その5
「胃や腹、身体の要所に水が溜まって柔らかい。表皮は湿潤。表面は冷たくて底には熱を持っている。舌はむくんで歯の跡が残る。その他症状は多種多様と」
商家の主には、呼んだ医師のために別に用意していた部屋があったようだ。
噂だけで、ほとんど名の知れていない鈴代を呼ぶのは、恐らく半信半疑だっただろう。流行りの医師ならばここで診察代や薬代の他に、旅費や弁当代まで請求しかねない。
それで治らなかったのだからお笑い草で、だからこそ今度は流行りでない医師を呼んだのかもしれない。茶も出てこない様子で、甘斗はそう思った。
鈴代は淡々と事実を述べていく。最後に、さすがに苦い顔で結論を出した。
「つまりは、まぁ――生きながらにして腐ってるっていうこと」
「うわあ……」
甘斗はそれきり、何も言えなかった。
言う方も聞く方も気分の良いものではない。食べ物ではあるまいし、生きている人間がそのまま腐るだなんて。普通では起こらない。
「ていうことは……」
甘斗がつぶやくと、鈴代は頷いた。
「たぶん物の怪だと思う」
「たぶんって何ですか?」
「完全には言い切れないから。身体に起こる現象だけ見れば普通の病かもしれないし。これで腐敗さえなかったら、水毒って言えるのになあ」
と言って、鈴代は頬を掻いた。
水毒というのは病の大きな原因のひとつである。何らかの身体の不調から身体に余分がな水が溜まる、その反対に水が乾き、全身に不調が起きるというものである。留まる水はやがて腐る。たしかに症状的には、それを大袈裟にしたように見えるが。
鈴代はさらに首を捻る。
「第一、そうなる原因が思い浮かばないし。家は裕福で何の問題もなさそうだし、両親や周りの人間との関係も健全だし。彼女の口からあれこれ聞いたけど、物の怪が近づくようなことはなかったなあ」
うーん、と鈴代は首を傾げている。大真面目に物の怪について考えているのである。
他の人間が見れば笑い飛ばされそうな話だ。だが、物の怪と聞いて鼻で笑っていた甘斗がそれを知ったのは二カ月とちょっと前。鈴代に弟子入りしてからだった。
物の怪とは、人間に悪さをする怨霊、妖怪、悪霊の類――では、実はない。目には見えないところは同じだが、本当は誰にでも起こり得る現象のことだった。
原因不明の奇妙な症状、奇妙な病のことを『もの』、つまりは目には見えない霊が起こすようだから物の怪の病と呼ぶのだった。
考え込んでいると、鈴代が頬づえをついたままでじーっとこちらを見ている。
甘斗がはっとしたと同時に、鈴代はにんまりと笑った。
「んじゃ、おさらいしてみようか。うん、ガリ勉の甘斗くんならきっと答えられる!」
「マジすか? ここで? ていうか、オレのことバカにしてませんか?」
「してない、してない。さ、さ、言ってみてよ」
甘斗は痛恨の表情を浮かべる。ろくにものを教えない割に、こうやって人を試すのが大好きな師なのである。
逃げられそうにないことを悟ると、甘斗は諦めて目を閉じ、思い出しながらつぶやいた。
「一つ。物の怪は、人の心に憑く」
「ふんふん」
妙に楽しげに相槌をうつ師を思わず殴りたくなるが、それは我慢する。
度を超えた怒り、悲しみ、時には喜びや楽しみ、それが物の怪の原因となる。大半は他人への恨みや憎しみ、身近な人を失った悲しみから病になることが多い。それが妖怪や悪霊の仕業と言われる理由であった。いわば、心の病が身体へと現れるのだ。
「二つ。物の怪は、人から人に伝染る」
「ふんふん」
物の怪になった人は、初めはただの病のように思えるが、徐々に奇妙な症状が現れ始める。それが悪化すると、周囲に奇妙な現象が起き始める。接触した周りの人間も病にしてしまうのだ。
綾目の場合、そこまで騒ぎが大きくなっていないことから、そこまで重症ではないのだろうが……
「三つめ。物の怪の病は普通の方法では治らない――こんな感じですか?」
「ふんふん」
物の怪は心の病だと先刻述べた。
反対に心を治せば病は快癒することが多い。それは普通の病気と同じだ。けれど、その原因を見つけられなければ、いくら高価な薬を使って治療しても治ることはない。
表面上は何をしても治らないように見える厄介な病なのである。
言い終えた甘斗が顔色をうかがうと、鈴代はにっこりと笑った。
「うん。だいたいは合ってる。よく勉強してるねー、えらいえらい」
「ちょ……やめてくれません!? オレ、もう子供じゃねえし!」
頭を撫でようとする鈴代に、甘斗はむくれた。子供扱いされるのが気に食わないのだ。しかし、手を払わない辺りはまんざらでもないのだろう。
「うんうん。だから、彼女の病の原因がわかればどうしようもできるんだよねー。両親的には彼女のことを目に入れても痛くなさそうに大事にしてるから」
ふと、鈴代の声の調子が変わる。甘斗がまずいと思った時にはもう遅かった。
「というわけで、彼女のことはよろしくね。僕みたいなイケメンだと気を使っちゃうだろうし、同年代の甘斗の方が何かと聞きやすそうだ。この家の人には薬を届けるっていう名目で伝えておくから、三日おきくらいに会いにくればいいでしょ。うん、完璧」
「いや、ちょっと待って下さいって! なんでオレが……」
文句をつけようとすると、鈴代が真顔になる。
「甘斗、これは大事な修業なんだ。いついかなる時も患者の状態を把握し、適切な対処法を見つけるというのは医師にとって必要なことだよ? もちろん、仲良くなることもね。両者共に心を開いて話して、初めて解決法が見えてくることもある――かもしれない」
「……それっぽいこと言ってるつもりでしょうけど、最後で台無ですよ」
自分に酔っているらしい師に、甘斗は半眼で告げた。それからため息をつく。
「まあ仕方がないし――やりますよ。どうせ最後にはやることになるんだし」
鈴代がぱちくりと瞬きした。
「あれ? 今日は聞き分け良いじゃん。どうしたの、何か変なもの食べた?」
「なんでそこまで心配されなきゃならないんすか?」
真剣に顔色を診ている鈴代に冷たく返しながら――
つまりはお使いである。薬を届けることも弟子の役割のひとつだと思ったからだ。
何より。
甘斗も、あの綾目という娘に会うことができて、そこまで悪い気はしていないのだった。