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たちばな荘の露天風呂、朝方である。
お客さんが朝風呂に入るのももう少し後、家々では通勤通学に人々が起きだす頃合い。
「いい湯だね……」
アユイである。
露天風呂にはヤミ、メイ、マナ、トウマ、キリ、カノン、七妖が揃って、全員がぼーっとしながら湯につかっている。全員があごまで沈んで、温泉に脱力している。
「あぁ」
呆けたようにヤミ。
「風が気持ちいいなあ」
「そうですね」
メイがぼーっと応える。
「朝風呂なんて贅沢だよ」
「まったく」
トウマがいつもよりだいぶ気が抜けた調子で応える。
「肌すべすべになるかな」
「いいねぇ~」
マナがぽわぽわで応える。
――しばらく全員温泉の魔力で沈黙した。
温泉旅館たちばなの中庭にある、可愛らしいししおどしのかっぽーんという音が響いた。
「なあ、これ十話だぞ」
思い直したようにアユイ。
「そうだなあ」
全然聞いてないままに返すキリ。
「手抜きだろ、どう考えても」
「……さぁ?」
温泉に沈み込みそうなカノン。
――そしてまたしばらく温泉の魔力に沈黙する七妖。
ため息をついて、アユイが湯からざばっと上がった。
「あー……あたし、そろそろ幼稚園行くわ」
「……おお」
ヤミが気怠げに答えた。
アユイはしきみ戸に歩きながら再び声をかけた。
「うーん、まあ、皆思う所があるだろうけどさ……」
カノンが温泉に沈み込んだままアユイに顔を向けた。
「心配しなくていい」
呟くような言葉にアユイが振り返ったが、その視線を避けるようにカノンは天窓を見上げた。
「もう復讐などと言うつもりはない……ただ、今すぐ何かを考えられるほど図太くないだけ」
七妖たちは思い思いに小さく頷いた。
天窓の外、上空遥かにトンビが舞っているのが見える。
☆
湖緒音高校の体育館は、ただいま絶賛補修工事中である。
最近、ちょっと眼を離すとすぐにあちこちが大規模修理不可避の壊れ方をする湖緒音高校――これほど短期間のうちに、体育館、生徒会室脇の廊下、中庭とそれに面した外周、屋上出口がほとんど爆発で吹き飛ばされたように壊されている。
校長はその不可思議な被害と、馴染みのない衣装を身に着けた美女を見たという生徒たちの証言から、「これはもう祟りである」と決め込み、拝み屋と補修予算の手配に勤しんでいる。祠のカタログを広げ(存在する)、デザインを選んでいる姿は少し楽しそう。
教頭は、爆発であれば一点に集約されるはずの被害が全面に渡る力で破砕されている、もしくは鋭利な刃物で切断したかのような被害状況を見るにつけ、「これはもうテロである」と決め込み、これだけ派手な所業であれば犯罪予告があるはずと、国民的巨大掲示板をパトロール、いや常駐している。コレが縁となって、のちに湖緒音町サイバー教育委員会のはしりを作ることになるのだが、まあそれは別の話。
さて、体育館の内周の片側には足場が組まれていて、バスケやバレーは若干不便(ハーフコートしか使えない)だが、それ以外の部活はフロアが使えれば問題はなく、バトン部も大会が近いので練習を再開していた。
今日はバレーやバスケなどが遠征試合に出ているので、久々に全面を使える贅沢な日である。
高く投げ上げても照明などに当たらないし、動きながらのアクションも気にせず動けて、エクスチェンジ(バトン交換だ)も実際の距離が使える。やはり、ステージ上だとロール中心の練習と動きの確認にならざるを得ないので、フィールドの全体感覚がつかみにくいのだ。解放感からか、すでにウォームアップ中から部員たちはウキウキとバトンを投げ上げたり、イリュージョン系の技にチャレンジしたりしていた。
「はい、じゃあ最初からいくぞー」
神谷コーチが手を叩くと、十五人の出場メンバーが所定の位置に着いた。
サブメンバーは、神谷コーチの後ろで自分の位置に近いところで準備に入る。
アップテンポな自由曲がかかる。
