「奥様は亡くなったはずでは?」夫が連れてきた後妻候補も騙されていたので、二人で夫を告発します
「なぜお前がここにいる」
本邸薬草庫の扉を開けた夫は、私を見るなりそう言った。
薬草庫には、乾いた草と土の匂いが満ちていた。窓辺では朝から干していた月花草が揺れ、作業台には、ローレン薬草商会へ渡す納品箱が並んでいる。
私は作業台に置いていた納品札を一枚取り上げた。
「ローレン商会から、納品前に本邸側の確認が欲しいと連絡がありました。ですから、ここにおります」
「セレーナ、お前が出る必要はないと言ったはずだ」
夫であるジルベルト様の視線が、私の手元から納品箱へ移った。
「本当に私が出なくて済むなら、そうしておりました」
ジルベルト様の眉が動く。
「どういう意味だ」
「ローレン商会からの確認状は、結局いつも私へ回ってまいります。納品札の修正も、乾燥具合の問い合わせも、毒草混入の確認も。あなたのところで止まっても、実務を止めるわけにはいきませんので」
ジルベルト様は答えなかった。
その顔を見て、私は少しだけ嫌な予感がした。この人は、私が薬草庫にいることを本気で想定していなかったのだ。
ジルベルト様と私の結婚は、家同士の取り決めだった。
初夜の部屋で、彼は私に触れず、「互いの家のための婚姻だ。余計な期待はしない方がいい」とだけ言った。
それから二年。夫婦の寝室は、最初の夜からずっと別のままだった。子がいない理由を、屋敷の者たちは何となく察していたと思う。誰も口には出さなかったけれど。
アストレア侯爵家が欲しがったのは、私個人ではない。
ベルク伯爵家が祖父の代から持っている、ローレン薬草商会とのつながりだ。私の実家は北方の湿地と薬草林を持ち、薬草を腐らせずに乾かし、毒草を選り分け、品質を落とさず保管することに定評があった。
私も嫁ぐ前から、薬草庫の手伝いをしていた。だから結婚後、本邸薬草庫の納品確認も、自然と私の仕事になった。
自然と。便利な言葉だと思う。
誰かが正式に頼んだわけでもない。けれど、いつの間にか私がやることになっていた。ジルベルト様にとっては、妻が屋敷の中でしている細かな仕事でしかなかったのだろう。
夫の後ろには、若い女性が立っていた。
綺麗な人だった。薄茶色の髪は柔らかく、淡い色の瞳は潤んで見える。ジルベルト様が好みそうな、守ってやりたくなる儚げな顔立ちだった。
けれど、手元だけは違った。
小さな薬草箱を、胸に抱えている。指先には土と薬草の汁が染みていた。外套の裾についた泥は、まだ乾いていない。馬車から降ろされて、そのままここへ連れてこられたのだろう。
髪の横に、小さな枯れ葉が一枚ついていた。彼女は、それにも気づいていなかった。
その女性が、私を見て息を呑んだ。
「あの……奥様、なのですか?」
「そうですが」
彼女の顔から血の気が引いた。薬草箱を抱える手が、小さく震える。
「でも、ジルベルト様は……奥様は亡くなったはずでは……」
私は、すぐには返事ができなかった。
作業台に置いた納品札を、指で押さえる。押さえていないと、札を折ってしまいそうだった。意味もなく。
亡くなったはず。
その言葉だけが、薬草庫の匂いの中でやけにはっきり残った。
夫が私に冷たいことは知っていた。夫婦らしいことが何もないことも、知っていた。けれど、私を死んだことにしているとは知らなかった。
少なくとも、今この瞬間までは。
「待て。ミリア嬢、今のは違う。セレーナも、早合点するな」
ジルベルト様が、はっきり慌てた。その声は少し上ずっていた。
「早合点、ですか」
「違う。そういう意味で言ったのではない」
「では、どういう意味で?」
「ミリア嬢には……事情を、簡単に説明しただけだ」
「ミリア嬢……その方に? 私が亡くなったという形で?」
ジルベルト様の口元が引きつった。すぐには言い返せなかった。
けれど、次の瞬間、その目が私からミリアさんへ、それから閉じた扉へ動いた。廊下に誰もいないことを確かめるような目だった。
「大げさにするな。王都中に触れ回ったわけではない」
その言い方で、だいたい分かった。
「そちらの……ミリアさんにだけなら構わないと?」
「そういう話ではない。彼女は侯爵家の内情を知らない。余計なことを言えば混乱するだけだ」
「だから、死亡ですか」
「お前は私の妻としての役目を果たしていない。私にとっては、いないも同じだった」
その言葉に、ミリアさんが震えた。
「つまり、あなたの都合で、私は生きたり死んだりするのですね」
ジルベルト様は舌打ちした。
