委ねられた日常
今のところヒナは『エンディング』、つまり魔帝を倒したあとに元の世界に帰れるのではないかと想定している。
魔帝との決戦は冥府タルタロアに続く橋、彼女の世界で『アルカンタラ』と呼ばれるラストダンジョンで行われるらしい。
俺たちは魔帝に対してヒナの知識という強力な主導権を握っている。しかし現れた時と同様、彼女が不意に帰ってしまう可能性もあった。
万が一に備えるならば、今後のシナリオについては先に聞いておかねばならない。
――彼女が急にいなくなった時のために。
「で、そのアルカンタラは森の地下に出現するんだよね」
彼女の話によれば、アリエルは魔力を失った状態で俺たちと合流する。そこから魔帝のもとへと向かう頃にはすでにタルタロアの一部が地上に顔を出しつつあるわけだ。
「たとえばの話だが、アリエルが帰ってくる前に俺たちだけでさっさとシルヴィウスを倒してしまうのはどうだろう」
ヒナの知る物語の結末においても、タルタロアが完全に地上へと顕現するわけではない。しかしそのラストダンジョンとやらがこの世界に良い影響を及ぼすとは思えなかった。
防げるものなら先んじて防ぐべきなのではないか。
俺の言葉にヒナは真剣な顔で考え込む。その表情には彼女が時折見せるプレイヤーとしての顔、感情を脇に置いた冷静な分析の気配があった。
「うーん。要するにラストバトルごとスキップさせるってことだよね」
「そうだ」
彼女の沈黙を見つめながら待つ。ヒナが考えているのは単純な可否ではなく、その選択が引き起こす波紋のことだろう。
「ぶっちゃけアルカンタラを『出現させない』ってのはありだと思うよ。シナリオとは違う展開になるけど、それならそれなりの未来に進んでいくだけだろうし」
そうだな。そもそもヒナがここに存在することからして、世界は彼女の知るシナリオとは別の道を歩み始めているのだ。
俺たちの目的はエンディングへの到達ではない。ブラッドムーンを止め、世界を魔力涸れから救うことだった。
既定のラストバトルを待たなくても、先回りすればシルヴィウスを倒すことは可能だろうと彼女は言う。
「しかし、気になることがある?」
「うん。本来できるはずのレベルアップができなくなるのが怖いんだよね」
「……なるほどな」
ヒナは今後の展開を「アリエルは能力がリセットされ、しかし仲間が育っているからラストバトルが戦略的になる」と言っていた。逆に言えばアリエルが帰ってくるまでの時間をかけてようやく決戦に見合う力を得るということだ。
「先走ると、本来倒せる予定だった敵を倒せなくなるかもしれない」
「そういうこと」
物語は俺たちの勝利を保障しているが、そのシナリオに沿わなかった場合、保障も消えてなくなるのだ。
だからこそ彼女は当初、異世界からきたとだけ告げて『シナリオ』を知っていることは黙っていた。俺たちがそれを変えてしまわないために。
「……素朴な疑問だが、なぜ隠さないんだ?」
ヒナの知識はこの世界に対して優位性がある。うまく利用すればシルヴィウスさえも従わせ、世界を統治することが可能だろう。そして彼女はそれを思いつけるだけの教養を持っている。
だが、ヒナはさも当たり前のように答えた。
「私が知ってるだけじゃ何にもならないじゃん。だったらうまく使える人に渡したほうがいいでしょ?」
「俺がうまく使うとは限らないぞ」
「グレッグだから大丈夫だよ」
確信をもって言われる。とんだ殺し文句だった。
ヒナにはまったく他意がない。ただ純粋に、俺を信頼しているだけだ。その信頼が眩しすぎて直視するのがつらかった。
いつからこうも奇妙な下心を抱いているのだったか。
彼女を守るべき脆弱な少女として見ているのか、利用すべき貴重な資源として見ているのか、あるいはただ魅力的な女性として見ているのか。
こんなに自分の思考が読めなくなったのは生まれて初めてだ。
「君は……俺を買いかぶりすぎている」
「そうかな」
「もし君の利益と我が王国の利益が相反するとしたら、俺は迷いなく王国を選ぶ」
そうあるべきなのだという事実に臆しているのは俺だけだった。
「それ普通でしょ? マグレディ王国の王子様なんだから」
「裏切られても怒らないのか」
「怒ることないし。っていうか、私に怒られたからって何でもないじゃん。ふふ、なんかグレッグはずっと怖がってるね」
ゲームではあんなに自信満々なのに、と楽しそうに笑う。
裏切りを想定できない無知なら戸惑うこともなかった。ヒナは俺が彼女を裏切ることも想定したうえで、それでも揺るぎない信頼を寄せてくれるのだ。
「私は戦闘能力とかないし、政治の知識も一般教養レベルだし。だから世界を守る勇者みたいなものにはなれないけど、でも私の知識はグレッグの役に立つらしいから、このゲーム知っててよかったなって思うよ」
「もし俺が間違った判断をしたらどうする?」
「間違ってるかどうかなんて結果論じゃん。誰かに怒られたら『そういうあなたが間違ってない保証はあるんですか~?』って援護射撃してあげるよ」
あっけらかんと言ってのける彼女に、俺も思わず笑ってしまった。
「分かった。君に野次など飛ばさせないよう、責任を持って判断しよう」
「よろしく!」
気負いもせずただ自然と隣にいる。まるで昔からこうして俺の隣にいたかのような錯覚が起きる。
翌朝、宿の食堂でナタリーとロベルトが意味ありげな視線を向けてくる。
「おはよう、お兄様。よく眠れました?」
「ああ」
「王子様、顔色悪いぜ。昨日も遅くまで起きてたんじゃねえのか」
「少し考え事をしていただけだ」
ヒナはまだ部屋から出てこない。昨夜は少々話し込みすぎただろうか。彼女を参謀のように扱うのは控えなければならないな。
「お兄様、ヒナと何を話していたんですの?」
「今後の戦略についてだ」
「……ふうん」
「戦略ねえ」
ナタリーは妙に嬉しそうで、ロベルトはあからさまにからかう意図がある。
誤解されているのは分かっているが、訂正するのも面倒だった。
その時、ヒナがのっそりとドアを開けて顔を覗かせる。寝癖がついた黒髪をナタリーが気軽に撫でつけるのを見て、思わず指先に力が籠った。
「おはよー……」
「おはよう、ヒナ。食堂に行きましょう」
「うん……ねむ……」
まだ半分眠っているようにふらふらと手を引かれていくヒナを見て、ロベルトが小さく笑った。
遠くに淀む森の魔力が朝の光に溶けて、一瞬だけ美しく輝いて見える。
世界が危機にあることを忘れてしまうほど容易く、日常が満ちていく。
ヒナの知る物語が結末を迎えた先にも、この日々の断片を共にしてほしいと俺が言ったら、彼女はどう答えるだろうか。