全員のシンクロしたロールに始まり、前列は向かい合わせ、後列は距離をV字形にとって大きく広がる。前列の全員が肩と首、上半身でロールをしながら、一列目から順にすれ違っていく。入れ替わる瞬間に互いのティップを一瞬だけ触れて、バトンも入れ替え。
前列が位置を入れ替えたきっかけで、後列の右奥とその対角線が順に大きくバトンを投げ上げる。バトン交換の位置に綺麗に回り込みながらグランジュテ(前後に開脚して跳ぶバレエのジャンプである)、そしてタイミングをずらして連続して後列が跳んでいく間、着地しているものはコンタクト・マテリアル(バトンを手と指で回す)。
全員がバトン交換をしてV字が四角形になったところで、曲のブレイクに合わせてバトンを止めて、回して、止める。
いつの間にか広がっていた前列が、後列の動きが止まった瞬間に、左右一斉に大きくバトンを投げ上げ、側転からワンステップ、側宙から背面キャッチ。
相当な難易度である。湖緒音高校の演技で初っ端のヤマ。これで審査員と観客の眼を引き込むのだ。
なおも曲に合わせて、ロールをしながら位置を入れ替え、コンタクトしながら逆手で引き合いながら位置を入れ替え、その中央をダンスをしながら横切り、全体で星が輝く夜空と流星群のイメージを形作る。
わずか四分二十秒の演技だが、ほとんど無酸素運動の過酷さである。誰の受け持ちにもほとんど止まる瞬間がない。必死に演技をしているハクである。踏切にはもう不安はない。
神谷は全員を厳しい眼で見ている。
終盤、星が朝日と共に消えていくようにメロディが細くなり、後列が緩急をつけて止まり、前列はゆるやかに止まり、全員がバトンを抱え星が消える。
神谷は無言で眼をつぶっていたが、なにか合点がいかない様子の顔を上げた。
「……十分休憩」
「はいっ!」
?
あれ?
今は、つま先までできたような気がしたが?
神谷の惑いが伝染したのか、勢いよく返事をしたものの、部員たちも納得がいかない顔を見合わせている。
今の演技の再確認をする部員たちを横目に、神谷が小首をかしげながら手近なバトンを軽く振っている。
演技の構成をイメージトレーニングしているのだろう。
軽く順を追っているだけなのだが、やはり高校生レベルの動きではなく、リズムを取っているだけの身体が、先ほどの前列中央、部長の本宮の演技のイメージと重なる。さりげない動きだったが、明らかにキレが段違いである。
それをぼーっと見ているハクである。
「お疲れ」
タオルがハクの頭に置かれた。見上げるとアムである。なんとなく首をすくめるハクである。
「あ、ありがと」
汗をぬぐうハク。何となく気おくれが残っている。部活の間は特にそうだ。
「すごいね、コーチ」
「……ああ、うん」
「バトンの半径が身体にしみついてる感じ」
そんなふたりのところにニッコリ笑ったノアが近づいてくる。手にはスポーツドリンク。
「はいこれ、水分はこまめに補給してねー」
「ありがと、ノア」
「ハク、調子よさそうだね」
「そお? なんかもー全然余裕ない。ギリギリすぎ」
「いいことじゃない」
アムが穏やかに言う。
「いやもう、わかってるって。ちゃんとがんばるって決めたから」
ハクの大仰な表明にアムは軽く笑った。
そんなふたりを見て、うんうんと頷くノア。あ、という顔になって、
「ところで、やっぱり首輪はお揃いなんだね」
と言うと、先ほどのよい雰囲気は消し飛び、ふたりは渋面になった。
「ぐっ……」
「新調したんだね。なんか高級そう」
「ぐぐっ……」
絶句するしかないふたり。
と、がしゃーんとガラスの割れる音が響いた。
部員全員が振り向くと、ぼりぼりと頭をかいている神谷が斜め上方を見上げている。
リズムに乗っていたところで思わずエーリアルのターンに入って、バトンを投げ上げたらしい。
「やっべ……」
神谷にも“高級そう”な首輪がはまっていて、夏の日差しを照り返している。
☆
温泉旅館たちばなの門前の掃除をしている大妖である。