「今はその話をしている場合ではない。ローレン商会を待たせている。納品の確認が先だ」
私は手元の納品札を見た。
ここ半年、郊外薬草園から届く薬草の質は少しずつ良くなっていた。銀葉ミントの葉は厚くなり、夜露草の香りも安定している。
けれど、納品札の字はジルベルト様のものだった。乾燥日や等級の確認も、いつも彼を通して回ってくる。
育てた者の名前だけが、どこにもなかった。
それをおかしいと思わなかったわけではない。ただ、侯爵家の薬草園で誰か腕のいい新しい担当を雇ったのだろう、くらいに考えていた。ジルベルト様が私に知らせないことなど、珍しくもなかったからだ。
その薬草を育てていたのが、ミリアさん。
全ての違和感がつながった気がした。
ふとミリアさんの胸元に目がいく。彼女は首飾りに触れていた。薄緑の石がついた簡素な細工だ。高価なものではない。けれど、そこから流れる香りが少し強すぎた。
安息香草。
眠れない者や、不安の強い者に使うことはある。違法な薬草ではない。けれど、長く嗅ぎ続けると、判断が鈍くなる。使いようではあるが、どちらかといえば本人の不安を和らげるというより、不安を押し込める香りだ。
ミリアさんの膝が、かくりと揺れた。
「その方、顔色が悪いようですね……」
「少し疲れているだけだ。郊外薬草園から来たばかりだからな」
「なら、なおさら休ませるべきです。商会の方も、育てた本人が倒れた姿を見たいわけではないでしょう」
ジルベルト様は返事に詰まった。
ミリアさんの指が薬草箱の縁に触れると、中の銀葉ミントがわずかに葉を起こした。植物魔法使い。それも、飾りではない。畑で実際に手を動かしている人間の魔力だった。
廊下の向こうから、家令の声がした。ローレン商会の使者が到着したらしい。
ジルベルト様は一瞬だけ迷った。ローレン商会は、先代侯爵の代からの取引相手だ。しかも今季の薬草園整備費の一部は、商会からの前払い金で回している。ここで使者を怒らせるのはまずい。
多分、そこに思い至ったのだろう。
「……なら、お前が見ておけ。薬草だけは得意だろう」
「承知しました」
「余計なことは吹き込むな」
「薬草庫で倒れそうな方を、介抱するだけです」
ジルベルト様は不満そうだったが、商会の使者を待たせるわけにはいかない。足音荒く、薬草庫を出ていった。
◇◇◇
残されたミリアさんは、すぐに頭を下げた。
「申し訳ありません、奥様。私、本当に……本当に、奥様は亡くなられたと聞いていて」
「まずは座ってください」
「でも」
「ここで倒れられると、私の薬草庫で死人が二人に増えます」
嫌味が強すぎたかもしれない。
ミリアさんは、どう反応していいか分からない顔をした。私も分からなかった。
夫に死んだことにされていた。目の前の娘は後妻候補だと信じていた。ただその娘は、薬草箱を抱えたまま震えている。怒るにも、泣くにも、相手が違う。
まずは、倒れそうな人間への対応からだ。
「応接室へ。ここでは落ち着きません」
ミリアさんは小さく頷いた。
応接室に入ると、彼女は椅子に浅く腰かけた。薬草箱を膝に抱えたまま、背中を丸めている。まるでそれだけが、自分の持ち物だと言いたげだった。
私は棚から白露葉と目覚め草を取り、少し迷って薄荷葉も足した。
湯を注ぐと、茶は淡い緑色になった。ミリアさんの首飾りから漂っていた甘い香りが、湯気に押されるように薄くなる。
「その首飾り、少し香りが強いですね」
ミリアさんが胸元に触れた。
「ジルベルト様からいただきました。父の病のことや、王都へ来る不安があるなら身につけておくといいと」
「安息香草です。使い方を間違えなければ薬草ですが、ずっと嗅ぐものではありません」
ミリアさんは、はっとした顔をした。
「……安息香草!?」
「心当たりがありますか」
「あります。けれど、私が育てているものとは香りが違っていて。乾燥させて、香油に混ぜると、こんなに甘くなるのですね……」
「あなたは、育てる方が専門なのですね」
「はい。畑で根を張らせることはできます。でも、調香や調合は……母が亡くなってから、ほとんど学べませんでした」
ミリアさんは首飾りを見下ろす。
「それに……この首飾りはジルベルト様からの贈り物でした。疑うのが、怖かったのだと思います」
「香りそのものは悪くありません。使い方が……いえ、渡し方が悪いのです」
私はカップを彼女の前へ置いた。
「とりあえず今は外して、お茶を飲んでください。少なくとも、今よりは考えやすくなります」
ミリアさんはしばらく迷ったあと、首飾りを外した。布に包み、丁寧に薬草箱の端へ置く。
