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幼なじみに首輪をつけるのもやむを得ない……っ!  作者: 真野英二
第1話 「椰魅<ヤミ>または橘 栢都について」
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 わずかな光さえない、漆黒の闇である。

 音もない。

 静止した時間と空間。


 この世にあるものは、光を反射することで輪郭を、そして実存を主張する。

 人は、それらの「影」を認識することで自分の位置をようよう把握しているに過ぎない。対象を見失えば、たやすく自分の位置を見失う。

 試してみるといい。

 人は、地面さえ見えない暗闇に立ち尽くしていると、平衡感覚さえ失い倒れ伏してしまう。いや、その前に立っていられるつよさを褒めるべきか。ほとんどのものは恐怖に耐えきれず、座り込んでしまうだろう。

 そのまま。

 そして、そのまま放置されていれば、人の精神は容易に傾く。

 認識が止まってしまう。

 感情も概念も人の顔も思い出も、全て置き去りにされてしまう。

 ついには自分さえも手放してしまう。

 試してみるといい。

 その中で、自分の鼓動を数え続けられる強靭さのみが、彼我の差を認識し続けられる唯一の方法である。


 そういう闇の中に、ハクはいた。

 夢だとわかっていた。

 嫌な夢見だった。

 昔よく見た闇が延々と続く夢だ。トラウマになりかねない重さ。

 その圧倒的な闇の巨大さと同じだけの恐怖に襲われ、身動きもできずに震えるしかない。夢の中なのに酸っぱい汗の匂いを感じるような気がするほどだ。

 なぜか両手の親指を隠すように握って、荒い息をつきながら思うのは、早く目が覚めてくれないか、ということばかりだった。

 ――だが、今日はいつもと違っていた。

 闇の中に突然、篝火かがりびが生まれた。

 正面にひとつ。

 その両側、こちらにゆるく向かった弧線上に、すい、と篝火が等間隔に生まれていく。

 思わず目を細めたが、予想した明るさではなく、多くの篝火が焚かれてもなお薄暮はくぼのような明るさで、ハクは少し息をついた。

 光で安心したのもあるが、単純にそれは美しかったのだ。思わず見とれるくらい。

 不意に――。

 薄暮が届いていない正面の篝火の向こう、奥の闇から「浮かび上がるように」白い小袖姿の女が現れた。

 服の上からでもわかる均整のとれた肢体、彫の深い顔立ち、奥深い色をした瞳。

 栗色の髪を軽く振って、闇の粒子をさらさらと身体全体から流れ落とす。

 女は満足そうにため息をつくと、遠くを見遥かすようにしてその美しい唇をなごませた。


 ハクは背筋に戦慄が走るのを覚えた。

 恐怖や嫌悪ではなかった。

 美しさにでもない。

 ただ、衝撃だけがハクの脊椎を揺らしていた。

 理由はうまく言えない。

 人が時にもつ「繰り返しをいとい許容範囲の変化を求める心根」をハクは嫌いだった。だから、毎日を丁寧に生きることを自分に課していた。

 けれど、その女はそういうままごとのような日常の決め事を全て吹き飛ばすような、明らかに次元の違う何かをまとっていた。

 確実に、不可逆に、自分の日常は壊される。

 一瞬でそれだけは確信できた。

 頭が拒んでいても胸落ちしてしまった。


 恐怖ではなく、唐突な喪失感に茫然としているハクを一顧だにすることなく、女は背から三尺ほどの棒を取り出した。

 気がつくと、白いと思っていた女の小袖には、奇妙な文様もんようが見える。

 渦のような、四角のような、直線のような曲線のような。

 す、と女の両手が棒を捧げるように止まった。

 棒の両端には金色の装飾が施され、棒全体に小袖の文様のような彫刻が見える。

 転瞬てんしゅん、女は片手で棒を器用に回しながら自分も回り始める。

 回転の勢いのまま投げ上げる。

 女は棒を眼で追うこともなく、回転しながら円を描くように回り込み、落ちてくる棒を受け、その勢いを殺さぬまま、剣舞のように棒の片端を持って振り抜く。

