03 ハリネズミ姫の生態
テオが足を踏み入れたフローラの部屋には、非常に可愛らしい調度品の数々が並んでいた。ぐるりと室内を見回せば、シックだが流線形の優美な装飾の付いた書棚と本棚、同じく流線の特徴的なソファーセットが並んでいるのが見える。
テオの目の前にある布張りのソファーは、色も少女らしい白塗りの木枠と桃色の布地である。部屋の奥には続き部屋の寝室へ通じる扉があったが、その取っ手の部分には陶磁器が使用されている。フローラの私室はずいぶんと少女趣味の強い家具で装飾されているらしい。
さすがのテオも書棚の中身までは確認出来なかったが、その分厚さから内容も充実しているだろうことは窺えた。棚の上や壁にはところどころ陶磁器と板絵の絵画も飾られていて、非常に豪華な室内だ。
フローラがカーテンの裏に隠れているためか、室内は少し薄暗かったが、窓から射し込む日差しがフローラの頭上を明るく照らし、きらきらと彼女の白髪に反射している。テオはその目映さに目を細めた。
とにかく、フローラと話ができる程度に近付かなければならない。戸口近くに立つテオとフローラの間には、少なくとも十歩程度の距離があったからだ。声の細いフローラは声を張り上げないと話せないだろう、と言う配慮からの行動だった。
しかし、テオがそこから数歩フローラの方へ近付いた途端、突然フローラはカーテンからテオの目の前へ飛び出てきた。
「 わ、わたしの半径5歩以内、に、近寄らないでくださ……っ!」
彼女の精一杯の声量なのだろう。話し慣れていないためか、掠れつつも強い口調でフローラが叫んだ。
内容はさておき、その鈴の鳴るような声色に、テオは思わずときめいた。美少女は声まで可愛いのか、と感動すら覚える。それまでぼそぼそと話す姿しか見てこなかったので、テオはフローラが何をいっているか必死に聞き取る方に気をとられ、声色について考える暇がなかったのだ。
そもそも、テオはこれまでフローラの顔を明るいうちに近場で見ることがなかった。朝食の時間はフローラの両親の前で主賓扱いを受けたせいで緊張していて、フローラの姿をじっと見ることはできなかったのだ。テオはついまじまじと彼女の姿をみつめてしまった。
室内用の白いドレスに身を包んだフローラは、テオに怒っているのか肩を怒らせてふうふうと息を吐いている。息をするのに合わせてさらさらと腰まである長い白髪が肩から滑り落ち、ドレスに影を落とす。
頬は興奮からか赤くなっていて、まるで頬紅を指したように色白の彼女の肌にほのかな彩りを添えていた。スレンダーで折れそうな身体は、風が吹いたら飛ばされるのではないかとテオを心配させた。
長い睫毛に覆われた瞳が涙で潤んでいるのがわかり、別段なにをしたわけでもないのになぜだか悪いことをしているような気分になってくる。
フローラがテオをまっすぐ見つめてくるのも、これがはじめてだった。その事実だけでテオは意味もなくときめいてしまう。
返事のないテオに痺れを切らしてフローラが言い募ろうとすると、
「き、聞いてらっひゃ……るの」
普段話し慣れていないためか、彼女は舌を噛んでしまったようだ。人と会話し慣れてないのがありありと分かるその様にテオは驚く。一拍置いて、耐えきれず吹き出してしまった。
「ぷっ」
「……っ!」
肩を震わせて笑いを堪えるテオを見て、フローラは元々赤くなっていた頬をさらに真っ赤にさせた。羞恥に耐えきれなくなったのか、テオから目をそらすとまたカーテンの裏に隠れてしまう。
カーテンの端を摘まんで影からテオの様子を窺うフローラから、とげとげとした視線をテオは感じた。彼女ににらまれた程度で恐怖など感じないのだが、全身で警戒されるほど嫌われてることにチクチクと胸が痛むテオだった。
「君には話しかけないし、これ以上近付くつもりもない。ただ部屋にいるだけだから許してくれないか。……君のお父上に頼まれたんだ」
「…………」
ここでテオは少し嘘をついた。せっかく勇気を持って入室に成功したので、この機会を逃したくなかったのだ。元々ジグムントも二人の交流を望んでいるから大丈夫だろう、とテオは自分を納得させた。嘘も方便である。
フローラから反論がないのをいいことに、テオはその場で乳母のカタリナを呼びつけ図書室から本を持ってこさせると、そのまま近場のソファーに座って読書を始めた。