それを見て、私は何も言えなくなった。騙されたかもしれないが、すぐに嫌いになれるとは限らない。
ミリアさんは薬草茶をゆっくり飲んだ。
「……少し、楽になりました」
「それは何よりです」
「楽になったら、余計に怖くなりました」
「怖いものを怖いと思えるなら、まだましです」
「まし、ですか」
「ええ。少なくとも、さっきよりは」
ミリアさんは笑おうとして、失敗した。口元だけが少し歪んで、すぐに俯いた。
私は向かいに座る。
「あなたは、王都の社交に出ていますか」
「いえ。うちは地方の騎士あがりの準男爵家で……父が病で倒れてからは、薬草畑の世話ばかりで」
「侯爵家の事情を知る機会は?」
ミリアさんは首を横に振った。
「ありません。ジルベルト様からは、奥様の死はまだ公にしていないと聞いていました。奥様のご実家との手続きが残っているから、喪が明けるまでは伏せている、と」
「本邸に来たのは今日が初めてですね」
「はい。私はずっと、北の郊外薬草園だけに通っていました。馬車で半刻以上かかる、古い薬草園です」
「侯爵家の使用人と話す機会は?」
「薬草園の番人と、荷運びの方くらいです。侯爵家のことについて詳しく伺ったことはありませんが……あまり本邸のことは分からないと」
そこで、ミリアさんは唇を噛んだ。
「手紙も、ジルベルト様からだけでした。本邸へ入れば、喪が明ける前に私の立場が悪くなると書かれていて……今思えば、おかしいですね。でも、その時は、侯爵家の事情なんて私が聞いていい話ではないのだと」
「分からないようにされたのです」
「そう言っていただけると……少し、楽です」
ミリアさんはカップを両手で包んだ。指先がまだ震えている。
「でも、私も信じたかったんです。都合のいいところだけ。父の薬代のことも、薬草園のことも……奥様のことも、正直聞かない方が楽でした」
「そうですか」
「はい」
ミリアさんは消えそうな声で言った。
「聞いたら、全部壊れる気がしました」
その言い方で、少しだけ印象が変わった。この人は、ただ泣いて許される場所に逃げたいわけではないらしい。逃げたかったことも、ちゃんと分かっているようだ。
「薬草園の仕事は、いつから?」
「半年前からです。最初は本家で管理していない、枯れかけていた薬草園を見るだけでいいと。でも、土が悪くて、水路も詰まっていて。放っておけなくて」
「それで、あなたが直した」
「少しだけです」
「少しだけで、今日の納品箱があそこまで揃うとは思えません」
ミリアさんは、膝の上で手を握った。
「父の薬代が必要でした。少しでも薬草の仕事をいただけるなら、ありがたいと思ってしまいました。それに……」
「ジルベルト様は、あなたに優しかったのですね」
ミリアさんは、すぐには答えなかった。カップの縁を、親指でこすっている。
「……はい」
小さく、そう言った。
「寒い日は肩掛けをくださいました。父の薬代のことも、気にかけてくださいました。私の手を見て、働き者の手だと」
そこで、ミリアさんは自分の指を隠すように握った。
「嬉しかったんです。今となっては馬鹿みたいですけど」
「馬鹿とは言いません」
私がそう言うと、ミリアさんは首を横に振った。
「いいえ、馬鹿でした。薬草園の収穫量が増えてから、ジルベルト様は薬草の話ばかりするようになりました。どの区画を増やせるか、商会にどれだけ出せるか、私ならもっと育てられるだろうと」
ふと目をやると、テーブルの端に置かれた首飾りは、まだ布に包まれたままだった。捨てるには、たぶん早すぎるのだろう。
私はそれ以上、首飾りのことには触れなかった。
触れても、今すぐどうにかできるものではない。
「薬草園の仕事を頼まれた時、何か紙は交わしましたか」
ミリアさんは、少し遅れて顔を上げた。
「……はい。補佐依頼書なら」
「見せてください」
ミリアさんは薬草箱の底から、布に包んだ紙を取り出した。
郊外薬草園の補佐依頼書だった。半年間、郊外薬草園の薬草育成を補佐すること。品質改善が認められた場合、報酬を支払うこと。収穫物の一部は侯爵家を通じてローレン商会へ納品されること。
「報酬は?」
「最初に少し頂きましたが……ほとんどはまだです」
ミリアさんは、膝の上で手を握った。
「ジルベルト様は、喪が明けたら正式に後妻として迎えるつもりだとおっしゃいました。だから、今育てている薬草園も、いずれは二人のものになるのだと」
「二人のもの」
「はい。今、侯爵家から報酬を受け取るより、将来のために薬草園を良くしておいた方がいいと……私も、そう言われて、納得してしまいました」