 変化の際にわずかに生じる止めの動作が美しい。

 内部の筋肉を鍛えていなければできない、達人といっていいレベルだ。

 女はゆっくりと型を最初に戻し、再び棒を回し始めた。今度は両手。

 回っていた棒を一瞬止め、背中から自分の身体を空中で一回転。

 着地と同時に間髪を入れず、再び棒を高々とほうり上げる。


 ハクは見入っていた。

 姉の円樹えんじゅより幾つか年上といったところか。

 ほとんどの女がため息つく胸と腰と伸びやかな身体、見たことのない難しい踊りとそれを達成する運動能力に、西方には見ない線の細い彫の深さ、意志的な眉と何より瞳の強さ。

 獰猛どうもうな肉食獣が持つ圧倒的な美しさを体現したような女だ。

 見ている分にはいい。

 けれど、その「鬼姫」に恐らく自分はかかわらざるを得ない、どうしようもなく不吉な予感が胸の中心に育つのを感じていた。



          ☆



 「やめてくれよおい……もう少しいい夢見をね……」

 ハクは半分寝たまま、ベッドに上半身を起こしていた。

 今にも眼が閉じ二度寝しそうな気配。

 が、目覚まし時計が鳴り響く直前の、ン、という音に素早く反応して、アラームのスイッチを掌でべし、と叩く。

 目覚まし時計は存在理由を否定されて不服そうに黙り込んだ。

 朝の五時半。

 時計の針の角度を少しだけ恨めしそうに眺める。

 「この時間……これな、じんけんじゅうりんだね……」

 呪文のように呟くと、のそのそとハクは起き出して身支度を始めた。


 スニーカーの紐を結んで立ち上がる。

 ハクの足は右足が少し小さい。靴を履くときにだけ意識する。

 踏み切る足は小さくなる、と神谷コーチが言っていたが――ハクは足だけ左利きだ。手は右利きなのに。

 皆と同じ演技をするには利き足で踏み切らなければならない。それがここのところの朝練での、ハクだけの課題。サブチーフになって前列でバトンをふる以上はしかたがない。何よりシンクロが優先される。

 トントンと右足のつま先を地面に打ちつけて位置を直して、姿見の前で左足で踏み切ってくるりと一回転する。もう二ヶ月も毎朝の儀式だが、それでも微妙な感覚的なズレが残る。

 ハクは軽く首をかしげてから、頬を両手で軽くはたく。

 「うしっ!」

 壁掛け時計が六時を指してるのを確認して、バッグと長いバトン用のケースを肩にかついでハクは扉を開けた。


 「温泉旅館たちばな」の朝は早い。

 台所方は港での仕入れを初め四時頃から稼働しているし、温泉は二十四時間かけ流しだから五時には開けている。

 五時半に起き出すのは、実は遅いほうである。

 ねぼすけの円樹が最も遅いのが常だ……まあ、彼女は夜の宴会担当だけど。

 宗教団体が目白押しの湖緒音町には旅館は四軒あり、「たちばな」は一軒だけ中心部から離れて山ぎわにある。他の旅館が宗教関係者で日々埋まっているのと比べて、ほどほど、といったところか。

 位置的に悪いことと――温泉があることがいけないらしい。

 本山に修業に来たのに温泉につかるなど言語道断、と一度広間で髭のおっさんが、大のおとなに説教をかましているのを見たことがある。偉そうだった。

 温泉は罪である。

 残念である。


 「たちばな」はそれほど大きくないと言っても、客室は和室が五、洋室が三、総収容人数二十八人、これを主に母親が中心となって計十人でまわしている。母と円樹、叔母と従姉妹にあたるあやいと姉妹、はとこにあたる瑞穂みずほ、台所が三人……あと、あ、父。

 母と叔母がそもそもよく似ているので当然と言えば当然なのだが、女性陣はみな容貌がよく似ている。鼻筋が通った線が細いキレイ系。

 母と円樹はにぎやかだが、ひし百合ゆり家(叔母の姓だ)の絢・緒姉妹は穏やかなタイプなので、そのまま男どもが夢見る大和撫子というか。みな背が高いのでスレンダー系に見えるけど着やせしてる――あれだ、脱ぐとすごいんです。特に緒ちゃんはスゲー。マンガレベル。

