感情の蕾
アルカンタラへ向かう道行は遥かに重くなっていた。
魔帝の気配が濃くなるにつれて原生林は一層色を失い、木々の幹は炭を押し込んだように黒ずんで、踏みしめるたびに土が鈍い音を立てる。
頭上を覆う枝葉の隙間からは赤みがかった空がのぞいていて、昼前の時刻のはずなのに辺りは薄暗い。
「なんか動きにくいね。体が重たい」
足元に突き出た歪な根を跨ぎながらヒナが呟く。
「気分が悪くなったら言ってくれ。万全を期して進もう」
「んー、まあ大丈夫。単純に獣道がきつい。獣も通ってないから獣道じゃないか」
呑気に笑って見せる彼女は本当に危機に対して鈍感なのか、あるいは先を知っているがゆえに動じないのか、未だに判断がつかなかった。
俺たちよりも前方で、ロベルトとナタリーの援護を受けながらアリエルが先陣を切っている。
魔力を失った彼は素の感覚だけで周囲を探りながら歩いている。以前よりも慎重な歩みだが、臆している様子は一切なかった。
ロベルトがその左を固め、ナタリーが魔法で盾を張りながら並行する。そしてごく当たり前のように俺とヒナが最後尾になる。この配置がいつの間にか定着していた。
「……なあ、ヒナ」
「なに?」
「君の世界で、俺の年齢で独身の国王というのはどう思われているのだろう」
なぜそんなことを軽々しく尋ねてしまったのか、自分でも少し驚いた。しかしもう聞いてしまったものは仕方がない。
ヒナは一瞬だけ「ん?」と首を傾げたが、それから特に躊躇いもなく答えた。
「やばいんじゃないのって思う」
「……やばい、か」
「あ、グレッグはまだ王子だからいいけどさ。でも後継ぎのこととか国民だったら気にするんじゃない? 国の安定につながるから」
「正論だな」
「私の世界では、今どきはわりと『結婚や出産がすべてじゃない』とか『個人の自由』とかって言うけどさ。でも外交とか国内向けのメッセージとかに影響するのも事実だよね。そりゃ誰にだって個人の自由はあるけど、それは義務を果たしてるからこそ認められるものだもん。王様も、国民もね」
「ああ。耳の痛い話だ」
情に棹をさして「気に留めなくていい」と放任するわけでもなく、ただ率直に論理を話す。感情を踏まえながら構造として物事を捉える目がある。それがヒナの厄介なところでもあり、心地よいところでもあった。
もう少しだけ、突っ込んで聞いてきてくれてもよかったのだが。しかし尋ねてほしかった内容を尋ねてくれないのはいつものことなので、俺のほうから口火を切った。
「……君は、元の世界に恋人がいたのか?」
「いなーい。まだ十七だもん」
十七歳。ヒナが「まだ」と言うのは向こうの世界では当たり前のことなのだろう。しかしこちらの尺度では結婚していてもおかしくない年齢だ。
「こっちの世界ではもっと早い?」
「国や身分にもよるが、そうだな。十七なら家庭を持っていても珍しくない」
「へー。やっぱ生きるのが大変だからなのかなあ」
「そうかもしれない。常に次世代のことを考え続けなければ瞬く間に滅んでしまうから」
「こっちの世界の人って偉いね!」
「……」
世界の話をしたいわけではないんだ。当人が全く気にしていない様子なのに、俺が一人で意識してしまっているのが情けなかった。
気を取り直して、もう少し踏み込む。
「恋人がほしいと思ったことは?」
「えー、考えたことない」
ならばまだ尋ね続けても気づかれはしないだろう。無防備な相手に乗じてしまう自分が卑怯な気がしたが、それでも引き下がれなかった。
「たとえば、どんな人なら気になる?」
「どんな人ねー。好きなタイプって意味? うーん」
ヒナはしばらく宙を眺めながら歩いた。俺も辺りの魔物を警戒しながら答えを待った。アリエルたちが道を守ってくれるおかげで、くだらない話に講じることができている。
そして屈託のないヒナの笑顔がこちらを見上げた。
「グレッグのことは結構好みだよ!」
ぴたりと、思考が止まった。
