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ドレスを着て、王子様と。

春卿さまの小説『ドレスを着て、王子様と。』をリライトした作品です。


枕元に差し込む太陽の光に、姫君はうっすらと睫毛を震わせた。少し顔を顰めながら、ゆっくり、ゆっくりと瞳をこじ開けてゆく。抜けるような青空、元気に囀る小鳥たちの歌声、朝露に湿った野原のにおい。まだ薄暗いうちにだけ味わうことのできる、とびきり上等な朝の気配に一気に意識が覚醒していった。

───高い高い塔の上、灰色の石に囲まれた牢屋の中に、姫君は囚われている。

嘘のようで本当のお話なのだ。姫君というのは城という名の監獄に繋がれた囚人に過ぎない、と彼女はとうの昔に知っていた。従者にさせられる通り。お母様の命じる通り。お父様の願う通り。見たこともない王子様に嫁がされ、子を授かるために生きていかなければならない。賢い王女はちゃんとその事を知っていた。



上着も着ずに窓枠の縁石に腰かけた姫君は、かじかんで青白くなりつつある足先を擦り合わせながら、読みかけの本をぱらりと捲った。最初の文字は大きく派手な飾り文字。羊皮紙を綴じ合わせた古い本には、長ったらしくこの国の歴史が綴られている。もう何度も従者たちに書き取りさせられた物語をすうっと追っていく彼女の指先は、迷いなく一篇の詩のところで止まった。



  汝、彼の手を取りて    その枷を指に受け

  汝、高貴なる血をもって  その血を子に捧げ


  我が血を分けた娘よ、汝、その誓いを果たせ


  彼の卑しい娘の胸に    釘をば打ち込まん

  彼の罪深き娘の骨で    汝の髪を飾れ

  

  我が血を分けた娘よ、汝、我が望みを果たせ


  永久に 永遠に 我が血がこの世に在る限り

 


何代も前にこの国の頂点に君臨した女王の詩。若くして夫を亡くした女王は、いついかなる時でも黒衣を纏っていたという。悲劇の女王は呪いのような詩篇を書き残し、その生涯を閉じた。なにゆえこの詩を書き残したのか、なにゆえ女王は恨んでいるのか。その答えは、いくら詩篇を読み込もうとも得られることはなかった。

姫君はその詩を毎朝じっと眺めることに決めていた。空虚な灰色の砂漠のように心の中が乾いていくような気さえするけれど、これは姫君の課した戒めである。この身に生まれたことを忘れぬよう、自らに課した呪いであるのだ。


「お早うございます、姫様」


前触れもなく開いた扉から、従者たちが現れた。襟元と袖口にあしらわれた白レースの他は禁欲的な黒のワンピースに身を包んでいる。ひっつめた髪を束ねる黒リボンも、唇を彩る黒い紅でさえ同じ。姫君からは、誰でも一緒に見えた。

「次の舞踏会に向けて、ドレスの採寸をしに参りました」

「あら、そう」

その場を動かぬ姫君の両脇から黒手袋の手が伸びてきて、本を取り上げた。

部屋の中央に立たせられ、従者らの命じるままに、なめらかな手触りのそれに腕を通す。

てきぱきと下される指示に従って腕を上げ下げしたり、くるりと回ったりしているうちに、メジャーを首に掛けた従者が満足げに頷いた。


「お似合いですよ。姫様」


もう片方の従者が、部屋の隅から立ち鏡を持ってくる。

鏡の中には、昼の空の色と夜の空の色を混ぜ合わせたような、美しい青色のドレスを纏う少女が立っていた。きゅっと絞られた腰、足元にかけてドレープの波が優雅に弧を描く。水面が泡立っているかのように艶やかなサテン、透き通るようなオーガンジーのリボンコサージュ。夢のような青色を纏っている少女は、どこか哀しそうな表情を浮かべていた。

「お似合いですよ。姫様」

立ち鏡の従者がゆっくりと繰り返す。

「…そうかしら。ねえ、これって何色?」

隙間の空いた胸元にちらりと目をやった片方が、コルセットのリボンをぎゅうぎゅうと締め上げる。ひどく不愉快だった。鏡の中のそばかすの浮いた少女が不機嫌そうに顔をしかめる。

