたが、近代数学にいたったのは十九世紀末、数学の天才の出現を待たねばならなかった。その嚆矢が正十七角形と言えるかもしれない。
世界は疑いもなくシンメントリーであり、二の累乗からなり、ひと目でそれは理解できるものばかり――そのはずだった。世界は赦すものだった。
だが、簡素な道具で、あるいは両手で、作り出される「かたち」。
調和の「円」には遠く、左右対称の認識を揺るがしかねない数字。
秩序に発しながら、方向性を内部に封じ込めて無秩序にいたり、そしてそれ自体の重みでやがて秩序に還る、正十七角形はそれ自体が結界だ。
千年も前から湖緒音町の裏山には、フィールズ賞も泣いて逃げ出す数学の先進的な概念が引き記されていたのだった。
全ては大妖を封じるために。
ポチは呻きながら立ち上がる。
毎朝の修業を行うお堂の前だった。いつも登ってくる側とは逆の斜面を落ちてきた形だ。
お堂の脇にふたり、人がいた。
「ポチ」
「ハク、お前、なんで……ってそれ!?」
ハクはヤミを背負っていた。
「ポチ」
「な、なんだよ。なんでそいつ」
「これ外して。早く」
「あ? ダメだっつたろ!」
「何よポチのくせに。私の言うことが聞けないっての?」
「いやだからこれはそういう」
「あんたの中二設定に付き合ってやる、って言ってんのよ」
「いやだから、これはそういう」
「じゃあ中二なら中二らしく、都合よい解決法だしてよ。期待してるから。左腕の封印解けたりするんでしょ」
ぐむ、とポチ。
「下ろしてくれ」
聞くともなしに聞いていたヤミが口を開いた。
「大丈夫?」
「大過ない。もう腕も戻った」
言葉通り、吹き飛ばされたヤミの右腕は再び形を取っていた。
ヤミが右手を握ったり開いたりしながら、地面に降り立つ。
「不思議なものよ。なければないで、魂魄である我にとっては問題もないのだが、記憶が身体を元に戻す」
ヤミはかすかに微笑み、独りごとのように付け加えた。
「不思議なものよの」
おもむろにヤミはポチに近づき、ポチの左手を取って手首の宿曜計をじっと見た。
「な?」
「如意輪観音に擬しているが、そうだな、南無北斗妙見か」
ヤミがぼそりと口にした。
「!」
ポチがびくっと顔を上げる。
「玄天上帝じゃの。マカシリエイ・シベイ・ソワカだったか」
「なんでお前がそんなこと」
「我らの頃は、皆そのくらいはわきまえておる。宿曜は最先端だったしな」
「ハイテクなのっ!?」
ヤミはポチを見上げた。
「封印はできぬと言ったな」
「う、お、ああ……」
「その範囲においては助けてやってもよい」
「お、おまえ……」
「彼の方は朝廷に謀反の罪に問われ、我が主は陥れられた……が、我らのような人間を増やすのは本意ではない。我が主もそう言うだろうよ」
「……おまえ、一体……?」
「まあ、難しいことはよい。行きがけの駄賃というやつだ」
ヤミがにっと笑った。
☆
メイは首を傾げながら上空から降り、山道をゆっくり登っていた。
「これだけ完璧な封印がなんでまた……?」
ぶつぶつと呟いていたが、ふっと眼前が開けて開けたところに出る。
「あら?」
ポチとハク、ヤミが立っていた。ポチはびくびくと、ハクは真っ直ぐ睨みつけ、ヤミは面白そうに笑っている。
「もう逃げなくていいんですか? ……ってヤミ、やっぱり悪い癖が出たみたいですね」
「……いつもの悪い癖ではないよ」
「結局、面白そうなほうに肩入れするのは、悪い癖以外言いようがないでしょう?」
メイが半ばあきれたように言うと、ヤミは笑って頷いた。
ポチがメイをうかがいながら、ハクに近づいて首輪を触る。
「唵……」
たどたどしく唱えられた真言に応じて、まばゆい光が三人を満たした。
「へえ……そのくらいの解呪ならできるんですね」
メイが少し驚いたように言った。
ポチも自分のしたことの結果を驚いて見つめている中、ゆっくりと光が収まる。
「ふう」