 ……こういうの、なんでか坊主がひと目で見抜く。和服レーダーでもあるのか。

 で、これも、宗教関係者があまり来ない理由だ。

 他の旅館と違ってキチンと料理を作り、さばきまくる母のおかげで客室は清潔、おもてなしは万全、係員は全員美人。

 修業に来てるわけだし、そんなところに泊まれるわけもない、のだ。

 おもてなしは罪である。

 美人は罪である。

 残念である。


 そんなわけで、旅館としては申し分ない「たちばな」だが、客入りはそこそこ。

 宗教関係者ではなく、観光含みで竹細工の人間国宝を訪れる人たちの定宿になっていて、湖緒音町の恩恵はあまり受けず、ゆるゆるとやっているのだ。

 「あ、すいません」

 勝手口から出て庭にまわったところで、お客さんと鉢合わせして会釈。

 が、相手は頭までフードをかぶったまま無言で、顔も見えない。かすかに頭を下げたような感じがしたが、あまり見てはいけないのかもしれない。相手は立ち止ってハクを見ているような視線が感じられたが、ハクは足を止めない。


 めったにないのだが、実は「たちばな」にも時々宗教関係者が泊まることがある。

 ふもとの旅館はやはり経済力がある団体が押さえることが多いので、信者数が少ない人たちが祭事をする際には、あぶれてしまうわけだ。あぶれた人たちは、コンスタントに「たちばな」に泊まることになる。

 そういう方々は、なんというか、ちょっと、少し、不思議だ。

 昨日はハクも宴会を手伝ったのだが……いま泊まっている人々は、宗教団体というよりサークルぽくて、いかにもな階級などもない風だったのだが。

 夜の宴会なのに、料理に要請されたのが「できるだけ手を入れない」。

 さすがにご飯を炊くのは許してもらったが、最初は「生米を出してほしい」と言われたそうだ。

 野菜も刃物で切らず火を入れずドレッシングもなく、魚も刺身だけ。

 調味料は塩のみ。

 お酒は徳利に水を入れてほしい、と持ち込んだ清められた水。

 うお。

 どこのアーミッシュだそれ。

 時々に膳を運びこんだのだが、宴会のはずなのに静か。

 わずかに低い話し声が聞こえてくる時もあるが、大体それを繋ぎ合わせると、どうやら間もなく世界は終末を迎えるので、別れの宴らしい。

 それどこのマヤ暦。


 「たちばな」と見事な行書で書かれた板の門をくぐると、前の道は下り坂になっている。湖緒音高校は大体歩いて十五分というところ。

 向かいの古い和風家屋から、あくびをしながらポチが出てきた。

 「じんけんじゅうりんだ……」

 起き抜けで寝ぐせのついた頭を撫でつけているが、見当違いのところを撫でている。左手にはバケツを持っていて、中にタワシと雑巾、短めのモップ。

 ポチの身長はハクより少し高いくらいだ。高校に入ってようやくハクを追い越したが、残念ながらこの先の伸びしろは見込めそうにない。毎年伸びている身長が減ってる。

 中肉中背で少し猫背、造作はあいまい?という形容がぴったりで、とりあえず眼と鼻と口は揃っているが、油断し続け過ぎるとこういう顔になる、とでも言うか。この年の男子は自意識過剰くらいがちょうどいいんじゃないのかねキミ?