「そうですね、フォゲットミーノット、ではないでしょうか」

ふうん、と姫君は適当な返事を返した。フォゲットミーノットが何であるかなど、姫君にはどうでも良かった。端から答えを望んでなどいないのだ。折角の青いドレスに落ちる、赤銅色のうねった髪が不愉快で、鏡の中からこちらを睨む深い森のようなくすんだ緑色が憎くて、姫君は僅かに唇を噛みしめた。

「ねえ、どうしてドレスを着るの?」

不遜なコルセットを二人がかりで締め上げていた従者からは、なかなか返事が返ってこなかった。もしかすると答えたくないのかもしれない。

ねえ、どうして、と怒ったように繰り返せば、ようやく片方が、

「それは美しくあるためでしょう、姫様」

と呆れたように答えた。

「どうして、美しくなくてはならないの?」

「隣国の王子様に見初めていただくためでしょう、姫様」

「どうして見初めてもらわなくてはならないの!」

被せるように投げた質問に対する答えはなかった。ぴしゃりと叩きつけた言葉は、宙ぶらりんのまま空中を漂っているらしい。

答えのないのをいいことに、姫君は後を続けた。

「そうよ…王家の者以外ドレスを着てはいけないなんて、おかしいわ。町の子が見初めてもらえばいいのよ、私の代わりに」

採寸を終えた従者たちは黙ってその言葉を聞いていたが、しまいまで聞くと、僅かに顔を青くした。鉄仮面のような彼女らの表情が崩れるのは随分珍しいことだったが、姫君は気にもかけずに青いドレスを脱ぎ捨てて、一目散に部屋から飛び出した。もう沢山だ。こんな牢獄生活、何の楽しみがあるというのだろう。片方の従者が何事か呟いたようだったが、姫君は構わなかった。





灰色の階段を駆け下りて回廊の柱をくぐり抜け、こっそり木戸から外庭へと足を向ける。幾何学模様の迷路庭園の青々と茂る生垣の下をくぐれば、そこはもう羊飼いたちの牧場なのだ。緩やかな丘とさんさんと降り注ぐ太陽の光。脱獄犯のように息を切らしながら、姫君はすっかり慣れてしまったおしのび散歩の道のりを急ぎ足で向かった。城下町のはずれの、小さな小さな水車小屋。ちっぽけな菜園と馬とガチョウと年老いた猫しかない、粉引きの娘の家へと。

娘は丁度、馬のブラッシングをしてやっているところであった。姫君が名前を叫びながら駆け寄ると、彼女はぱっと顔を輝かせ、すぐに家へと迎え入れてくれた。

青臭いトウモロコシのような茶をすすりながら、姫君は愉快な気持ちで彼女の家をぐるりと見まわした。粉引きの一家は、娘以外出払ってしまっているらしい。使い込まれた食器や縫いかけのキルトの山なんかが水車小屋には溢れている。あんな牢屋より余程すてきだわ、と姫君は思った。

「姫様、また抜け出していらっしゃったのね」

「あら、私の勝手だもの。それより、今日はドレスの採寸をしたの。次の舞踏会で着るドレスなのだって」

粉引きの娘は、眩しそうに姫君を見た。彼女には逆立ちしたって着ることの叶わぬ憧れの衣装であるのだ。

「まあ、すてき!きっときらきらしているのでしょうね……どんな色なのですか?」

頬を林檎のように紅潮させて生き生きと質問する彼女が、姫君には哀れでならなかった。彼女はどんなにドレスを着たくても一生着ることは叶わない。それは古くからの言い伝えで、この王国では絶対的とも言える規則であったのだ。王家の者以外、ドレスを身に纏ってはいけない、と─────。


「フォゲットミーノット、とか言っていたわ。とても綺麗な明るい青色なの」

その色を聞くなり、少女はいよいようっとりと頬を染めてため息を吐いた。

「まあ……勿忘草の花で染めたドレスだなんて、なんてすてきなんでしょう」

姫君は勿忘草を知らなかったので、娘の言葉に首を傾げた。

「姫様、勿忘草というのはとても愛らしい青い花ことですの。私を忘れないで、という意味が込められているのですよ。……舞踏会にぴったりです、王子様はきっと姫様を忘れたりなさいませんわ」


