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その2


 甘斗が鈴代の元に弟子入りして、早くも二ヶ月と少しが経った。

 驚くこと呆れること、どちらも山のようにあるが、今回の原因はその最たるものだった。

 金がないのである。

 医者といえば江戸でも儲かる職のひとつである。知識さえあれば誰でも開業でき、幕府の許可も組合も存在しない。名乗った者勝ちであるから腕の悪い医者も多かったが、その分腕の良い医者の元には多くの客が入った。自然と薬代も診察代も高価になるから簡単に儲けることができる、というのである。

 その点、鈴代は変わり者を通り越して変人である。

 まず、医者というのに特定の患者しか診ようとしない。

その少ない患者は主に女性であり、自然と態度も優しくなって診察代も薬代も安くしてしまう。結果として毎回赤字が出る。

往診して手に入れたおすそ分けや奢り、駄賃で飯が食えてしまうのも原因のひとつだろう。平たく言うと女性のタカリをして生きているのである。それもこれも、鈴代の顔が整っていて愛想もよく、かつ無類の女好きという点が幸い――もしくは災い――しているのだった。

 そのせいで頑張って働かなくても、何となく生きていけてしまうのだ。

 弟子であり、真面目に働いて早く独立したい甘斗としては大問題である。

 なにせ、毎日を自堕落に過ごしている鈴代のことである。金がないと生活が苦しく、ついつい勉強どころではなくなる。そうなると甘斗が一人前になるのなんて夢のまた夢。むしろ儚く散ってしまう目算の方が強い。

 甘斗には家を出る時から――いや、その前から決めていたことがある。

 将来は堅実な職に就いて、目立たずひっそりと暮らしていこう、と。

 だから手に職を付けられる医者も悪くないと思っていたのに……



 事の発端はしごく単純で、しかも唐突だった。

 ある日、家に使いだという人物がやって来て、指定した日にこの家に来るように、診て欲しい人物がいると言い残して去って行ったのだ。

 その他には、目的も容体も何一つ伝えなかったが、望むままの報酬を約束し、このことは内密にするように念を押した。

 そして、指定した日が今日だった――というわけだ。

 隣の鈴代に、甘斗はひそひそ声で力説した。

「だから、今回の仕事は絶対に成功させてもらいますからね。何代も続いた名のある商家からの仕事だったら金払いも悪くない――ハズです。多分」

 甘斗が言葉を曖昧に濁したのは名のある家だからと言って決して裕福とは限らないからであった。現に甘斗の家はそれなりに身分のある武家だったが、あっさりと没落して苦境に陥っている。

 もっとも、この家の様子を見れば金払いは平気だろう。

 珍しい中庭には生い茂った植木がよくよく手入れされている。障子にも金糸銀糸があしらわれ美しい花が描かれている。たまに覗いた部屋には高価そうな壺や掛け軸の類が置かれていた。そもそも、この家の半端ない広さでも予想がつく。

 だだっ広い廊下を女中の先導で奥の間へと先導されているのだが、いつ辿りつくのか皆目見当もつかないほどだ。

「でも、診る相手を知らせないなんて変じゃない? これで五十か六十の爺さんが待ってたら、僕は帰るからあとはよろしく」

「帰すわけないでしょーが。つーか、医者として最悪だな、あんた」

 甘斗は半眼で告げた。

 最初こそ師に対して礼を尽くして――などと考えていたのだが、鈴代と話しているうちに頭がおかしくなりそうになったため、すぐにやめた。今では師どころか年上に対する態度ではなくなっているが、それでも鈴代は何も言わない。そこが変わり者の由縁だろうか。

「あーあ、相手がかわいい女の子だったらいいのに。そうしたら何の文句もなく診るのになあ。ついでに、僕を尊敬してくれる弟子が女の子だったらやる気出すのになあ」

「オレはあんたが急に腹痛とかにならないかなあ、と心から思いますよ」

 などと言い合っていると、ふいに女中が立ち止まった。

「……こちらです」

 辿り着いた先は、障子できっちりと閉ざされた部屋だった。



 待っていたのは人当たりの良い中年の男である。恐らくはこの家の主だろう。仕立ての良い服を着て、帯もかなり凝った装飾が入っているから、なんとも商家の主らしく羽振りが良さそうだ。さすが人を呼びつけるだけのことはある、と甘斗は鼻を鳴らした。

 主は鈴代の顔を見ると、すぐに立ち上がった。客に座るのを勧めることを忘れるということは、かなり浮足立っているようだ。

「本日は遠方からお呼び付けしてしまい――」

「いいえ、医の道に携わる以上、僕は病人の力になれるならどこへでも行きますよ」

 鈴代と家主が何やら難しげな挨拶をしているが(それにしても鈴代の心にもない麗句には多少ならず胸やけがした)、甘斗にはよく分からない。

 それよりも気になったのはこの部屋の匂い、だった。

(なんだ?)

 甘いような、それを通り越して甘ったるいような。甘さに苦みと鼻に突き刺さるような臭気を足して、ひと月ほど放置すればこういう匂いを発するのかもしれない。端的に述べれば、なまぐさい。いい匂いとは言えず、あまり嗅ぐのに集中すると頭痛がしてきそうだった。香りの良い花が腐ってしまったような、そんな匂いだ。

 匂いから意識を戻すと、主はようやく本題へと移ったらしい。

「――診ていただきたいのは私の娘です」

「え? お嬢さん……ですか?」

 鈴代は意外そうにまばたきした。本当に少女だとは思っていなかったのか、瓢箪から駒が転がり出たような顔をしていた。

 主は頷き、閉ざされていた障子の奥を示す。

「私には愚息の他に一人娘がおりますが、奇病にかかってしまいまして。江戸の名だたる医師を呼んでも、原因すらわからずに匙を投げる始末。そこで、こう言った病にお詳しい鈴代先生をお呼びした次第です」

「ふうん、なるほど」

 何度も頷く鈴代に、甘斗は言いようもない不安を覚えた。

 鈴代が診る患者は、まず女性。他には、例外的にもう一種類だけだ。

普通の病では起こり得ない奇妙な症状を持つ患者。その噂を聞けば、老若男女、どんな患者だろうと鈴代は診る。むしろ、鈴代自身が診ることを望んでいるようだった。

「わかりました。じゃあ、まずは娘さんに会わせてもらってもいいでしょうか? 実際に目にしないと分かるものも分かりませんから」

 鈴代は手を打って提案した。しかも、面白そうに笑って。

これから原因不明の奇病に立ち向かうにしては、場違いなほどに明るい声だ。

「…………」

 そんな鈴代に、主は絶句していた。

 無理もない。きっと、目の前の若造が急に得体のしれないものに見えていることだろう。

(オレもそうだし……)

 正直に言うと、この二ヶ月で鈴代を理解したとは到底言えない。原因が分からず、気味の悪い病であればあるほどに興味が惹かれるようだった。

師の正気を疑ったのも、まるで化け物みたいに見えたことも一度や二度ではない。

「娘は二つ隣の部屋にいます。どうぞ、よろしく……」

 それだけ告げて、そそくさと主は去って行った。

 後に残され、鈴代は肩をすくめた。

「あーあ、嫌われちゃった。ま、いいか。んじゃ、娘さんとご対面といこうか」

 ごく軽くつぶやく師に、甘斗が寒気を感じたのは雨のせいばかりではない。

 鈴代に弟子入りして二ヶ月と少し。

 そして分かったのは、つまり、弟子である甘斗にも理解できないということだった。


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