……「掃除をしている大妖である」もないもんだが。
アユイもそろそろ幼稚園から帰ってくる時間だったが、いつものように幼女でもできる仕事を割り振られ、六人で掃除していたのだった。
キリが退屈してあくびをする。
「なんであたしらがこんなことやんなきゃいけないんだよ~」
「うるさいぞ。口ではなく手を動かせ」
さすがにトウマは箒の扱いが達者である。本人にはどうやら禁句らしいが、いずれも“掃除”するには変わりはないわけだし。
「真面目ですねぇ」
ちり取りを地面に押し付けたメイが、だるそうにトウマを見上げた。
「当たり前だ。掃除をすれば心も引き締まるというもの」
「お前そんなに肩肘はって疲れないのか?」
ヤミは門柱によっかかって液体化しそうなほどでるんでるんである。
「貴様こそ、すこしはしゃんとしたらどうだ?」
トウマはあくまで掃除モードである。
「そろそろおやつの時間かなぁ」
全然聞いてないマナ。
「あと十分で三時だ。それまではきちんと働け」
「……湖緒音大福がいい」
カノンも聞いてない。箒さえ持っていない。
「貴様らいい加減にしろ!」
トウマが仁王立ちして声を荒げたところに、向かいのポチの家から高賢が出てきた。
作務衣姿がことのほかよく似合ったじじいである。
「お主ら、そうしておるとただの幼女にしか見えんな」
「そうか。何かしたら速攻で警察かけこむからな」
ヤミが眉根にしわを寄せて笑った。
高賢が胸を張る。
「安心しろ。わし、ようじょには興味ないし。千年前の姿ならまだしも、小生意気なようじょなぞこっちから願い下げだ。せめて従順で素直で、『おじいちゃんっ(はぁと)』とすり寄ってくれば愛でてくれようものを」
「宿曜道は変態じゃないと使えない決まりでもあるんですか?」
メイが汚いものをなるべく見ないように横目でつぶやく。
「そうだ」
「ほんとに終わってるね」
マナは面白そうに笑っている。
「嘘だ」
「殴っていいか?」
キリは拳に息を吐きかけている。
「ぶたれたい」
「このブタ野郎」
トウマが箒を構えた。
「たまらんなぁ」
「で? なんの用?」
カノンが呆れて口を挟む。
もう宿曜道は変態の巣窟ということでいい。
「ふむ。思ったよりとり乱してはいないようだな。法術は強靭な精神力より出ずるもの。さすがは大妖、と言っておこう」
笑いを収めて高賢は軽くため息をついた。
「飢饉も戦乱も知らぬ現代の術者と比べれば当たり前」
カノンが澄ました顔で言った。もちろん高賢に対する皮肉のつもりだろう。高賢が苦笑する。
「それで、私たちに何をさせる気?」
のぞき込むようにしてカノンが続ける。
「んん? どういうこと?」
キリが首をかしげる。キリ以外は同じことを思っていたようで、それぞれが高賢を見つめた。
「わざわざ私たちの封印を解いて、姫様の霊まで引っ張ってきて、何も意図がないはずがない。しかも新しい封印は今までのものより、ポチ君と強くつながってる」
「同感だな」
トウマは高賢を睨みつけていた。
「貴様ら、何を企んでいる?」
高賢は全員の視線を受け止め、真剣に見つめ返した。
ややあって、軽く肩の力を抜いて笑った。
「七人衆に願いの儀がある。これは……げっ!」
登場以来初めて真面目になった高賢だったが、たちばなにゆるゆると近づいてくる白いベンツを見て奇声を上げた。
高賢と七妖の前で、エンジン音とタイヤの存在を感じさせないでベンツが止まる。
後部座席の濃いスモークガラスがすーと開き、中から白い総髪の老人が顔を出した。
かなり痩せているためであろう、もともとの吊り気味の眼がかなりきつく見せていて、特徴的な鷲鼻と尖った耳、不機嫌そうな口元、総合して当然好々爺が出来上がるわけもなく、老獪そうな悪相を持った老人が高賢を見つめていた。
「うう……げー」
「久しいのう……高賢。だいぶご挨拶な反応じゃの」
老人は鴉葉玄勢という。にやりと笑った悪相はいよいよ悪人に見えた。




