習作
「君、いつも授業中に漫画描いてるよね」
そう言われて、私は反射的に顔を上げた。課題に没頭しているクラスメイトを見て回っていたはずの先生がそこにいた。
「あ、あ、すみません、課題、やってないわけじゃないんですけど――」
私は慌ててノートを隠したが、先生は「いや、そんなこと気にしなくていいよ」と言って笑った。
「それよりもさ、その漫画あとで僕に見せてよ」
「えっ?」
「前から気になってたんだよ、君があんまり一心不乱に描いてるもんだから。それに僕、漫画好きだしさ」
答えに窮する私に構わず、先生はさらに続ける。
「じゃ、後で職員室に来てね」
そう言って、またニカッと笑ってみせた。私は何も答えることができないまま、再び教室内の巡回に戻っていく先生の後ろ姿を見つめていた。
ホームルームが終わると、校舎中がにわかに騒がしくなる。クラスメイトが次々と教室を後にする中、私は先ほど漫画を書き散らしたノートをそっと取り出して、膝の上に広げた。ページを一枚めくるたびに、まだ幼かったころの自分のことが鮮明に思い出される。
初めて目にした漫画は、お母さんが学生時代に愛読していたという少女漫画だった。当時まだ幼稚園児だった私は、探検ごっこと称して押入れを漁るのを日課としていた。そして、その日いつもより少し奥深く潜ってみたところ、うず高く積まれたそれを見つけたのだった。
それから、私は押し入れの隅で背中を丸め、色褪せて黄ばんだページを来る日も来る日もめくり続けた。どれもこれもお転婆な女の子が恋愛やら友情やらに悩みながら少女時代を送る――という類の物語だったが、当時ほとんど友達がおらず、幼稚園から帰ってきた後の時間を持て余していた私にとって、それらの漫画はほとんど救いのような存在になっていった。
そこまで思い出して、私はノートを閉じた。そこから先の記憶には蓋をしておきたかったからだ。
私はため息をひとつついて、重い腰を上げた。
職員室に足を踏み入れると、大きな窓から差す西日が目に染みた。整然と並んだ座席の片隅に、指の先にペンを挟んでくるくると回している先生を見つけたので、私はおずおずと歩み寄った。
「やあ。待ってたよ」
私が声をかけるよりも先に、先生はこちらに気づいて椅子を回した。
「あ、どうも……」
「君のクラス、最後の授業は野村先生だったっけ。僕あの人あんまり好きじゃないんだよね」
「はあ」
先生は机の上に置いてあったコーヒーを啜った。
「じゃあ、漫画見せてくれる?」
催促するように片手を差し出されて、私は慌てて鞄を開けた。教科書やプリントをかき分けて、ノートを取り出す。
「こ、これです」
「うん、ありがと」
私の手からノートを受け取ると、先生はすぐに表紙を開いた。そして、それきりひと言も口を聞かなくなってしまった。
その漫画はまだ描きかけで、量としてはまだ三十ページにも満たなかった。だから五分もあれば読み終わってしまうはずだったが、先生はその倍ぐらいの時間をかけて、ページを行き来しながらじっくりと読んでいた。あんまり真剣に読まれているものだから、私はなんだか居心地が悪くなってきてしまった。それほど大したものではないはずなんだけどな。
目のやり場に困りながら立ち尽くすことしばらく、先生が「読み終わったよ」とノートを閉じて顔を上げた。
「まあ、特別絵が上手いわけじゃなければ話が面白いわけでもないよね」
あまりにもバッサリと斬り捨てられて、私は言葉を失った。しかしその指摘は的確だったし、私自身も自覚していることだったので、不思議と傷つくことはなかった。その言葉のとおり、私は自分の描くものを上手いと思ったことはないし、また他人からそう言われたことも全くないのだった。
「でも君、多分ものすごい量描いてるでしょう」
そう言われて、私は先生と初めてちゃんと目を合わせた。
「悔しい思いをしながらずっと描いてきたんでしょ。こんなに頑張ってるのになんで誰も認めてくれないんだ、自分より上手いやつが憎い、とか思ってるのが絵に滲み出てるから。君は漫画を描くのが純粋に楽しいってわけではなさそうだ」
周囲の喧騒が少しずつ遠のいていく。コーヒーから漂う湯気が途切れる。さっきよりも少し遮断された世界で、先生は目を細めて笑った。
「君のこと、ちょっと面白いと思ったんだ。この漫画、最後まで描いたらまた見せてね」
それから一週間ほどして、私はその漫画を描き上げた。食べたり寝たりといった最低限のことをする以外は、いつでもどこでもノートを広げていた。そんな私に誰も目をくれない。ただ一人、先生を除いては。
先日見せたときに、今までペンを入れて描いたことはほとんどないんですが、と話したところ、先生は「それでもいいと思うよ。君の場合はとにかく量を描いているってことがキモなんだから」と言ってくれたので、出来たその日に見せに行った。
「うん、こんな短時間でよく描き上げたね」
夕暮れ時の職員室で、椅子を揺らしながら先生は言った。
「ほんとに手慰みで書き始めたようなものなので、最初の方なんかすごく雑で恥ずかしいと思ってるんですけど……」
「でも途中から随分よくなってると思うよ。描き込みの量なんか明らかに違ってるし」
「あ、ありがとうございます」
いいねえ、と呟いて先生は笑った。
「ただね」
「はい?」
「君の作品はまだ無表情な気がするんだ。多分どこかで読み手のことを意識してるんだろうけど、そんなの気にする必要なんてない。君の恨みとか憎しみを思う存分ぶつけてごらんよ」
ノートをポンと手渡されて、私は戸惑いつつもこくりと頷いた。それから私と先生は他愛のない世間話をして笑い合ったり、職員室の冷蔵庫からコーラをくすねて飲んだりした……。