私は依頼書を見下ろした。
仕事は書いてある。報酬も書いてある。けれど、その報酬を受け取らない理由だけが、書面にない甘い言葉で包まれている。
後妻に迎える。いずれ二人のものになる。だから今は侯爵家のために。
あの人らしい、と思った。
約束したように聞かせて、責任は残さない。
ジルベルト様が、なぜ私を「離縁予定の妻」ではなく「亡くなった妻」にしたのか。だいたい見えてきた。
私を本当に死んだことにはできない。ベルク伯爵家とのつながりも、ローレン商会との取引も、彼はまだ使いたかったはずだ。
だから私は、表向きには妻のまま。本邸の奥に下げて、薬草庫の仕事だけは続けさせる。
一方でミリアさんには甘い言葉を並べ、薬草園で働かせ、報酬は将来の約束で先送りにする。
相手ごとに、違う嘘を渡していたのだ。
「あなたを責めるつもりは、今のところありません」
「今のところ……」
ミリアさんの声が小さくなった。
「ええ。今は、です」
私は茶葉の瓶を棚に戻した。少し強く置きすぎて、瓶の中で葉が跳ねた。
「私は聖女ではありませんので」
ミリアさんは、泣きそうな顔で頷いた。
「はい。聖女様でなくて当然です。私でも怒ります」
「怒っています」
「ですよね」
「ですが、今あなたに怒鳴ると、たぶん話が進みません」
ミリアさんは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
たぶん、この人も、何を言えばいいのか分からないのだろう。夫に騙された直後で、目の前にいる私は、その夫の妻なのだから。
私は紙を一枚引き寄せた。
「お互い信じるかどうかは、後で考えましょう」
「え」
「今は、分かっていることだけ並べます。あなたが薬草園で働いたこと。報酬を受け取っていないこと。私が死んでいると聞かされていたこと」
私は白い紙を引き寄せた。
「夫へ請求します」
ミリアさんが顔を上げる。
「請求、ですか」
「はい。夫宛てに。まずは、あなたの分からです」
「私の……」
「報酬を受け取らない理由として使われた約束は、今ここで崩れました。なら、働いた分は請求します」
ミリアさんは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「はい」
「それから、私の分も」
「セレーナ様の分、ですか」
「夫が私を死んだことにし、その間も本邸薬草庫の納品確認と商会対応だけを私に押しつけていた分です。妻として屋敷を手伝った分ではなく、存在を消されながら働かされた分」
ミリアさんは、息を呑んだ。
「それは……ひどいです」
「ええ。ひどいので、請求します」
私は羽根ペンを取った。まず、ミリアさんの分を書く。郊外薬草園の薬草育成補佐、約半年分。
次に、自分の分を書く。死亡扱いされた半年間の本邸薬草庫検品。ローレン商会との確認対応。納品遅延の調整。使用人用の最低限の調合。私の実家への虚偽説明に関する損害。
「では、あなたが実際にしたことを確認しましょう。思い出せるところからで構いません」
「したこと、ですか」
「ええ。慰めではなく、請求のためです」
ミリアさんは少しだけ背筋を伸ばした。
「銀葉ミントの畝は、最初に半分ほど枯れていました」
「では、回復作業」
「夜露草は、水路を直してから増えました」
「水路補修」
「薬草箱の運搬は、荷運びの方が忙しい日は私も手伝いました」
「運搬補助」
「それも入れるのですか?」
「入れます」
ミリアさんは、少しだけ目を丸くした。
「セレーナ様は、お金の話が強いですね」
「お金の話を弱く済ませると、ろくなことになりません」
「……勉強になります」
「高い授業料でしたね」
ミリアさんは少し苦笑いしかけて、また俯いた。苦笑いだとしても、まだ笑うには早いのだろう。正直、私も同じ気分だった。
請求書を書き終えるころには、外の陽が傾いていた。
ジルベルト様は一度も戻ってこなかった。ローレン商会の使者には、納品前確認は明日に延ばすと伝えたようだ。商会の担当者は不満そうだったらしい。
それも当然だ。この半年、郊外薬草園から届く薬草は増え、品質も良くなっていた。けれど、ローレン商会への返事だけは遅れがちだった。
納品札の確認も、乾燥日の問い合わせも、最初はジルベルト様宛てに届く。そこで止まり、困った商会の使者が薬草庫へ回ってくる。
それを私が確認し、直して返す。
そんなことが、一度や二度ではなかった。
◇◇◇
翌日、私は実家へ手紙を出した。
