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その4

 甘斗は廊下の端に腰かけて、ため息をついた。

 灰色の空に草木の緑ばかりが色濃く映り、元気そうに揺れる。手入れも良さそうで、どうりで緑の匂いがしたわけだと納得した。

 診察には多少の時間がかかる。診察は伝統的な四診と呼ばれる方法を使い、顔色から脈から患者本人の口から状態を聞くところまで詳しく調べる。蘭方医という外国の医師はまた別の方法を使うらしいが、あまり一般には広まっておらず甘斗もよくは知らなかった。

 雨の湿った冷たい空気を吸うと、少し気分が落ち着いた。

 綾目と対面して早々に甘斗は部屋の外に追い出された。よほどひどい顔色をしていたのかもしれない。いつもは鈍感な師の気遣いが、今はありがたかった。

本当は弟子としては師の技術を見て盗むくらいしなくてはいけないのだろうが、気まずくて中にはいられなかった。

 だから、師を待つ間、甘斗は庭に降る雨を眺めていた。病気の娘、綾目の部屋の外は、すぐに中庭に繋がっているようだった。部屋から外を眺められるように、というせめてもの気遣いだろう。

 しとしとと、細い絹糸のように紡がれる雨粒に、甘斗は深く嘆息した。これは、ちょっとやそっとの間じゃ止みそうにない。

 鈴代の弟子として付いて行った先で、奇病と言われた人を何度か見たことはある。おまけに、何度か奇妙な現象に巻き込まれたこともある。

 けれど、あそこまで異様なものは今までに見たことがない。

 毎回のことだが――病は、たかが十年ばかりの固定観念など簡単に吹き飛ばす。

人はああいう風にもなるのだ、と。

 甘斗が確かだと思っていたちっぽけな世界が揺るがされて、震えが起きそうだ。

「あなた、こんな所でどうしたの? 迷子?」

「は!?」

 唐突に声をかけられて、甘斗は飛び上がりそうになった。

 そして、振り向いてさらに驚いた。後ろに本人が立っていたのだから。

 白い夜着をまとったほっそりした身体と、そこから覗く包帯がいかにも合わずに痛々しい。さっきの、綾目という少女で間違いないだろう。

 半鐘のように鳴り続いている心臓の音をごまかすように、甘斗は慌てて言葉を紡ぐ。

「あ、えっと――い、良い天気ですねっ!?」

「雨だけれど」

「い、いやそういうんじゃなくて……ほら、植木が喜ぶような良い天気っていうことで」

 しどろもどろになって甘斗はもごもごと口ごもった。いかにも言い訳じみていることは自分でも重々承知の上である。

 と、綾目がくすりと笑う。あまり顔は見えないというのに、人間は目と口だけで表情がわかるものだと、甘斗は初めて知った。

「面白いこと言うのね。植木が喜んでるって」

へ? と、虚を突かれ、口をぽかんと開けている甘斗の横に、綾目は座る。

隣にくると、甘くて花のような良い匂いがした。この香りは彼女のものだったらしい。

よく見れば、そう年も離れていないだろう。甘斗より四つ、五つ上くらいか。

「きみ、さっき鈴代先生と一緒にいた子よね?」

「え? あ、はい。そうですけど……」

 頷くと、綾目は少し悲しげな目をした。

「やっぱり、驚いた? こんな身体、気味悪いはずだし」

「あ、ああ――っと、いや、そんなことないすよ? オレ、もっとすごいのとか見てるし。まだ軽い方すよ」

 また頷きかけて、慌てて否定する。本当は嘘だったが、とても本当のことは言えない。

 綾目は信じたようだった。安心したように表情が和らぐ。

「そう? 良かった。他のお医者様はみんな手に負えないって言ってたから」

 そりゃそうだろう。

 あれは、普通の医者の手に負えるものじゃない。尻尾を巻いて逃げていく医師たちの姿が目の裏に浮かんで、甘斗は何とも言えず気の毒になった。

「あ、そういえば先生は? 何か変なことされたり、聞かれたりしませんでした?」

「さっき診察が終わって出て行ったけど――変なことって? 悩み事とかは聞かれたわ」

「そ、そうですか」

 さすがの女好きも年下の少女には手を出さないらしい。ていうか、それは犯罪だ。

「あ、じゃあ、オレはこれで」

 藪蛇にならないうちに、甘斗も退散することにした。このご時世、若い男女が話しているのを見られるだけで何かと問題になりかねない。

それに、鈴代を放っておいたら、何をするかわかったもんじゃない。この家の女中に手を出して出入り禁止を食らう前に、首に綱を付けておかなければならないだろう。

「うん。あ、貴方の名前を聞いてもいいかしら」

「甘斗、です」

 何となく、甘斗はどぎまぎして答えた。

ただし、急に驚いた時とは違って嫌な高鳴りではなかった。

「甘斗さん。さっきの、嘘でも嬉しかったから」

「…………へ?」

 聞き返した時には、すでに綾目は灯りの乏しい部屋に戻っていた。

 軽い障子の音と一緒に後に残され、甘斗はしばらくそこで立ちつくしていた。

 綾目が残した、言葉と表情。

 それは見たことがないほどに澄んで、悲しい笑顔だった。


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