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迷いもなくメイの腕が降り下ろされた。
鈴の音が幾重にも重なり、音の塊が周囲の空気を震わす。涼やかな音がぎゅうと収斂して、一気に極高音、可聴域を超えた。
メイからポチへ、音圧が滑るように向かっていく。
ポチは竦んだまま動けない。
現実において、「音で対象を破壊する」ということはほぼ不可能である。
必要なエネルギーが巨大過ぎるからだ。
空気は音波を伝えるのに、最も適さない媒質と言っていい。
にもかかわらず、メイは音波を駆使して戦っているところから推測するに、恐らく建造物の破壊には、何らかの力場で囲って固有振動数の共振による破壊、先ほどの風は、対象の後ろに一定量の空気を囲って波動で気圧を下げ、その解放によって颶風を巻き起こしていると思われる。
そして今。
ポチに向かっている音圧は、外部からは内耳を破壊しながら脳へ到達し、同時に人体の七十二%を構成する水の圧力を一気に下げることで、内部からのキャビテーションを起こすことを目的としている。
キャビテーション。すなわち気泡だ。
あわれ、ポチはコーラを振って開けた時のようなモノになる。
もちろん絶命である。
見えない何かを見つめて凍ったポチを、ハクが突き飛ばした。
もろともに転がる。
ごろごろごろん。
アスファルトで痛そうである。
ハクに押し倒された形でポチは眼をぱちくりさせる。あらためて、眼の前の女の子はよく知っている子だった。
「ハ、ハク……?」
「ななな何してんのポチっ! 何ぼやっとしてんのよっ!」
ハクは焦って起き上がった。
「早く! 逃げるんでしょ!」
「うん。そうだな……その通り」
ポチは走馬灯を一周してきてしまったせいで、理解に時間がかかった。
自分たちはいま大変ヤバいのだ。
絶体絶命なのだ。
……ところで、絶体絶命って何だっけ?
「逃がすとでも?」
ポチが振り向くと、いつの間に近づいたのか、空中に浮いている女の人がいた。
あれ、人って浮けるんだっけ……うん、そう言えば浮けたよな確か。
その彼女が空中で二連脚を放った。
ポチの下あごと胸板に、一瞬上半身がゆがむほど強烈な蹴りが入って、ポチはしたたかに飛ばされた。さすがにいつもの「わかった感じ」のやられっぷりではない。文字通り吹き飛び、受け身も取れないくらいに転がった。
一瞬意識が飛びかけたが、衝撃で正気に戻ったポチは、必死にその尻尾にしがみついた。
今気絶したら全て終わりだ!
「ぽ、ポチっ!」
ハクが駆け寄ろうとして、その前にメイが立った。ハクを見てにっこりと笑う。
「あうっ!?」
メイはハクの首を無造作につかみ、軽々と掲げた。
「はっ、がはっ」
「私、男の子より女の子の方が好きなんですよね……。男の子の苦悶の表情って、美醜以前というか、なんか予選落ちって感じしません? その点女の子はいいですよね~」
メイは苦しんでいるハクを楽しそうに見ていたが、困ったような顔になって手元を見た。ハクの首から手を離す。
ハクはどさりと落ちて、続けざまに咳き込んだ。
「……で、何のマネです?」
「ふぁふぁふぃふぉふぉふぃふぃふぉふぁ」
ヤミがメイの腕に噛みついていた。
「何言ってるんですか」
ヤミは口を離し、メイを睨んだ。
「私の憑代だ。傷をつけないといったハズだぞ?」
「傷はつけてないですけど」
「とんちか」
「……ふーん」
メイは残念そうに口を尖らせた。
「はいはい。じゃあさっさとあの子を殺しますね」
軽いため息をつくと、メイは気だるげに歩き出す。
それを追うように、ハクが荒い呼吸で顔を上げると、ヤミがじっと見つめていた。
「な、なに?」
「お前、あの小僧を助けたいか?」
「え?」
ハクは訝しげに問い返した。
「助けたいかと聞いている」
「どういう……」
「このままだとあの小僧、メイに殺されるぞ。それも結構苦しんだ末に」
「そんな……だって」
「小僧だけではないな。奴が要になっている封縛が解ければ、他の人間たちもただでは済むまい。千年分の恨みが降りかさなるだろうさ。どのくらい死ぬかな」
メイはゆっくりとポチに近づいていた。ポチはようやく身体を起こしたところだ。
「ほんとやめて……そういう非日常的な話」