はじめはテオの行動を警戒してそわそわとカーテンから覗き見ていたフローラも、テオが本当に近付いてこないのを見ると少し安心したようだった。しかし落ち着かないのか、何度かカーテンから出てきては窓の周辺を数歩ふらふらしまた隠れる、というのを数回繰り返す。
そうしてしばらくすると、彼女は飽きたのか続き部屋の寝室へとぱたぱたと室内履きを鳴らして行ってしまい、そのまま部屋に籠ってしまった。
どうやら本当に心底嫌われてしまっているらしい。テオは苦戦を強いられている現状を嘆いて唸ったが、上手い解決策も思い浮かばずすぐにはどうにもできなかった。
まだ時間はある。このまま粘り強く交流を試みることにして、テオは潔くその日は客間へと下がった。
「こんにちはフロレンツィア嬢。……今日もお邪魔して構わないか」
「…………」
次の日もその次の日も、その次の次の日も、テオとフローラは同じことを繰り返した。乳母は面白そうに眺めるだけで手を出してはこない。
もう数日経つが、二人の間に初回以上の目立った会話はなく、テオはただフローラの部屋で読書をし、フローラはそれを遠目から眺めるだけだった。
それから一週間ほど経ったある日、ついにフローラが微熱を出してしまった。どうやらテオの訪問によるストレスが遠因だったらしい。少しやり方が性急すぎたかもしれない、とテオは反省した。
「彼女は本当に身体が弱いのだな」
「……ええ。幼少の頃から体調を崩されやすいので、乳母のわたしがずっと見ておりました。ご両親も、自分たちがお見舞いすると興奮してしまって悪化するかも、といってあまり顔を出せなかったほどだったのですよ」
「そうなのか……なにか俺がしてやれればいいんだが」
自分が見舞いなどしたら、余計に負担になってしまうかもしれないと思うと、気が重くなる。どんよりとした様子のテオに、フローラの体調を伝えにきた乳母のカタリナがアドバイスを寄越した。偉ぶって胸を張るので、ずんぐりした図体が余計に大きく見える。
「なに、花と手紙をセットにして差し上げれば婦女子なんてイチコロですよ、テオ様!」
「……イチコロ、とやらはよくわからんが、参考にしよう」
素直でないテオを笑い飛ばしたカタリナは、自分は侍女の手伝いをするといってどこかへ行ってしまった。
テオは気を取り直して庭に降り、庭師を捕まえることにした。
屋敷の裏手の大きな庭園に降りると、春を少し過ぎて新緑の薫る風が舞うなか、ほがらかな陽気がテオを照らす。
窓際からフローラもこの様子を眺めているのだろうか。彼女が外に出ているところをまだテオは見てないが、いつか共に散歩に出ることが出来れば……とテオは夢想してしまった。
幸いなことに、前回と同じ場所で庭師を見つけた。
日焼けした肌が健康的な巨体の庭師は、もじゃもじゃとした顎髭が特徴的で、でっぷりと張り出した腹にベルトを巻き付け、庭師の道具と思われる鎌や鋏をじゃらじゃらとぶら下げている。彼は名をイェルクと名乗った。赤ら顔でともすれば粗野な印象を持ってしまいそうな風貌であるが、見た目を余所におとなしい性格をしているらしい。
テオが事情を説明すると、
「それならちょうど見頃のがありますよ」
と穏やかに答え、庭園を少し出た先で自生する春の花が植わった区画へとテオを案内した。
「ここでならいくらでも。ご自分で摘まれますか?」
「そうする」
近くで見守る庭師だけでなく、屋敷の二階から乳母や侍女たちが微笑ましく遠目から視線を送っていたのだが、必死なテオはそれどころではなかったので気付くことはなかった。
テオは手頃なヒナゲシの花をいくらか手に取って纏めると、カタリナにリボンの調達をさせて、自分はメッセージカードをしたためた。
「これをフロレンツィア嬢に」
「あら、直接お渡しになれば良いではないですか」
顔を見せるつもりはなかったテオだったが、カタリナに半ば強引にフローラの寝室の扉の前まで連れていかれた。
彼は部屋へ直接入ることはしなかったが、ベッドに丸まってるフローラに見舞いの花とメッセージ入りの手紙を乳母の手を介して渡す様を入り口から見届ける。
ひょっこりとベッドから顔を出し、カタリナに渡されたメッセージカードを読んだフローラは、一度テオの方をみるもぷいと明後日の方向を向いてしまった。