婚姻時の取り決めを扱った法務代理人にも使いを出し、私とジルベルト様の結婚を取りまとめたヴァレンティ公爵家にも報告を入れた。
貴族同士の政略結婚は、面倒なものだ。二人では始められないし、壊す時も二人で済ませろとはいかない。
先代侯爵にも、公爵家とローレン商会から連絡が入ったらしい。特に商会は、今季の前払い金の使途と納品遅延を、すでに何度か問い合わせていた。そこへ公爵家からの連絡と私の手紙が重なった。
別邸で静養していた先代侯爵が戻ってくるには、十分すぎる理由だった。
ジルベルト様が父君から薬草取引を完全に引き継いでいないことも、そこで初めて私は知った。
爵位継承の手続きは進んでいた。けれど、主要領地の管理権と、ローレン商会との薬草取引の監督権だけは、先代侯爵がまだ手元に残していたらしい。
なぜか。
たぶん、息子をまだ信用しきれていなかったのだ。
◇◇◇
親族会議の日、ジルベルト様はひどく不機嫌だった。
けれど、怯えてはいなかった。女二人が薬草庫のことで騒いでいる。親族の前で少し叱れば済む。ミリアさんはまだ自分の言葉に揺れる。私はどうせ、薬草庫で黙って草を乾かしているだけ。
そう思っている顔だった。
広間には、親族と主だった関係者が集められていた。
ローレン商会の担当者は、入口に近い席で帽子を膝に置いている。帰りたい顔だった。私の実家から来た代理人は、書類鞄を抱えたまま顰めっ面をして一度も笑わない。法務代理人は面倒な案件を早く片づけたい顔をしていた。
ヴァレンティ公爵家の名代は、何も言わずに壁際へ立っていた。その沈黙が、一番重かった。
そして、しばらく本邸を離れていた先代侯爵――ジルベルト様の父君も、別邸から戻っていた。
ジルベルト様は、その顔ぶれを見て、初めて表情を変えた。
「なぜ、父上まで」
先代侯爵は椅子に腰を下ろしたまま、低い声で言った。
「妻を死んだことにしたと聞けば、隠居先からでも来る」
広間が静まり返った。
ジルベルト様は、すぐに取り繕うように笑った。
「大げさです。女たちが話を膨らませているだけです」
「では、膨らんでいない話を聞こう」
先代侯爵の声は冷たかった。
ジルベルト様は、私を睨む。
「セレーナ。お前は本当に騒ぎを大きくする女だな」
「ローレン商会への納品確認から始まった話です。小さく済ませる機会は、あなたにもありました」
「また薬草か。そんな細かいことを親族会議に持ち込むな」
「細かいかどうかは、商会の方にも判断していただきます」
薬草商会の担当者は、気まずそうに帽子の縁を撫でた。できれば自分の口からは言いたくない、という顔だった。
ジルベルト様は不快そうに眉を寄せる。
「ミリア嬢、こちらへ」
法務代理人から呼ばれたミリアさんは、その場から動かなかった。
「ミリア嬢?」
彼女は顔を上げた。まだ少し震えている。けれど、目は逃げていなかった。
「ジルベルト様。私は、奥様が病で亡くなられたと聞かされていました」
広間がざわめいた。
ジルベルト様の顔がこわばる。
「今は黙っていなさい」
「黙りません」
ミリアさんの声は震えていた。
「私は、いずれ正式に迎えると言われていました。奥様の喪が明けるまでは表に出せないのだと。だから郊外薬草園で薬草を育てながら待っていました」
「ミリア嬢!」
「でも、奥様は生きていらっしゃいました。私は、本邸に奥様がいらっしゃることも知りませんでした」
ジルベルト様の目が吊り上がる。
「お前まで私を裏切るのか」
「裏切ったのは、あなたです」
ミリアさんは一度、唇を噛んだ。
「私は、あなたの言葉を信じました。後妻になるのだと思っていました。でも、奥様が生きていることを隠されたままなら、それは後妻候補ではありません」
彼女の声が、小さく震えた。
「ただの、都合のいい女です」
その一言で、広間の空気が変わった。
ジルベルト様は、一瞬だけ言葉を失った。
私は、二枚の請求書を広げた。
「こちらが、夫への請求書です」
ジルベルト様は、一瞬ぽかんとした。それから、広間に響く声で笑った。
「妻が夫に請求書だと?」
「はい」
「馬鹿馬鹿しい。屋敷の薬草庫を少し見ていただけで、金を取るつもりか」
「少し、ですか」
「草を乾かして、棚に並べて、茶を淹れるだけだろう」
ローレン商会の担当者が、青ざめた顔をした。広間にいる関係者たちも、互いに顔を見合わせる。
私は夫を見た。
「銀葉ミントは、乾燥が半日ずれるだけで香りが落ちます。夜露草は、葉脈の色で等級が変わります。精霊草は、湿気を含んだまま箱に詰めれば、隣の薬草まで腐らせます」
ジルベルト様は黙った。