光が収束していく中心に立った人間が大きく息をついた。
年の頃は二十代中ごろか、長い栗色の髪の毛をなびかせて、軽く頭を振った。背はポチより少し低いくらいだったが、張り出した胸と腰と威圧感のおかげで、ポチの存在が霧のように霞む。西洋には見ない彫の深さ、目鼻立ちはすっきりとして鋭く――ひと言で言って、美女だった。
身に着けた白い服は、小袖のようにも見えたが、アイヌの草皮衣のようにも見えた。光の加減で、直線のような曲線のような、渦のような文様が全体に施されているのがわかる。
そして、対峙するメイと同じく、その手足、肩、腰には、満月から弓張月まで様々な月の意匠が施された黒い具足がついている。
「いささか息苦しいな。空気がまずい」
形良い唇が開いた。見かけによらず可愛らしい声だ。
「久しぶりですね、ヤミ。よかったじゃないですか。身体を手に入れられて」
メイが含み笑いながら応える。先ほどの幼女姿を思い出しているのだ。
「まあな」
ヤミが右手を開いた。光が集まり、三尺ほどの棒が形を取った。両端に金色の装飾が施されている。
納得したように微笑み、手にした棒をくるくるっとバトンのように滑らかに回し、ぴたりとメイに向けて止める。同時に強く頭を振ると、長い髪がばさりと乱れ――栗色の髪が、瞬時に銀色に変わった。
「せっかくだ。肩慣らしに付き合ってくれ」
言うや否や、ヤミは一直線にメイに向かって飛ぶ。
すかさず鈴を鳴らして迎撃するメイ。
輪唱じみた音圧が重なり合ってヤミに殺到する。
「ふんっ!」
ヤミは棒を振って音の塊を次々に砕いた。
ヤミの棒は甲州産の黒鉄からできている。磁性を帯びた隕鉄。
それは音の塊と触れ合うと、削り合うように盛大な火花を散らし、同時にグラインダーのような高い擦過音を立てる。
時ならず地上に花火が咲くと、その下をくぐってヤミが低い姿勢でメイの前に躍り出た。
「はいっ!」
気合と共に、棒を螺旋状に捩じった一撃をメイに撃ち込む。棒術と言うより明らかに棍術の手法だ。
メイは認識するより早く、音の壁を押し出して衝撃を相殺する。
だが、全部は吸収できなかったようで、メイは吹き飛んだ。
「もう! 肩慣らしにしては痛いんですけど!」
メイは不服そうに大声を上げ、縦に回転しながら空中で姿勢を整えて静止した。吹き飛んだのではなく、受け流すために自分から飛んだのだ。
「なんで戦闘形態なんですか……いきなり。しかも最上級」
ヤミは地上で見上げながら、棒を八双に構えた姿勢。
「いや、すまんな。寝ぼけてるのか加減がうまくできん」
「そうじゃないですよね?」
「さて?」
メイは胡乱な眼でヤミを見つめる。
「……ヤミの戦いはホント美しくないですね」
「余計なお世話だ」
「遠距離攻撃一切なし。近づいて殴る、殴る、殴る。通り魔ですか」
ヤミは苦笑する。どうやらヤミの武器はその棒のみであるらしい。接近するスピードを限界まで高め、一撃必殺。メイとは対照的だ。
「せっかくだ。もう少し付き合え」
「いいですけど。でも、これだと私も手加減できませんよ?」
メイは首を傾げて眼を閉じ、二度うなずいた。再び眼を開けると、先ほどまで黒かったその瞳は鮮やかなセルリアンブルーに変わっている。
「……その調子だ」
言いざま、ヤミが一直線にメイに向かって飛んだ。
瞬時にメイは音の膜を繰り出す。ヤミの可動範囲を囲った円形の衝撃波。
立て続けに高音圧を重ねて、ヤミの迫る中心部を厚くする。
メイが発した衝撃の円錐がヤミを包んだ。
取りこまれれば一瞬で体液が膨張する。
たまらずヤミは空中で方向転換、左上方に逃れた。
「まったく嫌いだよそれ。何が美しくないだ。お前の餌食になったヤツの悲惨さは、私の比ではなかろう」
「言いますね。あなたに力ずくでまき散らされた人に聞かせてやりたいですけど」
くくっとヤミが笑った。
「まあ、敵を滅するのに特化しただけか。互いにな」
