境界の渡し橋
町の外れ、あの歪な原生林のほうを見やると空を覆う雲が不気味に明滅していた。
赤黒い光が輝いては消え、まるで森そのものが脈打っているかのようだ。魔帝のブラッドムーンが新たな段階へと進んでいるのだろう。
やがて白い人影が森の縁からふらふらと這い出てくるのが見えた。
「アリエル!」
なりふり構わず駆けていくナタリーを追って、俺たちも慌てて宿を飛び出した。
ヒナが言っていたシナリオの通りに町の入り口で膝をついていたアリエルは、俺たちの姿を認めるとほっとしたように微笑んだ。その笑顔はいつもと変わらないのに、纏う空気がまるで違っている。
「……みんな。心配かけてごめん」
「アリエル……本当によかった」
涙を滲ませながらナタリーが言う。ロベルトも珍しく表情を崩して安堵の息を吐いた。
「なんとか無事だったみてえだな」
「無事かどうかは微妙だけどね」
そう言ってアリエルは弱々しく笑った。妙に大人びた微笑みが、暴走している間に彼の負った傷を思わせた。
ひとまず宿に連れ帰り、治癒魔法を施しながら“ヒナとアリエルの初対面”を済ませる。多くを語らずともアリエルが事の次第を理解してくれたのは、プレイヤーと主人公の絆なのだろうか。
普段は人見知りの激しいアリエルなのに、ヒナに対してはすぐに心を開いたようだった。
……まさか好みのタイプだったというわけではなかろうな。ロベルトならともかく、アリエルに限ってそんなことはないと思いたい。
彼の肉体の傷が癒えると、魔法を通じて彼に触れたナタリーが呆然と呟いた。
「アリエル、あなた魔力が……」
「うん。シルヴィウスに吸収されたんだ。僕の魔力は全部、あの人の野望のために使われてしまった」
あれほどの魔力を有していたアリエルから、今は一片の魔力も感じられない。真っ白の髪に見合うだけの、完全な魔力の消失だ。
「でも、それで良かったのかもしれない。もう二度と操られることはないから」
淡々と語るアリエルの声には諦観が滲んでいた。
「今までのようには役立てない。魔法も使えないし、みんなの足を引っ張ると思う。でも、それでも……シルヴィウスを倒さなければ。こんなことは頼めた義理じゃないけど、できれば僕と一緒に戦ってほしい」
自嘲気味にそう言われてまず憤慨したのは意外にもロベルトだ。
「お前、俺たちを見くびってんじゃねえのか。守護者サマが戦えなくなったら用済みだとか、そういう関係だと思っていたのか?」
「いや……そういうわけじゃ、」
「そうですわ! アリエルの魔法が使えなくなったって、わたくしがいます!」
後ろで「アリエルは器用貧乏だからもともとナタリーのほうが強いもんね」と辛辣なことを言うヒナをさりげなく制止しておく。
まったく、呆れるほど水臭いやつだ。俺たちが彼の力を当てにして祭り上げていたとでも思っているのか。
「仲間なのだから、言われなくても助けるに決まっているだろう」
「グレッグ……」
ナタリーがそっとアリエルの手を握り、ロベルトが彼らしからぬ優しさで肩を叩いた。
「ありがとう、みんな……」
そしてヒナは最初からこの世界にいたかのように当たり前に、アリエルに微笑んだ。
「おかえり、アリエル」
翌日、アリエルから詳しい話を聞いた。
シルヴィウスは森の地下深くに巨大な構造物を出現させたという。それは地上と冥府タルタロアを繋ぐ橋であり、死者の国への入り口。
「アルカンタラ……」
ヒナが小さく呟く。彼女の知る『ラストダンジョン』の名だ。
「ああ、シルヴィウスはそう呼んでいた」
アリエルの言葉に、俺とヒナは顔を見合わせた。
「今度こそ魔帝と決着をつけるのですね。装備を整えなおす必要がありますわ!」
「だな。アリエルの武器と防具も新調するか、ボロボロだしよ」
「あ、僕、森で財布なくしちゃったんだけど……」
「うるせえ。それくらい俺が奢ってやる。お姫さんもくるか?」
「もちろんですわ」
三人が買い物に出かけていくのを見送る。なぜか俺とヒナだけが宿に残された。