日を重ねるごとに漫画を描くことへの執着が強くなる。ノートを繰りペンを走らせる手が止まらなくなった。
それとともに、蓋をしていた記憶が少しずつ蘇ってきた。思い出すたびに痛みを伴っていたそれが、今は不思議なほど自然と脳裏に浮かび上がる。
漫画を描くこと以外に何の趣味も持たない私のことを、誰も認めてはくれなかった。休み時間に友達とドッジボールもせずに、一人で机に向かってひたすら鉛筆の音を立てている私がよほど奇怪に映ったのか、声をかけてくれるような人は今までに誰もいなかったのだ。
そういった生活を続けているうちに、人間というのは集団から外れた者を疎んじるものなのだということが分かってきたから、いつからか私の方でも他人との関わりを拒絶するようになっていった。
「人との関わり方が分からないんです」
十編と少しの漫画を見せたのちに、私は先生にそうこぼした。先生は、ちょっと目を瞬かせてから「うん」と相槌を打った。
「私は先生意外に自分の漫画を見てもらったことがないので、こうやって人に漫画を見せていると、自分自身を丸裸で晒してしまっているような、嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになるんです。上手く言えないんですけど、その、なんというか――」
続く言葉を探すのに時間がかかった。
「胸を破って心臓を突き出すんだとしたら、もしかしてこんな気分になるのかなって思います」
「うん」
しばらく私の顔を見つめたあと、先生はニカッと笑った。いつか見せた、糸みたいに目を細める笑い方。
「もしかして、漫画を描くのがちょっと楽しくなったりしてる?」
少し迷ってから、私は答えた。
「……かもしれません」
「それが、君にとって良い変化になるといいね」
先生は、初めに見せてくれた時よりちょっと上手くなったよね、と付け加えて、見間違いでなければどこか満足した様子でコーヒーに口をつけた。
描くのが楽しくなったことは果たして私にとって良い変化だったのか。それはよく分からなかったが、私はとりあえずもう一本漫画を描き上げて、いつものように先生のもとへ店に行った。ひとしきり評価を受けたあと、先生は、
「実は僕、三月いっぱいでこの学校辞めるんだよね」
と言った。
「……え?」
「通知があったんだよ、この間。そろそろ異動してくださいって。この学校には三年ぐらいいたけど、もうお役御免ってことみたいだ」
手にしていたノートをパタンと閉じて、先生はこちらに目を向けた。
「だから、君の漫画を読めるのもあとほんの少しの間だね」
あまりにも突然のことだったので、私は言葉を失ってしまった。先生がいなくなる。それは私にとって、自分をさらけ出せる相手を失うことを意味していた。せっかく、私はせっかく自分を受け入れてくれそうな人を見つけたのに。
「先生がいなくなったら、私はどうすればいいんですか?」
悪い考えを巡らせるのに耐えかねて、私は思わず口を開いてしまった。
「私には先生意外に誰も自分のことを分かってくれる人がいないんです。私はまた一人にならないといけないんですか。自分で自分のことを無理やり納得させて、誰にも認めてもらえないまま終わるしかないんですか?」
私はそこでいったん言葉を切った。湧き出る感情を止めることができなかった。葉の奥ががちがちと鳴る。間髪を入れずに、瞳の奥がじんわりと熱くなり、温かいものが頬を伝った。
人前で泣くなんて、いつ以来のことだろうか。
「僕は君のために存在してるわけじゃないんだよ」
不意に先生が言った。それで、私は顔を上げた。いつもは人懐っこく笑っている先生が、今はなにも表情を浮かべずにじっとこちらを見つめていた。
「悪いけど、ここから先は僕の関わる問題じゃない。君は今まで受け身すぎたんだ。もう僕以外の誰かを――君のことを受け入れてくれる誰かを自分で探さなきゃいけない時が来たんだよ。このまま僕に寄りかかってたら、君、今度こそ本当に駄目になるよ」
とても静かな口調で、先生はそう言った。肩先をとんと突かれてよろけたような気がして、私は何も答えることができなかった。
しかし、ぼろぼろと涙をこぼす私に、先生はぱっと笑ってみせた。
「なんだか脅してるみたいになっちゃったね」
そういうつもりじゃなかったんだよ、と言ってから、先生は腰かけていた椅子から立ち上がって、私の肩にポンと手を置いた。
「でもね、一度他人に自分の描いたものを見せることの快感を知ってしまったから、君はもう本当に描くことから逃げられないよ。けどそれは、言い換えると描いていれば自然と読み手を求めてしまうってことだから、あとは君がどうにかしてその誰かを捕まえておけばいい」
もう一度私の肩を叩いて、先生は言った。
「その人が君のことを受け入れてくれるかどうかは分からないけど、少なくとも僕は君に興味を持ったんだ。僕がいなくなっても、君にはずっと描き続けてほしいと思うよ」
放課後の職員室を、柔らかな西日とコーヒーの香りが包み込んだ。
春が来て、言葉のとおり先生は転任していった。
私はと言えば、ただ細々と漫画を描き続けている。先生の言う誰かを自分から探す勇気はなかなか出ないけれど、もう桜の花も開いてきたことだし、いい加減に重い腰を上げてみようと思う。
生暖かい風が吹いて、私のノートのページを少し揺らした。
了
実体験を基にするとものすごく書きやすいけど、それを他人が読んで面白いものに昇華できるかどうかと言ったらそれはとても難しいことだと思いました。じゃあなんでそんなものを上げたのかという話ですが、それは単に今まで何の批判も受けてこなかった私には書いたものを衆目に晒して辱めを受ける必要があると思ったからです。
もう純文作品は書きません。