別段なにを書いたわけでもなく、一般的な見舞いの言葉しか書いていなかったテオは、なにかしてしまったのかと不安になった。しかし横を向いたフローラの耳がほんのりと赤いのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
見舞いの品が無事に渡ったことに満足したテオが自室へ戻ろうと踵を返しかけたその時、フローラがちょいちょいとカタリナのブラウスの袖をつついた。こそこそとなにか話すと、テオの渡したメッセージカードの裏に羽ペンでなにやら返事を書き記す。フローラは紙切れをカタリナへ押し付けると、そのままベッドへ潜り込んでしまう。
テオは驚いた。
『ありがとう』
簡素な言葉だがテオはそのメッセージカードを何度も何度も読み返して、はじめてのフローラとの温かいやりとりを噛み締めた。
それから数日もしないうちに、フローラの体調不良は快方へ向かった。
そろそろ部屋へ赴いてもよいだろう、という段になって、自分のせいで彼女が体調を崩したという自覚のあったテオはすぐに習慣を再開するべきか悩んでいた。
「俺のペースは彼女には難しいのだろう。やはり少し時間をおいた方が……」
実際は間を明けてしまったために照れが出て、部屋に行くということを躊躇してしまったことが大きかった。なんだかんだと行かない理由をつけて、そのまま数日が過ぎる。
すると突然、乳母のカタリナが朝方にテオへ近付いてきて一枚の紙切れを寄越してきた。カタリナは文字の読めないはずなので驚いたテオは、内容を見てさらに驚いた。
『もういらっしゃらないのですか
お父様に怒られてしまいますよ
フローラ』
カタリナは内容に薄々感ずいているのか、にやにやとした表情でテオと手渡されたメッセージカードを交互に見ている。裏にさらになにかが書かれているわけでもなく、単にメッセージだけが書かれていたのだが、テオにはなぜかその紙が非常に重く感じられた。
「……こ、これは……その……」
「お嬢様は普段から退屈してらっしゃるし、人見知りのせいか慣れたら甘えん坊さんなんですよ。テオ様、よかったですね」
カタリナの言葉に背中を押されたテオは、その足でフローラの部屋に赴いた。
「こんにちは。今日もお邪魔して構わないか」
いつも通りの定型句をテオが発して入室すると、そこで青天の霹靂とも言うべき出来事が起こった。
「こんにちは。……どうぞ」
なんと、フローラが挨拶を返したのである。食事の時の挨拶など、必要最低限しか会話してこなかったテオとフローラの関係が、一歩進んだ瞬間だった。
相変わらず、部屋へ訪れても同じ空間を共有するだけの二人だったが、少なくともフローラはテオが同じ部屋にいることには慣れたらしかった。
メッセージカードが贈られた日から、テオが同じ部屋へ来てもそわそわと落ち着きのない動きをしなくなったのだ。相変わらず窓際に腰掛けていて、距離は近付いていなかったのだが、リラックスした様子で詩集を読んだり刺繍をし始めた時のテオの感動といったらなかった。テオは初日の夜、こっそりと客間で泣いた。
ある日、フローラは窓の近くに腰かけてすやすやと昼寝をしていた。テオは本を読む手を休めてそれを眺める。
呼吸に合わせて静かに上下する胸、長い睫毛に落ちる影、優しい昼下がりの陽の光を浴びたフローラは、まるで天使のように光り輝いていた。ふっくりとした頬の曲線は熟れた果実のようにやわらかそうで、テオは思わず息を呑んだ。
しばらくの間見つめていると、はっと気付いたフローラが起きてテオの方を振り向く。テオと目があったことに驚いたのか、少し不思議そうに瞬きをして、それからほわりと花が綻ぶように微笑んだ。まるでテオがいることに安心して喜んでいるかのようなその姿に、どくんとテオの胸が高鳴る。心臓がドクドクと脈打って、思考がふわふわと宙に浮いたように制御がきかない。
急に首元まで真っ赤になったテオにフローラがきょとんとした表情を返す。気恥ずかしくなったテオは、照れを隠しきれずその日は残してきた勉強があるから、とそそくさと退室してしまった。
その次の日の朝、やはりツェツィーリアの隣に座ったフローラを見て、テオはがっくりと肩を落とした。
ようやく少し気を許してくれたと思ったのだが、まだまだ先は長いらしい。テオは思わず彼女との仲を神に祈ったのだった。