「ローレン商会が確認しているのは、草が棚にあるかどうかではありません。送付先まで品質を保てるかまで見ています」
私は納品札の束に指を置いた。
「その判断を、ベルク伯爵家は祖父の代から磨いてきました。私が見ていたのは、棚ではありません。納品できる状態かどうかです」
ジルベルト様は口を開いたが、すぐには言葉が出なかった。
私は請求書の一枚目を指で押さえる。
「こちらは、私の分です。あなたが私を亡くなったことにしていた半年間、本邸薬草庫の納品確認と商会対応を続けさせた分。さらに、私の実家へ虚偽を伝えたことによる損害分」
「妻なら屋敷のために働くものだろう」
「妻を死んだことにしたまま、ですか」
広間が静まり返った。
ジルベルト様は、唇を歪めた。
「金の話ばかりするな。侯爵家の中で回している仕事を、いちいち個人の取り分にするつもりか」
「個人の取り分、ですか」
「ミリア嬢の薬草園も、お前の薬草庫も、侯爵家のための仕事だ。家のためにしたことを、後から金に換えるなど浅ましい」
私は、請求書の端を指で押さえた。
「では、私を死んだことにしたのも、侯爵家のためですか」
ジルベルト様の口が止まった。
「ミリアさんを後妻候補として待たせ、報酬を先送りにしたのも」
広間の誰かが、小さく息を呑んだ。
先代侯爵が、そこで初めて目を閉じた。たぶん、怒る前に疲れたのだと思う。
私は、二枚目の請求書をミリアさんの前へ置いた。
「こちらは、ミリア・リュネットさんの分です」
ミリアさんが、両手で紙の端を押さえる。
ジルベルト様は、苛立ちを飲み込むように息を吐いた。
「ミリア嬢、君への報酬を踏み倒すつもりだったわけではない」
先代侯爵の前だからだろう。先ほどまでより、言葉を選んでいる。
「君の家が困っていたから、私は支援するつもりでいた。薬草園の件も、いずれ正式な形で報いるつもりだった」
ミリアさんは静かに首を振った。
「では、なぜ奥様が亡くなったと私におっしゃったのですか」
「それは……」
「なぜ、喪が明けたら迎えるとおっしゃったのですか」
広間の空気が、さらに冷えた。
ジルベルト様は口を開きかけたが、先代侯爵の視線に気づいて言葉を飲み込んだ。
しばらく黙っていたヴァレンティ公爵家の名代が、そこで初めて口を開いた。
「つまり、リュネット嬢には正妻が亡くなったかのように説明し、将来迎えると期待させ、そのうえで薬草園の報酬支払いを先送りにした。そういう理解でよろしいですか」
「違う。私は、彼女を利用したわけではない」
「では、報酬を支払わなかった理由は?」
「彼女の家を支援するつもりだった。金銭で区切るより、侯爵家として後ろ盾になる方が――」
「正妻に知らせず、正妻の死を匂わせて?」
ジルベルト様の顔が歪んだ。
ミリアさんが、胸元の首飾りを外して、テーブルに置いた。銀細工が小さく鳴る。
「これは、気持ちが落ち着く香りの首飾りだと言われました」
ジルベルト様の視線が、一瞬だけ首飾りに落ちた。
「父のことが不安なら、身につけておけと。王都に慣れるまで、私を守るものだと」
「ミリア嬢……」
「私、嬉しかったんです」
ミリアさんの声が、小さく震えた。
「郊外薬草園まで様子を見に来てくださったことも、手を見て働き者だと褒めてくださったことも、父の薬代を気にかけてくださったことも。全部、嬉しかったんです」
ジルベルト様は何も言わなかった。
ミリアさんは首飾りを見下ろした。
「でも、あなたが本当に欲しかったのは、私ではなかったのですね」
一度、唇を噛む。
「私の薬草と、この腕だったんですね」
その言葉で、ジルベルト様の顔から表情が消えた。
ミリアさんは、ゆっくりと続けた。
「それから、奥様の仕事も」
広間は、しんと静まり返った。
法務代理人が、首飾りを一瞥した。
「安息香草ですね。使用時間の説明は?」
ジルベルト様は答えなかった。
法務代理人は、書類の端に何かを書き足した。怒っているというより、面倒な項目が一つ増えた、という顔だった。
そこへ、ローレン商会の担当者が口を開いた。
「失礼ながら、当商会としては、今後の実務窓口をジルベルト様お一人にお任せすることは難しいと考えております」
ジルベルト様が目を剥く。
「何だと?」
担当者は怯まなかった。いや、少し怯んではいただろう。けれど、ここで黙る方が商会にとって怖いのだろう。
「ここ半年、納品量は増えております。しかし確認の返答は遅れ、納品札の修正も滞っておりました。当家としても、不安がございました」
担当者は、先代侯爵へ向き直る。