ヤミは屈んでハクを覗き込んで、諭すように穏やかに言った。
「信じる信じないはお前の勝手だが、家族や友の亡骸を見てからでは遅いと思うぞ」
ハクは唇を噛んでヤミを見つめ返した。
ヤミは静かな表情のままハクを見つめている。
ハクは我知らずヤミの瞳に見入った。
その瞳はヘイゼル。
茶色にも薄く緑がかったようにも見える不思議な色。
淡く美しく、けれど強烈な瞳。
それは、幼女のものではなかった。その眼差しには、何か幾つもの痛みを、途方もない無念を飲みこんで佇む孤影があった。音のない六月の時雨を思わせた。
夢で踊っていた鬼姫。
彼女は喜んでいたのではなかった。
あれは鎮魂の舞いだったのだ。
――そうか。
もはや、大事にしていた日常は去ってしまったのか。
大事に、毎日少しずつだけれど、積み重ねて、丁寧に。
それら全てに置き去りにされてしまったのだ。
切れ切れの想念が通り過ぎると、ハクは落ち着くのを感じた。ピースがそうあるべきところにそうあるべくしてはまる。ずっと前から決まっていたような。
「……どうすりゃいいのよ?」
ヤミが口を歪めて笑った。
奇妙に無邪気な笑いだった。
ポチが顔を上げたところにメイの右足が蹴りこまれた。
左ほおがひしゃげて、再びポチが飛ぶ。
どしゃっ。
美しい蹴られ方である。
こんな時でもポチは芸が細かい。
「がはっ……!」
「あら、あなた、殴られ慣れてるのね。自分で衝撃を相殺してるんだ」
「何を……ぐふっ!」
メイが今度は腹に左足を蹴り込んだ。
「ああ、腹だとちょっとムリよね、やっぱり。んー……できたら必死に逃げ回って欲しいんですけど」
「お、おまえ……」
「私たちを封じた空賢は、しぶとくて狡猾でしたよ? 私は暗闇の中でヤツを嬲り殺すやり方を少なくとも六万は考えました。細部まで」
メイはなぜかうっとりと空を見上げた。
「見かけによらずマズイなこいつ……」
ポチが口の中で呟いた。間髪を入れず再びメイの左足。どしっ!
「聞こえてますよ」
メイがうっとりとした表情のままポチを見やる。
「ま、待ちなさいっ!」
噛みそうな大声にメイはゆっくりと振り返った。
震えながら立っているハク。
そばにはニヤニヤ笑いをしたヤミ。
ヤミが笑いながら口を開いた。
「メイ、空賢の裔といっても、しょせんただの人間をいたぶっても面白くはないだろう? 私が相手してやろうか」
「あなたが?」
メイは小首を傾げる。
「私とは相性が悪い、と言って組手もやらなかったのに珍しい。そもそもできませんよね?」
「いや、この法輪を解いて、身体を使わせてもらう。こいつは許可するそうだ」
ヤミはハクにあごをしゃくった。
「へえ……? 憑代さんはそれでいいのですか?」
メイとヤミから見つめられたハクは息をついた。
「い、いいわけないでしょ。でもそれしかないって言われたら……」
「ふーん。でも、空賢の裔さんが封印を解きますかね?」
「なに。そいつも今死ぬよりかは、幾分かましだろうさ」
ヤミが今度はポチにあごをしゃくった。
ポチが痛みに耐えつつ身体を起こす。
顔を歪めて何か吐き出した。歯だ。
「ふざけんな……よ。お前もハクの身体を乗っ取るつもりだろ」
「さてな。どっちみち、私なしでメイをどうにかできると思えんが」
「解呪したところで、敵がふたりに増えるだけだろうが!」
「そこはまあ、信じてもらうしかないなぁ」
とぼけた調子でヤミは肩をすくめた。
す、と空中に腰掛けるようにメイが浮かび上がる。
「いいですよ、私はどちらでも……というか、貴方たちに選択権があると思います?」
ポチとハクは息をのんだ。
「私としては、昔のよしみでヤミの言うことを聞いてるだけですし」
「だそうだ。どうする?」
ヤミが応じるように顔を向ける。
全員がポチを見つめていた。
のろのろと立ち上がったポチは何か言い返そうとして、何も返せなくて唸った。
「ぐっ……」
☆
幼い頃からポチは回峰行を祖父から仕込まれていた。湖緒音町周辺の山々から峠をひとつ越えたあたりには千メートルを超える岩山が幾つもある。修験道の修業の場として使われているような険しい山々である。
