その7
ちょっとやり過ぎたかな――と思いつつ、これでやっと本が読める。
甘斗は改めて古びた本を開いて――
「いけませんねえ」
「!?」
今度は目の前から聞こえて来た声に甘斗は肩を震わせた。
この、悪寒がするような声は……
「女の子を泣かせてはいけませんよ、坊ちゃん。古今東西、ありとあらゆる古籍を紐解いて見ましても結局最後に勝つのは女の涙と新兵器。何せ手ひどく女性を袖にした男が犬に蹴られて死ぬというまさしく奇怪な呪いもあるほど。これぞまさに世界の掟、逆らえない原理。というわけで、女性には優しくしましょうね。何せ、輪廻さんが機嫌を損ねると、最後は私に被害が……ごにょごにょ……なのですから!」
まるで歌うように長く、人を食ったかのような冗長な口調。
言いながら、軒の下から立ち上がった人物に、甘斗は悲鳴じみた声を出した。
「ら、楽浪さん!? いつからそこにいたんすか!」
長身痩躯、髪には白髪が半分ほど混じり、顔には笑っているように目を細めた白狐の面。夏でも冬でも着ている白い単衣がどことなく黒く煤けている。ここだけで一見せずとも変人奇人の類ということは分かる。彼は自称家を守る屋敷神の楽浪であった。
楽浪は面の下から、ひょうひょうと答えた。
「いえ、どうもこの家に鼠が不遜にも住み着いたようでして。退治をばと勢い込んで潜ったはいいものの、脱出するのに小一日ほど掛かりまして、つい先ほど自由の身となったというわけです。誠心誠意、嘘偽りはございませんよ」
「どんだけ一軒家で迷ってるんすか? つーか、むしろ嘘であってください」
甘斗は呆れて、ついつい脱力しそうになった。どれだけツッコミを入れても無駄なことは知っているからだ。
「じゃあ俺と輪廻さんの話は聞いてないんすよね?」
「いえそこは一字一句漏らさずに記憶しておりますが。坊ちゃんも、意外にお子様らしいところがおありなのですな。ほうほうほう」
「なんでですか!?」
甘斗の非難の声など気にした様子もなく、楽浪はのんきに変な笑い方で笑っている。
と、ちらっと顔――は見えないので面を古書に向けた。
「な、なんすか」
思わず甘斗は気圧された。この表情がわからずに何を考えているのか想像もつかない変人がどうにも苦手であった。
「ほうほう『本草綱目』『傷寒論』と病の基礎基本の古典書に混ざって『女性の気持ちを悟る法』? かような希少な古書物がこの屋敷にあったこと、私もとんと知りませなんだ。この埃の跡からすると、よほど懸命に蔵の深くから探し求めたものなのでしょうな」
と言うと、開いていた本をぱたんと閉じてしまった。
師のせいで奇行には慣れている甘斗も、さすがにむっとする。
「何するんすか」
「おやおや、何も何も。こんな本などで人の気持ちが、ましてや女性の気持ちなど分かるものでございましょうか? いえ、そんなことは西から陽が昇ってもありますまい。いいですか――」
楽浪は深々と嘆息した。そして、人差し指を立てた。
「女性に好かれるためには、まず女性の気持ちを理解して差し上げることでございますよ。強い男であるよりも、優しい男であれ。自らの誇りを固持する男より、傍で悲喜を分かち合う男であれ。さようならば自然と女性も惹かれていくことでしょう――ちょうど、ヌシ様が良い例でございますな」
「……なるほど」
甘斗は思わず感心して呟いてしまった。
師である鈴代は強さとは無縁である。葦か草みたいになよっちい。まず腕力もなくて喧嘩になるとすぐに逃げる。けれど女性にはなぜか人気が高い。
そういうものなのだろうか。
「それはそうと――」
一段低くなった声音にぎくりと甘斗は身体を強張らせた。
まずい、と思った次の瞬間には、楽浪は息巻いてずいと寄ってきた。
「どなたか想い人でもいらっしゃるのですか? ええ、坊ちゃんの恋路はこの楽浪にどーんと任せて、大船泥船宝船、いいえ極楽船にでも乗ったつもりでいてくださいま――」
「あ! もうこんな時間すか!? オレ、そろそろ出かけなきゃいけないんで! 明日には帰りますから先生にはそう伝えておいてください! じゃ!」
と早口に告げて、甘斗はさっさと家の奥へと引っ込んだ。
どたどたと廊下を騒がしく走る音がするから、恐らく本当に出かけるつもりなのだろう。
一人残された楽浪は、しんと静まり返った部屋で顎を撫でる。
「ふうむ、逃げられてしまいましたな。ほうほう」
白狐面が可笑しげに笑う下、本当の表情は知れない。
けれど、今はうっすらと目を細めているだろうことが読めた。他人の弱みを探るような、それはもう人の悪そうな声音であったから。
「……あやしい」