ヤミの眼はすっと細められ、メイはうっすらと笑いを刷き、空中でふたつの暴力が続けざまにすれ違った。
「封印。封印。どうやってやるんだっけ。どうすんだっけ。確か……」
ポチはふたりの大妖の空中戦を見ながら、うわ言のように呟いた。
唇を噛みしめ、胸の呪印に手を当てる。
「頼むぜ、じいちゃん。ご先祖さんも……」
ポチは覚悟を決めたようにどっかと地面に座り込んだ。
金剛杵を握りしめ、結跏趺坐をとる。
眉根に皺をよせ、必死に何かを思い出すように眼をつぶった。
☆
夜の山中の岩場。
幼いポチがその上で座禅を組まされている。周囲を高賢が歩いている。
「宿曜道とは星の力をもちいる術」
「星の力?」
「しゃべるな」
眼を開けて問い返したポチの頭を錫杖が打つ。
ごいん。
「いってぇっっ!」
「星の力とは、天然自然、天神地祇、あらゆる力や存在に対して等しく働き、誰も避け得ぬ根源たる力」
ポチは頭を押さえながら泣きそうな顔で聞いている。
「すなわち、『時の力』だ」
高賢がポチを見つめて、両手の指を組み合わせる。
「間もなくお前はその入口に立つ。封縛の力を手に入れなければならん」
高賢は空を見上げ、ポチもつられたように見上げた。
満天の星空。
☆
手がかりを求めて過去を反芻していたポチが眼を開けた。
「大丈夫だよな。封縛は習ってないけど、禁縛はできる……ハズ。信じるぞマジで」
ポチは左腕をめくり上げて、宿曜計のベゼルを動かし始めた。
七曜の運行は頭に入っている。
ふたりは月と水。
鈴の音と棒の風切り音が交錯している。
互いに果てもなく技を繰り出し続け、互いに吹き飛ばされては空中で急停止、何かに弾かれたように再びぶつかりあう。
不思議なことに、メイのほうが分が悪そうだった。体力の限界が戦闘の終了を意味するヤミに対して、攻撃の源泉が無尽に思えるメイの息が荒い。互角だった戦いが少しヤミに傾き始めた。
「あいかわらず脳筋ですね」
空中で静止したメイが、苛立った口調で悪態をついた。
「この時期は空気が重たくていけません。春先だったら揉み絞って差し上げるんですけど」
「音使いのメイ様が弱音を吐くか」
ヤミがやはり空中で止まって応えた。
メイが、ヤミに向かってわざとらしいため息をついてみせた。
「……あなたって昔からそういうところありますよね」
「なにが?」
「どうも、寄り道が激しいというか、弱そうなほうの味方をするというか――衆生は結局我らの味方ではありません。彼らは彼らの味方でいることが精いっぱいなのですよ?」
ヤミは困ったような顔で笑いを収めた。
「我らは恨みを抱いて人に非ざるものになるしか、道はありませんでした。暗闇の小さな箱の中に閉じ込められて、鼓動を数えるしか自らを保つ術はありませんでした」
メイの独白に、ヤミは一瞬、哀しそうに眼をつぶったが、優しく笑ってゆるやかに首を振った。
「……違いますか? ヤミは違うのですか?」
ヤミはメイの言葉の意味するところを十分に理解しながらも、破顔した。
「……まあ、性分なんだろうさ」
棒をくるくると回して、ヤミは軽快な音と共に棒を掴んだ。
「恨みつらみと言ってはみるが……正直、千年経てば恨みも薄れる」
「ヤミ……」
「我らが主は高邁な方だった。彼女の仇を取るよりも、私はその理想を形にしたい」
メイは深々とため息をついた。
「ヤミ……私たちの任ではありません。その器ではないでしょうに」
「器ではないのは承知だ。だがな、」
ふたりが同時に地上へ視線を移した。
戦いを経て、既にポチのいるお堂から、山を半分ほど越えかかっている。
「ヤミ!」
「あやつめ! 封縛はできるのか!」
「ちょちょちょっとあれ!あれ!」
メイが法力の高まっているあたりを指差す。
ふたりはそれまでと一変して慌てふためいた。
「止めるぞメイ!」
叫ぶと同時に、ヤミとメイはポチのいる一点を目指して下降を始めた。