祖父、すなわち高賢は、両親を早くに亡くしたポチを跡継ぎとしてかわいがるというよりは「かわいがり」的に鍛えた。おかげでポチは、七歳の時点で既に、大人がやるような回峰行をクリアしているという、そちら方面では「期待の新星」扱い、「勉強するより修業」の幼少期だった。
高賢が護摩を焚きながら言う。
「よいか。七曜封縛とはすなわち、七妖封縛。七曜星の法力を以て、己を鍵としてのみなしうる封印の法だ」
「よくわかんねえ」
ごいん。
錫杖がポチの頭を打った音である。
「……今はわからずともよい。だが、我らは先祖代々、封縛の管理人としての血脈を保ってきた。お前は今、その長く重い歴史の先端にいることをゆめゆめ忘れるな」
「封縛の管理人ったって、祠の掃除しかしてないじゃん。あと山歩き」
「それが大事なのだ。とにかく掃除だけは忘れるな」
「朝眠いんだよな~」
「やかましいっ、やれっつったらやれ!」
ごいんごいん。
錫杖が再びポチの頭を打つ。
☆
ハクが少し進み出た。
「ポ、ポチ……」
「悪いな、ハク……」
わずかにポチは笑った。
「俺はな……俺は! ちっちぇえ頃から、封縛のせいで朝から祠の掃除ばっかさせられて、ろくに眠らないでひたすら山登らされて、わけわかんねえまま術の勉強させられて、気絶するまで滝に打たれて、錫杖でしこたま殴られてた……!」
ポチの突然の魂の叫びに一同はちょっと引き気味だ。
この男の子はどうやら何か線が一本切れたらしい。
「あげく幼なじみに縄を巻かれて犬扱いされて、ついたあだ名がポチだ!!」
……。
何かこう、「いっちゃった……」感のある話を、ポチは始めてしまった。
皆が微妙に視線を避ける。
ハクは申し訳なさそうに頭をかく。
……。
「でも、それもこれも全部! お前ら大妖に好きにさせねえためなんだよっ!」
皆の当惑もあらばこそ、ポチは金剛杵を取りだし、メイに向かって構え直した。
「こいよっ!」
「……残念でしたね、ヤミ」
鼻で笑ったメイが鈴をかざす。
「貴女が思ったよりずっと、バカってことですかね」
再び鈴の音が共鳴し、可聴域を超えた衝撃波がポチに迫る。
ハクがポチの前に飛び出した。
「ばっ、やめろハクっ……!」
ポチがハクの肩を掴んで引き寄せようとしながら、ふたりは眼をつぶる。
が、ふたりに到達する前に衝撃波は弾けとんだ。
耳の奥に痛みを感じるような高い金属音が響く。
うわあん、という残響が消え、ポチが恐る恐る眼を開けると、ヤミがメイと対峙するようにして、ふたりの前に立っていた。
「……魂魄だけの姿で、ずいぶんと無茶しますね」
ヤミの右腕は付け根から吹き飛び、血の代わりに、星がきらめくような光が肩口に漂っていた。
「憑代を殺すなといっただろう」
ハクも眼を開けてヤミの背中を見つめている。
「ふーん? それだけですか?」
「正直なところ、殺すのがもったいない気がしてきたんでな」
普通の口調は強がりだったようだ。
ヤミは力が抜けるように、がくっと膝をついた。
思わずハクが駆け寄って抱き上げる。
「あ、あんた! なんでこんな……」
「別に、大したことじゃない」
ポチはヤミを見て、メイを見て、背を向けて一目散に駆けだした。
目指すは自分ちの蔵。
そこに封印の詳細があるのだ。
「ポ、ポチッ!!?」
ハクが声を上げたが、ポチは振り返りもせず道の駅の脇にある石段を駆け上がるところだ。そこの石段から幾つかの石段を継げば、ポチの目指すところにたどり着く。
「……まあ、引き離そう、とか思ってるんでしょうね……」
やれやれ、といった調子でメイは肩をすくめた。
「なんだか、興がそがれましたね……ヤミ、それ大丈夫ですか?」
「この程度は大過ない」
「そうですか。お詫びは言いませんよ」
「お前も私も好きでやってることだ」
メイは少し難しい顔のまま小首を傾げた。
「ま……そうですね。わかりました。せっかくなんで最後までお付き合いしましょうか。実際、封印されるのはちょっと困りますし」
独り言のように呟くと、メイはふわふわと浮いたまま、ポチの去った方向に向かった。
「……あのさ、あんた……ヤミだっけ」
「ああ、そうだ」
「……私の身体に憑りつけば、あいつをやっつけられるの?」
「……さあな。メイは強いし私とは相性が悪い。あいつは解呪する気もないようだし」
ハクは逡巡を振り切るように、強く首を振った。