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その15

 その変化は静かに、そして唐突に始まった。

 鈴代がその場に突き立てた杖が震え、瞬時に床へと根を張った。

同時に枝を伸ばし、芽吹き、葉を茂らせていく。

 まるで幻のように、元は腕を広げたほどの長さだった杖が、既に若木ほどにまで成長して、屋根を貫いている。

 それが、杖が黒い霧を吸い上げ急速に成長しているのだと知り、物の怪は目を見張った。

「……っつ」

 甘斗は呻きながらも膝をついて起き上った。黒い霧の影響か、まだ寒気はするものの、動けないことはない。

そうして師の顔を盗み見た。鈴代は目を閉ざして、うねり流れ込む力を必死に制御しているようだった。突き立てた杖は巨木へと成長し、鈴代は両手を幹の中へと埋めている。

屋敷中を覆っていた霧が薄れ、視界が晴れていく。果てがないと思っていた空間は、なんてことはない、綾目が元いた病室だった。鈴代や、甘斗が立っている腐った畳からも芽が出始めている。

『ヤメロ――!』

 無防備となった鈴代に向かい、物の怪は包帯を伸ばす。少女の怨念と苦悶を乗せた呪い矢となり胸を貫く――

 だが、その活殺の槍は、部屋の半ばほどで断ち切られた。

「ふぅ、どうやら間に合ったようでございますな、坊ちゃん。そして、お早いご到着で何よりです、ヌシ様」

「甘ちゃん! それに先生!」

 刀を構える楽浪の背から、輪廻が手を振った。

『オマエハ……』

「ああ。名乗り遅れましたが私、稲荷大神の神使で楽浪と申します。私自身の名は通っていませんが、拙神はちょいと有名なんですよ? 食物の神、商売の神、そして邪のものを食らう神といたしましてね。腕だって簡単に治りますよ。何せ、私は神ですもので。ほうほうほう」

 ひょうひょうと世間話をするように言う楽浪に、物の怪は目を剥いた。

 天敵の存在を、つい先刻に生まれたばかりの物の怪も本能で理解をしていた。

 病は穢れから生じる。穢れは負の生命力とでも言うべき、死へと向かうものだ。

 それとは真逆の生へと向かう清浄な力。名は知らぬが、物の怪はそれを理解していた。

 ――そして、この杖も。

 鈴代は、すこしいたずらっぽく笑った。清々しいほど、人の悪い笑みだ。

「君は知ってる? 一番病が治しにくいのはまだ症状が表に出ていない時だ。だから、物の怪が表に出てさえしまえば、いくらでも治療の方法はあるのさ」

 言霊、というものがある。力ある言葉を唱え、その力を引き出す一種の術だ。

 それならば、歌というのはいかに力に満ち溢れた言霊であることだろうか。

 鈴代が歌うのは、皮肉にも泡沫のように消える生命の無常を詠う歌だった。

「――浅き夢見じ、酔いもせず!」

 黒い霧が消え、代わりに見渡す限りの緑翠色が視界を埋め尽くした。



 綾目は物の怪の中からそれを見ていた。

 自分が自分でないもののようになって人を傷つける、悪い夢のようだった。

 自分は、家族を、屋敷の人間を、知らない誰かを、甘斗を傷つけていた。

 黒い膜の向こうのそれを、綾目はずっと眺めていた。

 いくら止めようとしても、止められなかった。

 ――を好きになったりするから。

 こんな、他人に迷惑をかける自分が病になったのも当然のことだったのだろうか。

 そうして自分を呪い、絶望しかけた時。

 唐突に、世界が割れた。

 地面から生えた木が黒くなった自分の手足を、腹を、胸を貫いている。

綾目は暖かな光に包まれ、眩しさに目をつむる。

(神――さま?)

 神社に、道端の祠に、家に、森に、それぞれ祀られる存在。

 姿は見えないものの、いつも傍で守ってくれる存在。

 人はそれを、神と呼ぶ。


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