妙な方向で気を使われている気がする。俺としてはナタリーとアリエルの仲のほうが気にかかるのだが……いや、今はそれどころではないな。
部屋の窓から外を眺めていると、ヒナが隣に立って俺の顔を覗き込んでくる。十代の若造でもあるまいに、妙に動揺してしまう。
「シルヴィウスとの関係について話してもらえなかったな」
誤魔化すように呟けば、ヒナは事もなげに頷いた。
「そうだね。プレイヤーはアリエル視点を見てるから知ってるけど、みんなに語るシーンはなかった気がする。エンディング後とかには話してるのかもしれないけど」
世界を滅ぼそうとしている敵が自身の父親だった。容易に口に出せることでもないのは分かっている。それでも、やはり少しだけ淋しく思う。
「シルヴィウスを倒した後、アリエルはどうなる?」
「あー、聞いちゃう?」
なぜかニヤニヤしながらヒナは「ハッピーエンドではあるよ」と意味深なことを言う。
「グレッグはマグレディ王国に戻って、ロベルトも家に帰って、アリエルは魔力を取り戻すために修行の旅に出るの」
「ああ、ナタリーを連れて?」
「……なんだー。もっと『妹は渡さん!』って怒るかと思ったのに」
不服そうに口を尖らせるヒナに苦笑する。俺の妹への過保護は建前だと知っているくせに。
それは腑に落ちる結末だった。しかし、その物語の中にヒナの姿はない。
「君は……その頃、どうしているのかな」
「私? エンディング後ならもう元の世界に帰ってるだろうから、いろいろめんどくさい目に遭ってると思う」
「面倒? 君の世界は平和だと思っていたが」
「平和だからこそだよ。こんな何日も行方不明になってたんだから、絶対大騒ぎになってるし、出席日数とか期末テストとか……あーっ、考えたくない!」
彼女の口調は相変わらず軽い。そこにあるのが切実な郷愁ではないことに、淡い期待を抱いてしまうんだ。
この物語はもうじき終わる。
俺たちの人生はその後も続いていくが、シナリオの異分子であるヒナは魔帝を倒すことで元の世界に帰還できるかもしれない。
アルカンタラを渡り、彼女があるべき異世界へ帰ってしまうかもしれない。それは二度と彼女に会えなくなるということだ。
逆に言えば、もし俺が彼女を引き留めようとしてそれが叶ってしまったら、ヒナはこの世界に留まり、永遠に彼女の故郷を失うことになるだろう。
家族に会えなくなる。友人たちとも。彼女が築いてきたすべてを失うことになる。
……帰らないでほしい。本当にそう思う。しかしそんなことを言えるはずもない。そんな身勝手なことを願っていいはずがないんだ。
ヒナは俺の顔をじっと見つめていた。その濃褐色の瞳に映る自分の姿がひどく弱々しく見えた。
その夜、夕食の後にロベルトが部屋に顔を出した。
「おい王子様よ、お前そろそろ降参しろよ」
「何のことだ」
「しらばっくれんなって。ヒナのことだよ」
否定する言葉は特に見つからない。
「お姫さんがずっと言ってたぜ。お兄様とヒナはお似合いだって。お前は何だ? 妹のことしか見えてないふりをいつまで続けるつもりだ?」
発明家らしい目敏さと、まったく遠慮しない不躾さ。この男こそ俺にとっての『めんどくさい』だな。
「彼女には帰る場所がある。最初からそうだった」
「だからって諦めるのかよ。薄っぺらい野郎だな」
「彼女を引き留める権利は俺にはない」
にべもなく言って捨てれば、ロベルトは呆れたように肩を竦めた。
「権利とか義務とか、そういう話じゃねえだろ」
「では何の話だと?」
「愛してるなら愛してるって言えばいいだけの話だよ、馬鹿」
愛している。その言葉こそ、俺にとっては最も避けるべきものだ。
彼女の無防備な信頼。彼女の誠実さ。彼女の笑顔。彼女の強さと弱さ。
そのすべてが、俺の心を捉えて離さない。
――だからこそ、俺には彼女を引き留める権利がないのだ。
ロベルトが不機嫌そうに部屋を去り、一人残された俺は窓の外に広がる夜空を見上げる。
月は未だ赤く輝いている。しかし、じきに光を取り戻すだろう。