「……そうか」
「うん」
何事もなかったように前を向いてヒナは歩き続ける。俺も歩き続けながら、心臓が馬鹿みたいに大きな音を立てているのを自覚していた。
そんなに他意なく言わないでほしい。本当に。
これほど無頓着に爆弾を投げてくる人間を俺は知らない。ヒナは自分の身を守るための嘘を知っているのに、それを使う気がない人だった。
他意がないからこそ、己の言葉の威力をまったく分かっていない。
俺を好みだと言う。それだけだ。それ以上でも以下でもない。一体俺はこんな会話に何を期待しているのか。
自分の動揺が腹立たしくて、かろうじて呼吸を整えた。
前方でざわめきが起きたのはそんな折のことだった。
ナタリーが魔物の気配を察知し、アリエルが剣を引き抜いて構えた。ロベルトがインパクトグローブを嵌めながら臨戦態勢に入る。
「お兄様! 後ろにもいますわ!」
「ああ、こちらは気にするな!」
木々の間から複数の魔物が滑り出てきた。プラントゴーレム……以前と同じ種だが、魔力を吸ってより強大になっている。
アリエルが真っ先に前方へと切り込んだ。以前ならばまず魔法の爆発をぶつけてから剣でとどめをさす型であったが、魔力のない今、彼の戦い方は明確に変化している。
瞬発力のあるロベルトの攻撃に紛れて急所をつくことで注意をひき、とどめをナタリーに任せるとすぐに俺たちのもとへと駆け寄ってきて次の敵に対処する。
唯一無二の万能な勇者から臨機応変な共闘者へと。数秒とかからずゴーレムを殲滅し、ロベルトが半ば呆れたように呟いた。
「魔法が使えなくなったなんて言っといてよ。歯牙にもかけないじゃねえか」
「まったく、さすがに鮮やかだな」
「アリエルが魔法を使わないおかげで、わたくしは楽しいですわ」
好きなだけ得意の破壊魔法を行使できて、我が妹殿はご満悦だ。
ナタリーが重力魔法で土埃をおさめると、アリエルはそんな彼女に苦笑する。
「……僕もなんとか戦えそうでよかったよ」
俺の背後からひょっこりと覗いたヒナが「かっこよかったよ」と屈託なく言うものだから、さっきまで達観した顔をしていたアリエルがわずかに耳を赤くした。そういうところはまだ十九歳だな。
「ありがとう、ヒナ」
「アリエル、照れてる」
「照れてない」
なんとなく、ただなんとなく、彼女の横顔を見る。
「ヒナ」
「ん?」
「アリエルには、そういう目で見る気にはならないのか」
「そういう目? あー。べつにそういう感じじゃないかな。弟キャラのかわいさがあるよね、アリエルって」
「同感ですわ! 守ってあげなくてはという気持ちになりますものね」
「二人とも僕より年下なんだけどね……」
遠い目をするアリエルに、ロベルトが「呑み込んでこそ大人の余裕ってもんだぜ」と笑う。
宿敵との決戦を間近に控えているとは思えない緊張感のなさだ。それでもアリエルが悲壮な表情を浮かべていないのはよいことだった。……と、思っていたのだが。
辺りの安全が確保されるとヒナがこっそり俺に耳打ちした。
「アリエルってほんとはプレイヤーが性別選べるんだよ。性格は一緒だけど、男女で選べるタイプの主人公なの。女の子だったらよかったのにね」
「なぜ?」
「女の子アリエルはグレッグといい感じになるから」
「……俺が?」
「終盤グレッグのシスコンが崩れるイベントが女主人公だけ入ってくるんだよ。エンディングで二人のその後を匂わせる台詞もあるし」
「はあ」
そう言われても俺は男のアリエルしか知らないから、その「いい感じ」というものがどれくらいの関係を指すのか想像がつかない。正直なところ、あまり想像したくもない。
「いや、そういう目では見れないな……」
「あはは! まあここでは男主人公だもんね」
じゃあグレッグはフリーかと何の衒いも言ってのけて、ヒナは再び歩き出す。フリーだと分かっていながらその話をそこで終わらせないでほしい。
