緩やかな終末論
白く揺らめく吐息を見上げながら、そういえば、もう十二月なのだっけ。と、ふと思う。
噂では、今年中に世界は終わってしまうのだとか。
それを聞く度、なんて陳腐な話なのだろう。と、僕は思った。
別に、世界の終わりがどうこう。という事に非科学的だのなんだのとケチをつけるつもりはない。
ただ、僕は思うのだ。どうしてそんなありふれた物を、今更になってことさらに騒ぎ立てるのか。
世界の終わりというものは、そんなに珍しいものだろうか。
そんなわけがない。だって、そんなもの、何処にだって溢れてる。
世界という単位が指し示すモノは山ほどある。認識の差異だろうと錯覚だろうと価値観の違いだろうと、何処にでもある。
だから、世界の終わりなんてものは簡単だ。端的にエンドロールを入れてしまえば。リセットボタンを押してしまえば。破り捨てる。世界の果てから飛翔する。方法なんて山ほどある。
どんな方法でだって、世界の終わりは簡単に演出出来る。
今更、そんなことに、目くじらを立てる必要もない。
僕達は何時だって、世界の終わりの前に居る。
緩やかに、穏やかに、終わりに向かっていくのが人生ならば。
その生き方もまた、世界の終わりそのものなのだ。
だから、せめて安らかに。どうせ終わりなら、幸せな終わりがいいだろう。
何事にも終わりはある。起点があるなら終点がある。
列車は何時か止まってしまう。だから、望む形を、出来る限り求めていこう。
勿論。この世界にも終わりはある。
たったの十五分という時間に区切られた、小さな世界だけれど。
僕は、ここに存在している。
ここだけが僕の世界だ。
だから、僕は僕の望むお終いを、ここに記述するとしよう。
時間に追われたお終いではなく。僕が示す、世界の終わり。
ワールドエンド。明日ここにいる僕は、きっと僕じゃないけれど。
出来たら、仲良くしてあげてくださいね。