その8
「……ったく、油断も隙もないっていうか」
山奥を下った麓にあるので、半日以上の時間はかかる。
昼前に出て来たはずなのに、時刻は一日の半ばを過ぎていた。
甘斗からすれば輪廻は考えなしに見えるし、楽浪についてはただの変人だと思っている。
(相手の気持ちを考える――か)
けれど、その中にもひとつくらいは役に立つことがあるのかもしれない。
難しそうな顔をしている甘斗に、綾目が首を傾げた。
「どうしたの、甘斗くん?」
「あ、ああいや、なんでも。同居人がちょっと気になること言ってたなあ、って思って」
こうやって二人で話すのは三回目。そして、甘斗がこの家を訪れたのは今日で三回目。
薬を届けるという名目で家の中にうまく入り、綾目とも話すことができているのはちょっとした幸運だった。
「甘斗くんは先生のところに住んでいるのよね。家以外の所で暮らすってどう? 楽しい? 周りに知ってる人がいないのは寂しくない?」
綾目は微笑んだ。相変わらず包帯は取れないが、このところ体調が良いのか、甘斗が来ると起き上ってしばらくの間は話ができるほどだという。ひどい時は一日中寝込んでいるというから、たしかに大進歩である。
ということは、やはり鈴代は優れた医師なのだろう。調子に乗るから、本人には絶対に言わないが。
甘斗は大仰に嘆息した。
「実家も、あんまり居心地良いって言えませんでしたよ。修業って名目で体よく厄介払いされただけですし。ただ腕だけは良い色情魔とか世話の焼ける姉弟子とか自称神さまの変人とかの面倒見ずに済んだだけ、マシですけどね」
「ふぅん」
綾目はふふっと笑った。内容とはうらはらに甘斗の口調はとても楽しげだったから。
甘斗はむずがゆそうな顔をした。見透かされているのがわかっていて、それでも笑ってくれる。この笑顔を見ると、どうしていいのかわからなくなる。
器に飾られた花が目に入った。
「あ、花。また新しく作ったんですか?」
「そうよ。こんな身体でも、待ってる人がいるから」
病床にあった生け花。後で聞いて驚いたが、あれは綾目が作ったものらしい。
大きな花を使い、艶やかで華やか、というな金の匂いがするものではなかった。
控えめで、場に溶け込み、まるで部屋の一部みたいにしっくりとなじむ。
だから、甘斗は綾目の手による花が好きだった。
ふと思い出して、甘斗は懐から紙の束を出した。
「あ、そういえばこれ、お兄さんから」
「本当? ありがとう。届けてくれて」
病気になってから家族とも文のやり取りしかできないらしい。奇病だから隔離するものなのだろうが、いくらなんでもやり過ぎではないだろうか。
以前に聞いたところ、綾目は医師とお付きの女中としか会ってないらしい。だから、こうして文や言付けを甘斗が取り継ぐこともあった。家に出入りして原因を探るように、という師の作戦が成功しつつあるようで、複雑な気分だったが。
文に目を通している綾目を盗み見て、愛されているんだなぁ、と甘斗は納得した。
綾目は優しくて、かわいくて愛らしい娘だし、誰からも好かれるだろう。
実際に自分だって……と思いかけて、慌てて首を振って邪念を追い払う。
男女が――特に年頃の男女が一緒に過ごすことなど許されるわけもない。
それこそ、女の子を泣かせるのと同じくらいにいけないことだと分かっている。
「甘斗くんは、好きな人っている?」
――なんてことを考えていたから、次の綾目の言葉に、甘斗は大いに動揺することになってしまった。
「ぶっ。ど、どうしたんすか、急に!」
咳き込みかけた甘斗に、綾目は少し寂しげに首をかしげた。
「わたし、もう少しでお嫁に行くから、恋愛ってどういうのかなって思って」
「…………え?」
「お父さまは、嫁入り前の娘が病気ってことを他の人に知らせたくはないみたい。だから、こっそりお医者さまを呼んで治そうとしたけど……結果はこの通り」
ぱきり、と小さな音がした。綾目の手元で花の茎が折れている。
「わたしは、もう治らないのかもしれないって思ってる」
「そんなこと――」
ない、と言いかけて、後が続かなかった。
師でもなく、修業中の甘斗が保障できるわけがない。
「わたしは、それでもいいって思ってる。そうしたらお嫁に行かなくてもいいから。ね?」
綾目はかえって甘斗を励ますように言った。
大きな屋敷を出ると、辺りは薄暗くなり始めていた。
町にある家々からあたたかな夕餉の匂いがする。
立ち止まっている間に、時ばかりが通り過ぎていく。
「くそ……」
甘斗は手の平を握りしめた。