近頃はナタリーもロベルトも意味ありげな目配せをしてくるほどなのに、当のヒナだけが無反応を貫いている。鈍いのか、気づいていないのか、あるいは気づいていて素知らぬふりをしているのか。
彼女に限って最後はないと思うが。
足下の枯れた根を踏んでヒナがつまずきかけた。俺が咄嗟に腕を掴む。
「ありがとー」
「気をつけてくれ」
「うん」
無造作に手が離れていく。それだけのことに妙な寂寥を覚える自分がいる。
「グレッグはさあ」
しばらく沈黙が続いた後、ヒナが口を開いた。
「なんで結婚しないの? ほんとはちゃんと女の子好きなのに」
「やや御幣のある言い方だな」
いつかは聞かれるだろうと思っていた。しかしそれを聞いてくるのは王宮の誰かである予定だった。不意を突かれて答えるのに少し躊躇う。
「俺は愛する人とは結婚しないよ」
用意していた俺の言葉に、ヒナが足を止めた。
「……はあ?」
振り向いた顔は笑っていない。思いのほか強い語気に、俺もわずかに眉を上げる。
「なぜ怒るんだ?」
「そんな諦めたこと言われたらムカつくよ」
「諦めというわけではないのだが」
俺にとっては明確な理屈があった。
たとえ魔帝がいなかったとしても、我がマグレディ王国は厳しい大地にある。雨は降らず、土地は痩せ、民は荒くれ者が多い。
友好国は少なく、常に孤立無援で踏ん張ってきた国家だ。そこに嫁ぐということは、相応の覚悟と政治の冷たさに耐える力が必要になる。
愛すればこそ、そんな場所に何も知らない相手を引き込むわけにはいかない。
「大切に思う相手であれば、政治の世界に巻き込みたくはないだろう」
「意味が分かんない」
「愛情と責任は別の話だということだ。俺には第一とすべきものが他にある。国があり、民がいる。愛した相手に割ける時間も自由も限られる……」
そんな場所に好きな相手を閉じ込めたくはない。
ヒナは黙って俺の顔を見ていた。そして物分かりの悪い子供を相手にするようにため息をついた。
「あのさ。私は政治とか全然分かんないよ、ただの学生だもん」
「君は充分に知識を持っている。血の通った政を知らないのは確かだな。知る必要のないことではあるが」
「……向こうには、政を為すは人にあり、って言葉がある。国をうまく回したいならまず人を大切にしなきゃいけない。人が生き生きとしてることが国の基礎になるっていう意味で使われることが多いんだけど」
「それが俺の話とどう関わる?」
「国民を幸せにしたいなら、グレッグがまず幸せにならなきゃいけないんじゃないの」
静かな声だった。先ほどのような率直な憤りはなく、ただまっすぐに俺へと向けられた言葉だった。
「不幸せな人が他人を本当の意味で幸せにできるのかな。グレッグが誰かを愛したいって思うなら、それを大切にしたほうがずっといいと思う。私はそっちのほうがずっと大事で、だからグレッグが誰かを好きになって結婚したらいいって思うよ」
だから、と彼女は続ける。
「国のために愛する人を諦めます。そんなのかっこよくない。勝手に諦めるんじゃなくて、ちゃんと相手に向き合ったほうがいいんじゃない?」
言い終えてヒナは照れくさそうに視線を逸らし、「私が言える立場でもないけど」と小さく付け加えた。
ただの学生だと彼女は言った。政治は分からない、と。それでも、その言葉は核心を突いていた。
魔帝の森に射し込む赤い光がヒナの横顔を照らしている。漆黒の髪は光の中でも色を溶かさず、ただ確かに存在していた。
じきに異世界へ帰ってしまうかもしれない相手に、俺は一体何を言えるのか。
「君はいつも正直だな」
「グレッグが曖昧なことしか言わないだけでーす」
この会話をこれ以上続けるべきではないと、僅かな理性が告げている。
「行こう。アリエルたちに置いて行かれそうだ」
「なんかまた誤魔化してない~?」
不服そうなヒナに返事はせず彼女の手を引く。
物語の終わりが近い。胸の奥に引っかかったものは、ますます丁寧にほどけなくなっていく。