「先代侯爵様が監督権をお持ちであるなら、取引の確認は改めて先代侯爵様の管理下で行わせていただきたく存じます」
それから、私の方へ軽く頭を下げた。
「実際の品質確認は、ほとんどセレーナ様からいただいております。誠に申し上げづらいことながら……毒草と薬草の区別を軽んじる方を、実務責任者として扱うことはできません」
そこへ、先代侯爵が杖を床に突いた。
こつん、と乾いた音が広間に響く。
先代侯爵は、しばらくジルベルト様を見ていた。怒っている、という表情ではなかった。
怒るより先に、もう見限っている。
自分の見誤りに気づいてしまった人の顔だった。
「ジルベルト」
「父上」
「お前は、自分が何をしたか分かっているのか」
「私は家のために――」
「家のために、妻を死んだことにし、他家の娘を騙して後妻候補として囲い、報酬を払わず、商会との取引まで危うくしたのか」
ジルベルト様は言葉に詰まった。
先代侯爵は、ゆっくりと息を吐いた。
「お前は、家を守ろうとしたのではない。家を、自分の都合に使っただけだ」
「父上、私は侯爵家の当主です」
「お前に渡したのは、爵位の椅子だけだ」
先代侯爵は、杖の先で床を軽く叩いた。
「領地の印も、薬草取引の監督権も、実質的な権限はまだ私の手元にある。なぜ残したか、今なら分かるな」
ジルベルト様の顔が固まった。
「父上」
先代侯爵は目を伏せた。
「一人息子可愛さに、私の見る目も曇っていたのだろうな……」
広間の空気が、さらに重くなった。
「セレーナ」
名を呼ばれて、私は顔を上げた。
「そして、ミリア・リュネット嬢」
ミリアさんの肩が小さく跳ねる。
「我が家の者が、あなた方を傷つけた。詫びて済むことではないが、まずは詫びさせてほしい」
先代侯爵は、椅子に座ったまま深く頭を下げた。
ジルベルト様が息を呑む。
「父上、何を――」
「黙れ」
短い一言だった。
それだけで、ジルベルト様は口を閉じた。
先代侯爵は顔を上げ、息子を見た。
「離縁を望むなら、セレーナ嬢の望む形で進める。ミリア嬢への未払い報酬も、侯爵家として支払う」
「父上!」
「だが、お前を後継として残す理由はない」
広間が凍った。
ヴァレンティ公爵家の名代が、そこで初めて頷いた。
「公爵家へは、このまま報告いたします」
それだけだった。
ジルベルト様の顔から、血の気が引いた。
法務代理人が書類を揃える。
「ベルク伯爵家への名誉毀損。ミリア・リュネット嬢への未払い報酬。薬草商会への信用毀損。さらに離縁となれば、持参金返還と慰謝料も発生します」
「慰謝料だと!?」
「妻を死亡扱いにして、別の女性には後妻になると信じさせていた件です。請求されるだけで済むなら、まだ軽い方です」
ジルベルト様は、今度こそ黙った。
◇◇◇
翌朝、ベルク伯爵家の封蝋が押された書状が届いた。
昼には、ヴァレンティ公爵家からも使者が来た。夕方には、ローレン商会の使者が二人に増えていた。
ジルベルト様の机の上には、次々と書類が積まれていく。
ミリアさんへの半年分の未払い報酬。
私が死亡扱いされた半年間の実務分。
実家への虚偽説明による損害。
商会への信用毀損。
離縁に向けた持参金返還と慰謝料。
請求書だけが、順調に育っていった。
薬草より、よほど早かった。
ジルベルト様は最後まで謝らなかった。
「女が金の話をするな」
最後に会った時、彼はそう言った。
「薬草庫も薬草園も、侯爵家のために使ったものだ。それを後から金に換えるなど、浅ましい」
その言葉も、法務代理人の書類に残った。
おかげで、請求の名目がまた一つ増えた。
離縁は、思っていたより早く成立した。
ジルベルト様は侯爵家の後継から外され、先代侯爵の監督下で別邸に移された。表向きは静養ということになっている。
王都では、ジルベルト様の名を最後まで呼ぶ者が減った。
「ああ、あの……請求書の」
そこまで言って、たいていの人は扇で口元を隠す。
隠すくらいなら言わなければいいのに、と思う。
まあ、止めはしない。
◇◇◇
数か月後。
王都の裏通りに、小さな薬草店が開いた。
店名は、魔女と妖精の薬草店。
名づけたのはミリアさんだ。
「セレーナさんは、薬草庫で死人を増やさない魔女ですから」
「褒めていませんね」
「褒めています。私は畑で葉を起こすだけの妖精です」
「それも自称するには少し恥ずかしい名前では」
「お客様は覚えてくださいます」
確かに、覚えられはした。
店主は、ミリアさんである。
ミリアさんは、未払い報酬とリュネット家の蓄えで、小さな店を借りた。店舗契約の保証人だけは、私の実家の伯爵家が引き受けている。