 なんというか、これが幼なじみかと思うと、ちょっと何か恨みたい……ましてや、昔は憎からず思ってたなんてもう黒歴史扱い。誰にも言ってない。

 「おう、ポチ、おはよ」

 「あー、ハク。おはよー」

 ポチがハクに気づいて、しょぼしょぼとした眼を開けた。

 「早えな。バトンの朝練?」

 「うん。うちきっついんだから」

 「大変だなあそりゃあ」

 「アンタもね。掃除行くんでしょ」

 ポチがバケツをひょいと持ち上げてみせる。

 「お堂の毎日の掃除はオレの仕事でありますよ。行かないとじい様に殴られる。オレの背が伸びないのも頭を叩かれ続けたせいだし」

 ハクは興味なさそうに聞いてから、山の中腹を指差した。

 「よし、ピカピカにしてこい。舐められるくらいに」

 「おえーす。動物園か」

 ハクは笑って、

 「じゃーねっ!」

 言うなり、坂を駆け下りていく。

 「おう、またな」

 ハクが消えたあたりに一拍遅れて返事をするポチ。

 いつもの光景である。



          ☆



 湖緒音町は山と海に挟まれているような町だ。

 川はウォータースライダーのように山から海へ流れ込み、その隙間を縫うようにして小さい橋と石段がいくつもある。

 ハクは通学路の最後の石段を一段飛ばしに駆け下りて、湖緒音高校の一本道に入る。

 まだ誰も登校していなくて、少し遠く、校門の近くにふたり見えた。間違いなくバトン部の部員だ。

 「おはよっ! ノア、アム!」

 「うはよう」

 「元気だねハク」

 半分寝たまま返事をしたノアは、長身でバトンチームの後列の中心だ。

 咲本さきもと乃蒼のあは地方選抜チームに選ばれるほど優秀で、演技の中では時にチーフより重要な役割を果たさなければならないのだが、なんだかいつも夕方まで眠そう。本人曰く、夜な夜なニューヨークを救ってるらしいが、ハクはゲームをやらないので詳しくは知らない。

 彼女はモテる。特に後輩の女生徒に。同じ中学だから知ってるけど、バレンタインデーには、学年一人気の男子よりチョコレートをもらっていたはずだ。それも本命の。

 アムは朝川あさかわあゆむ。彼女はレギュラーではない。ハクから見ても……正直バトンに向いているとは言いにくい。背もそれほど高くないし、腕と足が肉感的。バトンはどうしても決めの時に手足を伸ばすので、リーチがないと美しく決まらない。

 彼女は恐らく三人の中で最も熱心に練習をしている。バトンが好きだからしようがない、とアムは言う。実は、内筋の強さで言ったら彼女が最も美しく決まるのだが……望むものが得られるとは限らないね、とも彼女は言う。

 彼女もモテる。

 ノアと違って、アムは男子からモテる。

 うん。

 もし自分が男だったら、アムを彼女にしたいかも。

 若干むちっとした身体、垂れ目で穏やかな印象、相手を否定しないで限りなく柔らかい気遣いをする――理想的な彼女。

 普通の気遣いではない。

 それまで、ハクは「気を使う」というのはアピールするためのものだと思っていたが、アムに会って初めて、「気を使う人というのは、気を使ってると相手がわからないくらい気を使う」ということを理解した。

 よくできるな、と思う。

 自分にはとてもムリ。

 当然、アムには誰もが心を許すので、まあ、モテるわけだ。

 ちなみに、「ふたりともモテていいな」と言うと、ふたりから「○○から指突っ込んで奥歯ガタガタにすんぞ」「苦しんで死ね」などと言われるが……自分は嫌われてはいないが、好かれてはいない、と思う。

 たぶん、どこかしら距離を置かれるような何かが自分にはあるのだろう。


 「しかし、朝練はしんどいねえ……ノアさんアムさん、あたしゃあ夢の中でもバトンですじゃよ」

 「ああ、ハクさんや、あしもよくあるですよう。夢の中でもロールするんですよ~」

 「どこのばあ様だ。バカなこと言ってると着替えできないよ?」

 たしなめるのはアムだ。まとめ役でムードメーカー。

 「バトンの呪いですじゃあ~。あしらはバトンに食われてしまうのじゃあ」

 「アムさんや、あしはもう歩けませんぞ。あしのことはほっといて……」

 「るさいな。早く行くよ」

 アムが、ハクとノアの背中をバシッと叩く。

 「またもー、アムはせっかちだなあ! て、やべー、着替え着替え」

 時計を見ながら、三人は校門をくぐり、左奥の体育館へ早足で向かった。

 更衣室は、朝練の直前には空中で着替えしなくてはならないほど混みあうのだった。






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