それでそれで、と尋ねる娘の勢いに負けて、姫君は内心いじわるな優越感を抱きながら、事細かにドレスのデザインについて語って聞かせた。けれどおかしなことに、話しているうちに優越感は形を変えて、小さな刺し傷のように痛み始めるのだ。姫君はドレスの勿忘草色をロマンティックだとは思えなかった。あれだけ言い含められている隣国の王子様のことだって、心から望んでいるとはお世辞にも言えなかったのだ。

それに比べてどうだ。目の前の粉引きの娘は、心の底からドレスを、隣国の王子様に見初められることに憧れている。きらきらと輝く、澄んだ泉の水のような青い瞳がそれを如実に物語っていた。姫君には娘が大層美しく見えた。紅潮して薔薇色に染まる頬も、つやつやとしたさくらんぼの唇も、ふわふわとしたタンポポ色の髪も。


──────この子が姫君であったなら、どんなにドレスが似合う事だろう……!


その考えは瞬く間に姫君の頭の中を支配した。そうだ、彼女が姫君になればいい。汚い赤銅色の髪には村娘の麻布がお似合いなのよ。こんなに暗い緑の瞳、華やかな絹の衣装には映えないってことくらい私にだって分かるんだから。ああ、呪わしい。こんなに醜いお姫様なんて、国中のお笑い種なのに!

姫君は暗い決意の炎を燃やし、不思議そうに黙り込んだ姫君を見やる娘の腕をぐいと掴んだ。

少しくらい、構やしないわ。

「ねえ、着てみない?このドレスでいいから」

「え?」

突然の申し出に、娘はひどく困惑したようだった。言葉の内容をすっかり理解すると、彼女はさぁっと顔を青くした。

そうだろう、ドレス禁止令は王国の大事な規則であるのだから。気圧されたように黙ってしまった娘に畳みかけるように、姫君は叫んだ。

「こんなドレス!私には似合わないってことくらい、知ってるのよ。従者たちだって本当は嗤っているんだわ、醜いお姫様だって」

それを聞くと、娘は

「そ、そんなこと…!」

と言いかけた。しかし姫君は耳を貸さず、続きを口にする。

「着て頂戴、私の代わりに。あなたのドレス姿はきっと素敵だわ!きっと私の何百倍も似合っていて、誰もが振り向くすてきな姫君になるのだわ」


言いながら姫君はようやく理解した。彼女は自らの容姿を憎んでいたのだ。王子様に興味がないわけでも、ドレスに興味がないわけでもない。不釣り合いな自分が呪わしくて仕方がなかったのだ。


「さあ!」

きっぱりとした姫君の口調に、少女は何かを決意したようだった。僅かに頷くと、彼女は姫君が脱ぎ捨てたドレスを手に取った。

姫君があたたかな毛織のショールに羽織って椅子に腰かけている間に、娘は生成りの麻の下着ばかりになって、緊張した面持ちでそれを取り上げた。

壊れ物を扱うように、ひどく慎重にドレスが広げられる。色褪せた薔薇の色をしたシンプルなドレスは、腰より下がより鮮やかな苺色に染められており、透き通るようなパフスリーブの愛らしいデザインだった。