私は離縁後、実家の伯爵家に戻り、北方薬草林の管理を任されることになった。王都へ来る用がある時だけ、この店に寄る。
棚の奥で乾燥葉を選び、調合台の配置を少し直し、ミリアさんの見積書を横から覗く。
保証人として、少しだけ。
それから、薬草庫育ちの先輩として、ほんの少しだけ。
ミリアさんは、ジルベルト様の話になると少しだけ目を伏せる。
もうあの首飾りはない。
郊外薬草園で鍛えた腕は確かで、銀葉ミントも夜露草もよく育つ。
ローレン商会からも、少量だが注文が入るようになった。
最初は、乾燥葉を少しだけ。
次に、湿気を避ける保存袋。
その次は、眠れない奥方のための薄い薬草茶。
大きな取引ではない。
けれど、注文書にはきちんと店名が書かれていた。
魔女と妖精の薬草店、と。
「セレーナさん、これで大丈夫でしょうか」
ミリアさんが、見積書を差し出した。
「薬草名、数量、納期。ここまでは良いです」
「はい」
「配送費と、瓶代と、梱包材が抜けています」
「あ」
「貴族街の屋敷へ届けるなら、馬車代がかかります。薬草も、紙袋に入れて渡すわけにはいきません。瓶、木箱、緩衝材。割れた時の予備分も必要です」
ミリアさんは、真剣な顔で見積書を覗き込んだ。
「薬草の値段だけでは足りないのですね」
「足りません。良い薬草を育てても、届けるまでに赤字になったら意味がありません」
「勉強になります」
「痛い目を見たばかりですから、今度は授業料を取られる前に覚えましょう」
私は羽根ペンを取り、見積書の下に一行書き加えた。
配送費・瓶代・梱包材費、別途。
ミリアさんが、少しだけ笑った。
「……これで、働いた分をちゃんと受け取れるでしょうか」
「受け取れます」
私は見積書を彼女へ返した。
「というより、受け取るために書くのです。見積書も、請求書も」
ミリアさんは、両手で見積書を受け取った。
「はい」
「お金の話は、嫌な話ではありません」
薬草店の小さな看板が、夕方の風に揺れた。
魔女と妖精の薬草店。
その文字の下で、ミリアさんは丁寧に見積書を折りたたんだ。
今度は、誰かの言葉を待つためではなく。
自分の仕事に、きちんと値段をつけるために。
扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、ローレン商会の若い使いだった。
「失礼いたします。先日の薬草茶ですが、追加でお願いしたいと」
ミリアさんが顔を上げる。
「追加、ですか」
「はい。香りが強すぎず、飲みやすいと。あと、保存袋も同じものを三十ほど」
三十。
ミリアさんが私を見る。
私は棚から夜露草の瓶を取り出した。
「まずは在庫を確認しましょう。受けられる量と、受けてはいけない量があります」
「受けてはいけない量?」
「無理に受けて質を落とせば、次の注文がなくなります」
ミリアさんは、はっとした顔をした。
それから、小さく頷く。
「はい。確認します」
その声は、もう震えていなかった。
私は夜露草の瓶を作業台に置いた。
「薬草は、売る前に状態を見るものです。人も、店も、同じです」
ミリアさんが、今度は逃げずに頷いた。
「はい。私たちで、できるところまで」
私たち。
その言葉を聞いて、私は少しだけ笑った。
白い結婚の妻でも、死んだことにされた女でも、騙された後妻候補でもない。
私たちは、薬草を扱う者同士だった。
そして今日も、少し忙しい薬草店の仲間である。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
今回は、夫に死んだことにされていた妻と、何も知らずに連れてこられた後妻候補が、薬草庫で出会うお話でした。
ざまぁもありますが、どちらかというと、
「働いた分は、ちゃんと請求しましょう」
みたいな話になりました。
セレーナもミリアも、これからは自分の仕事にちゃんと値段をつけて、たくましくやっていくと思います。
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他にも異世界恋愛の短編を書いています。
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〜三年間、毎晩竜の炎を鎮めていたのは私です〜
『声が大きくて淑女らしくない』と婚約破棄されたので、百年に一人の声を買われて竜騎士団の号令係になりました
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




