その12
さっきよりも少しだけ近くなった空は、鈍色の雲で覆われ、ついにぽつりと雫が落ち始めていた。
それよりも真っ黒な煙が、屋根に開いた穴からもうもうと立ち上っている。
「こりゃ――まあ、大層豪快に壊されましたな」
両脇に甘斗と輪廻を抱え、楽浪はへきえきしたように言った。
爆発と煙のように広がった霧を避けて、とっさに屋根にまで上ったが、間一髪であった。白い髪も単衣も黒く煤け、両手が塞がっているために刀は捨ててきてしまった。取りに行くことは不可能だろう。その前に八つ裂きにされるのが落ちだ。
「普段おとなしいお人の方が怒った時に手が付けられない、とは申しますが……限度があるでしょうに。よほど、父上の仕打ちを腹に据えかねていたのでしょうなぁ」
「って、そんなこと言ってる場合じゃないでしょうが!?」
「……きゅううう」
冷静に分析する楽浪に甘斗は怒鳴り、輪廻は目を回しているようであった。
「どーするんすか!? あのヤバい霧が町に広がったら、みんな倒れて、もっとヤバいことに――って、あれ?」
黒い霧は屋根に開いた穴からは立ち上るものの、風になびくこともなく、とうに広がっていてもおかしくないのに、屋敷の敷地内からは漏れていない。
見下ろすと、外の人間は何事もないかのように通り過ぎて行く。屋敷の中で何が起こっているかも知らないのだろう。
不思議そうに黙した甘斗に、楽浪が説明した。
「ああ。ひとえに、ヌシ様の結界のためかと。何かとこっそり手を回すのがお好きなお方ですからなぁ」
「先生が?」
「そうですとも。今もどこかで何かされていると思いますが……まあ、あの方のなさることは、私ごときにはとても窺い知れないこと。期待するだけ無駄でございましょう」
「信頼してるんだか、してないんだか――」
あっけらかんと言う楽浪に、甘斗は呆れてため息をついた。
まだ、聞かなければならないことがある。口の中に苦みが広がる。あの霧みたいに。
「……綾目さんは、どうなるんすか?」
楽浪はすいっと顔を反らした。澄ました声で答える。
「それは私が決めることではありませぬゆえ、お答えできかねますな。所詮、一介の屋敷神である私めが、どうして病について口出しできましょうか? 見習いとはいえ、医術に携わる貴方さまがお決めくださいませ」
「オレが?」
寒気がしたのは高台に上ったせいだけではないだろう。
急に、これが事実だと目の前に突き付けられたようで、肩が強張る。
「あの方をお助けするならば、どのように治療するのか。それとも、いっそ楽にして差し上げますなら、私はいくらでも手をお貸しいたしますが? ええ、一刀で斬り捨ててご覧にいれましょう。物の怪退治は得意中の得意でございますので――ね」
「…………」
表情も読めずにいけしゃあしゃあと言う楽浪に、甘斗は絶句した。
助けるか、それとも殺すか――それを選べという。
そんなの助けるに決まってる、と言いかけて甘斗は息を止めた。
――助ける。聞こえはいいけれど、どうやって?
その具体的な方法は? 物の怪の病になった人間は普通の方法では治らない。物の怪になってしまえば手遅れかもしれない。なのに、助けると決めてしまっていいのか? それで他の人間を危険にさらしていいのか? 何より綾目自身が苦しんでいるというのに。
甘斗の額を汗が伝う。
――方法がないのなら……殺すしか。
無数の思考に絡め取られ、突きつけられた答えを、甘斗は口に出すことができなかった。
悩んで、考えて、その間が命取りとなった。
楽浪の足元の屋根瓦に亀裂が入る。
時間を掛け過ぎた。楽浪は舌打ちをして後方へと跳ぶ。大きな荷物を抱えていても、その身の軽さは少しも衰えていない。その瞬間に、屋根を穿って霧と包帯が手を伸ばす。
だが。
「なっ……」
初めて楽浪の声に動揺が滲んだ。跳んだ先の足元にも亀裂が生まれ、そこには包帯が手ぐすね引いて待ちかまえていた。
さっきの廊下の立ち合いで、だいたいの間合いはわかる。この制限された足場なら罠も張りやすい。屋根へと追いやられた時点で既に追い込まれていた。楽浪は奥歯を噛みしめ、半身を捻る。
「――ぐぅ!」
果たして、甘斗を狙っていた黒槍は狙いをわずかに外して、楽浪の腕を貫いた。
「……甘ちゃん!?」
突然の揺れにやっと目が覚めたのか、輪廻が目を白黒させて手を差し伸べた。
けれど、間に合わない。
傷ついた片腕では支えきれず、甘斗の身体が手からこぼれ落ちた。
「う、うわあああああ!?」
灰色の空が、急に遠ざかっていく。黒い霧が渦巻く穴へと落ち、視界が真っ暗になる。衝撃と、どすんという音をどこか向こう側で聞いて。
そこで、甘斗の意識は途絶えた。




