その10
宿場町は、いつものように人通りが絶えない。
荷物を運ぶ馬を引いている馬飼いとすれ違う。これで、今日だけで三人目だ。
甘斗が鼻を動かすと、どんよりとした湿っぽい匂いがする。
もう少しで雨が降りだしそうな空だ。
戸を叩こうとして、甘斗は小さく扉が開いていることに気づく。
「うん?」
ためらいながらも中を覗くと、玄関も部屋も戸が開けっぱなしになっているようだ。
(不用心だな……)
屋敷の中は静かだった。
昼間の少し早い時間に来たから、仕事に出ているのだろう。宿場町に限らず、商家は忙しい。有名な店ならばなおのこと。なにせ、昼を食う時間も惜しむほどというから。
けれど、女中の姿も見えないというのは?
いつも通りの慣れた道を通って、そう時間もかからずに屋敷の最奥近くにある綾目の部屋まで辿り着く。
いつもは閉ざされている障子も、今日に限って開いている。
「綾目さん、いますか? 甘斗ですけど……開けたままでいいんですか?」
あまりに静かだから寝ているのかとも思ったが――はたして、答えは返ってきた。
「――もう隠す必要はないから」
「……綾目さん?」
明らかに様子がおかしい。
綾目はこの天気とは真逆の、晴れやかな声で言った。
する、と布の擦れる音がする。帯を解く音にも似ていた。
「しあわせそうよね? 家族でもないのに先生や一緒に住むひとがいて。わたしは、同じ家にいても家族にも会えないで、全然しあわせじゃないのに」
くすくすと笑う声に、背筋を汗が伝う。夏も近づき、暑いほどなのに、身体は指先から身体の芯まで凍りついたように冷えていく。
ああ。こんな時に。
甘斗は先日、まさにこの屋敷で師の問いに答えそこねたことを思い出した。
一つ、物の怪は人の心に憑く。度を超えた感情は物の怪を育て、正気すら冒す。
二つ、物の怪は人から人に伝染る。それは、物の怪と化したものが人を襲う場合も同じ。
三つ、物の怪は普通の方法では治らない。物の怪と化した場合は、治療の仕様がない。
そして、四つ――物の怪の病に取り憑かれたものは、やがて物の怪そのものと化す。
五つ、物の怪そのものになれば、正気を失い、人に害なす化け物となる。
「お父さまは、わたしが苦しむよりも、わたしが嫁げなくなる方が怖いのよ。それで手に入らなくなる名前が惜しいの」
匂いがした。
最初に綾目に会う時にも漂っていた。五月の長雨でも香る、花が腐り落ちたように、甘くて苦い。そして、突き刺さるような腐敗臭。
今なら分かる。これは、彼女が長い時間をかけて、朽ちていった匂いだ。
目を向けると、部屋の全てが腐っていた。畳も、衝立も、布団も、飾ってあった花も、全て茶色からどす黒い色へと変わり、嫌な臭いを発するようになる。
甘斗はその場に膝をついた。目が霞み、身体が冷えていく。
「……なんだこれ」
黒い霧の向こうから、寒気のするような低い声が聞こえた。
『だったらみんな、枯れて、腐ってしまえばいいわ!』
「っ!」
押し寄せる霧に、甘斗は思わず目を閉じた――
きんっ!
澄んだ音が鳴り響き、空間を一線が走る。
断たれた包帯は、足元へ落ちると同時に泥へと変わった。
「ほととぎす 鳴くや 五月のあやめぐさ
あやめも知らぬ 恋をするかな――というところでしょうかね?」
黒一色に染まりつつあった視界に白い単衣、白い髪が映った。
部屋を貫くのは二尺三寸の白銀の風。鎬高く、鈍く輝く太刀。
と。
「おわあ!?」
突然に身体を持ち上げられて、甘斗は悲鳴をあげた。子供であるが人ひとりを、紙でも持つように軽々と持ち上げている。
『―――――!』
綾目も乱入者に、わずかに戸惑ったようだ。
『誰――?』
「お初にお目にかかりますな。私は楽浪と申します。貴女様のことは、ヌシ様からお聞きしておりました。何、ただのしがない流行り神です。どうぞお見知りおきを――と言いたいところですが、覚えなくともよろしい。どうせ、すぐに忘れます」
その白い人物は、甘斗を小脇にかかえ、片手で長刀を正眼に構えたままで最後まで名乗りきった。こんな状況に、とぼけた自己紹介をするような人物を甘斗は一人しか知らない。
「楽浪さん!? なんでここにいるんですか?」
「実は私も近くを通りすがったもので。ええ、別に坊ちゃんの後を付けていたわけでは、ええ、まったくございません」
「なんとなくわかったから、もういいです」
半眼でつぶやき、改めて周りを見渡す。
楽浪が斬った場所も黒い霧で塞がれてしまった。逃げ場がない。
「屋敷の他の人は? 逃げ遅れた人がけっこういると思うんですけど……」
「来る道すがら、廊下に倒れている者がちらほらと。恐らくはあの霧のせいかと。あまり吸い込まない方がよろしいでしょう。腹黒くなってしまいそうですからな」
「いや、それはあんまり関係ないんじゃ……あんたが腹黒いの元からだし」
霧に覆われた部屋のものが、黒く腐っていく。畳も、寝具も、衝立も、障子も、目に入るものは全て。おまけに、じりじりと霧が包囲を狭め、逃げ場がない。
「どうするんすか? 突っ切って外まで走るとか……」
「ご自分の身体が腐り落ちない自信がおありならば、そうすればよろしいかと。私としましても錆ついてしまうのはご勘弁願いたいですな。それとも、坊ちゃんが実は超金属で出来ていれば話が別なのですが?」
「できてるわけないでしょーが!」
「ふむ、それは残念。では別の手段を講じましょう。例えば――」
唐突に。
木の枠にかろうじて張り付いていた紙に、塗りつぶされたようにぽっかりと穴が開いた。
甘斗が唖然としていると、楽浪が小さくつぶやいた。
「そうそう、援軍を呼ぶとか」
「甘ちゃん、楽浪さん! こっちこっち!」
向こう側からぴょこんと顔を覗かせたのは輪廻だった。麦穂色の頭が跳ねている。
綾目も唖然としているのが分かる。触手のような黒い布が一瞬ひるむのが分かった。
その隙を突いて、空間を楽浪の刀が横薙ぎに絶つ。
開いたわずかな突破口に潜り、飛び込むようにして廊下に転がり出た。




