その14
「…………つっ――」
じんじんと響く後頭部の疼痛で、甘斗は目を覚ました。すぐに屋根から落ちたのだと思いだす。
どれくらい気を失っていたのか、辺りは視界が利かないほどに暗い。落ちてきたはずの空も見えず、今が夜か昼かもわからない。
寒い。初夏だというのに、霜が降りたように寒い。指先の感覚を忘れるほどに、寒い。それと、息が苦しい。呼吸をするたびに身体の中が錆びついていくようだった。
真っ暗な中に、ぼんやりと光るものがある。
長く伸びる、黒くつややかな髪。花の茎のように細い姿。たおられたばかりの一輪の花のようにはかなさが付いてまわる。
「綾目……さん?」
ゆっくり吐いた息も白い。
くるりと振り向いたそれは、甘斗のよく知る少女ではなかった。
『それは、この娘の名か?』
「――!」
甘斗は顔を上げようとして、そのまま床へと沈んだ。身体が重い。見えない手で、上から押しつぶされているようだった。
姿は綾目のものであるが、声は違う。もっと、沼のように濁った声だ。
『なかなかどうして、ただの人間がうまそうな匂いをさせている。ずっと思っていたよ。食ってしまいたいとな』
甘斗は身体を震わせた。
間違いない。これが綾目の中に巣食っていた物の怪だ。表に出てくるようになるまでに肥大化した病だ。
泣きも喚きもしない甘斗に、物の怪の声が意外そうな響きを帯びた。
『驚かないのだな』
「……綾目さんの中に何か違うものがいるっていうのは、だいぶ前から知ってた」
『あの師の入れ知恵か?』
師って、先生のことか。どこまで知っているんだか。
この寒さでは身体の芯まで冷えてしまう。そう長くは保たないだろう。歯を鳴らして、甘斗は答えた。
「違う。綾目さんからたまに違う匂いがしてたことがあったから。オレは人間と、そうじゃないものが匂いで――なんていうか、わかるんだよ。だから、お前がいたのは最初からわかってた」
甘い花の匂いと、苦く腐った匂い。それが、それぞれ綾目と物の怪の匂いだった。
姿は見えないけれど、身近に人ならざるものがいるとわかってしまう。
この力には昔から困らされてきた。目なら閉ざせばいい。耳なら塞げばいい。けれど、匂いだけはどうしようもなかったから。そのせいで弟子入りと称して厄介払いされることにもなった。
『ならば、なぜこの娘の親に言わなかった? いたずらに苦しみを長引かせることが、この娘のためになるとでも?』
「治す方法があると思ったんだ。物の怪になったら、化け物として殺される。オレが治してあげたかったんだよ……!」
それがとんだ間違いだった。自分の知識じゃ、そんな方法をいくら探しても見つからない。何もできず、決断もできないままに、ただ綾目を苦しめただけだった。
理由は――綾目のことが好きだったからだ。
物の怪は嘲笑した。
『残念だったな――この娘が心を奪われた相手はお前ではない。叶わぬ恋に身を焦がした末に物の怪に落ちる愚かな娘。せめて、食われることで一緒にしてやろうて。物の怪の存在を感知するほどの子供なれば、きっと力も得られよう』
ずるり、と物の怪が動いた。目には見えねど徐々に腐れきった匂いが近づいてくる。
はっきりと突きつけられた事実に、甘斗は歯を食いしばった。刺さるような冷気より、もしかしたら食い殺されるかもしれないという恐怖よりもずっと、ずっと痛い。
治らないとわかった時点で殺してやった方が良かったのかもしれない。命を奪う責任から逃れるために、本物の物の怪になるまで見て見ぬふりをしていただけなのかもしれない。そうでなかったら、こうやって屋敷の人間も、甘斗も物の怪に食われることはなかった。
けれど。
甘斗が見ていたのは目の前の物の怪ではなく、あの悲しい笑顔だった。
「それでも、オレは決めたんだ。誰がどうしたって、あんたを助けるって!」
「うん、よく言えました」
「――え?」
唐突に聞こえてきた声に、甘斗は思わず耳を疑った。
その声は、甘斗にとっては聞き覚えのあるものだった。
「医術は、とかく技術だ、金だ、薬だって、皆がしっちゃかめっちゃかに言うけれど、そんなのはどうでもよくってさ。一番大事なのは誰かを助けたい、誰かのために何かしてあげたいって気持ち。それを忘れちゃ駄目だよ」
背に向けるは鴉のように黒い羽織。どこまでも黒いはずの闇に、不思議とちっとも紛れてはいない。見るからに細くて、頼りのない姿が、今はどうしてこうも大きく見えるのか。
「せっ、せん……せい?」
それは紛れもなく、ここにはいないはずの鈴代だった。
地を這いながらも、甘斗は顔を上げる。
「家にいるはずじゃ……」
「うん。これから往診にでも言ってお茶してこようかなって思ってたくらいだから。けど、嫌な感じがしたから飛んで来たよ。よく止めた」
鈴代はぽすっと頭を撫でた。いつも子供扱いしていると逃げるそれは、今は誇らしく受け止める。
「さ。改めて、物の怪退治――花も恥じらう乙女が焦がれた、恋煩いの治療と洒落込もうじゃないか」
『貴様――どうしてここに』
鈴代は黒羽織の肩をすくめた。
「手を広げてご覧よ。そうっとね」
『っ!?』
物の怪は愕然としながら己の手を広げた。十指から、何か細い糸のようなものが伸びている。その糸を辿ると、鈴代の指につながっていた。
「気づかなかった? 袖擦りあうも多生の縁。偶然すれ違うだけでも、それはひとつの縁、って言うんだよ。つながれば最後、決して逃れられない、定めの糸だ。なーんて、これは僕の力じゃないんだけどね。しょせんは借り物の力だ。これもね」
鈴代は杖を振り上げた。
しゃん――
杖の先端に付けられた六つの金輪が震え、涼しい音がする。まるで、生をことほぎ、邪を払う鈴のように。
鈴代は歌うように言の葉を紡いだ。
「色は匂えど散りぬるを――!」
どくんっ――
その刹那、大地が脈打った。