ゆっくり、ゆっくりを袖が通され、きゅっとリボンが締められる。粉引きの娘の頬には赤みが差し、夢を見ているかのようだった。

微塵の穢れもない、白い陶器のような肌がなめらかな布地に覆われていく。

頼りなげに揺れる裾、ほっそりとした腕。そのドレスは、不思議なほどぴったりと少女に似合っていた。

こちらに顔を向けた少女の瞳が揺れ、今にも泣きだしそうな表情になる。

ほうとため息を吐いた姫君は、ややあって彼女に微笑みかけた。

「ほらね、やっぱりとても良く似合って…」


その言葉が終るか終わらないかのうちに、がくんと娘の身体から力が抜けた。ふらり、と少女が崩れ落ちる。

姫君は突然のことに短い悲鳴を上げた。


「姫、様……どう、し、て……あなたは、美し、いの、に…」

苦しそうな少女のとぎれとぎれの声が、姫君の脳髄を揺さぶる。彼女は怖いくらい美しかった。

青い瞳が零れ落ちそうなくらい見開かれ、薄く開いた唇からひゅうと風の音がする。

「あ……」

椅子から崩れるように滑り落ちた姫君は、ただ冷たくなっていく娘を見ていることしかできなかった。

つう、と少女の口元から血が流れる。

彼女はもう、事切れていた。糸の切れたマリオネットのように、美しいドレス姿の乙女は死んでいた────。





「…どうして」

震え声で絞り出された言葉は、あてもなく空中を彷徨った。返って来る言葉もない。命の炎はとうに燃え尽きてしまったのだ。

「だからご進言いたしましたのに」

「ああ、姫様、おいたわしいこと…!」

振り返れば、水車小屋の入り口に二人組の従者が立っていた。今朝ドレスの採寸にやって来た従者だろうか。

「ローズマリーのことは、わたくし共にお任せを」

「ささ、はやくおかえりなさいませ」


────罪びとを繋ぐ牢獄へ!


姫君は従者の言葉の続きがそうであるようにしか聞こえなかった。嫌よ、と首を振る。腰が抜けて立つこともままならなかった。

「姫様」

片方が支えるようにして姫君を無理やり立たせる。どうして、という問が口から漏れたのか、それとも声なき問をくみ取ったのか、それは定かではなかったが、従者はいつもと変わらぬ声音でその答えを言った。

「王家の者ではない女が、ドレスを纏ってはなりません。それは遥か昔より決められたことなのです」

「王子様に愛されるのは、王家の姫でなくてはならないのです。ですから、着飾った町の娘に真実の愛を奪われてしまわないよう、魔女が呪いをかけたのですよ」

「姫様は魔女をご存知でしょう?」

交互に語る従者の最後の言葉に、姫君は小さくかぶりを振った。本当に思い当たることはなかったし、魔女の呪いなど聞いたこともなかったのだ。

小さくため息を吐いた従者は、窘めるように続きを口にした。


「………毎朝、ご覧になっておいでではありませんか。魔女の詩を」



姫君は小さく息をのんだ。あの詩篇は呪いの詩篇。では女王は、かつて愛した王子様に裏切られてしまったとでもいうのだろうか。

美しく着飾った町の娘に。彼女は王となった愛する人を、殺した?


「あの娘は、一体どなたでしたの?あなたは名前を知っていましたわね」

片方の従者が、小さく同僚に囁いた言葉がやけに大きく響いた。ローズマリーは姫君の大事な友人で、粉引きの一家のひとり娘で。お城に巣食うしがらみとは無縁な、ただの町娘のはずだ。彼女は姫君の唯一の友人といっても良かったのに。

「まあ、姫君の小間使いでしたのよ。ご存じなかった?あの子だってドレスを着ればどうなるか、知っていたでしょうに」

「そんなに着たかったのかしらねえ。はしたないこと」


太陽は西に大きく傾き、ちらと振り返った水車小屋の扉から除く乙女の死体は、金色の光を浴びていた。

世界から色が、音が、消えていく。ただあの時の止まった水車小屋だけは、ひどく色鮮やかだった。耳鳴りがする。冷たい氷の手で心臓を鷲掴まれたように、体中が冷たかった。けれど、ドレスを纏った少女が静かに眠るその小屋は、まるでこの世ではない場所のように美しいのだ。

扉から覗く美しい少女の死体は、幸せそうに微笑んでいた。

古都の秋オフ小説会議用お題「禁じられた美しいもの」にぴったり沿うような、素敵な世界観です。町の娘がドレスを着るとどうなってしまうのか。姫君はその時何を思うのか。


情景描写を多めにいれて、ストーリーの流れは変えずに諸所の設定をいじって書かせていただきました。甘美で毒々しい世界観が出せていますように。


やはり、美しい女の子の描写をする時ほど楽しいことはありませんね。趣味に走りすぎてしまったでしょうか。楽しんで頂けたなら、幸いです。

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