荒野のデイジー
マグレディ王国の王城、執務室の机には国の行く末を左右する重要書類が山をなして積まれていた。
魔帝シルヴィウスの死によってブラッドムーンの呪縛は解かれ、世界の魔力は少しずつ回復の兆しを見せ始めた。三十過ぎの者たちは久方ぶりの、三十に満たない俺たちにとっては初めての世界がやってくる。
魔力涸れからの復興という前代未聞の大仕事が俺たちの前に山積していた。終わってみれば魔帝との戦いなど一瞬のことだった。これからが、明確な勝利のない長きに渡る戦いの本番だった。
執務の合間に廊下に出ると、荒野の乾いた風が通り過ぎていくのが心地よかった。
砂と岩ばかりの不毛の地。相変わらず雨は少なく、雲が晴れれば容赦のない日差しが降り注ぐ。過酷で、然れども愛しきわがマグレディ。
今は景色が少しばかり違っていた。俺の視界の中にはいつも、漆黒の髪が揺れている。
「ねえグレッグ、ランゴス卿の財務報告、三十二ページの数字が去年の税収と合ってないんだけど、これわざとなの? それとも計算ミス?」
ヒナが書類束を睨むように眺めながら言った。
「ランゴス卿なら、わざとだ。尤も悪意ではなく習慣だな。毎年少しずつ端数を切り捨てて記録を整えるのが彼のやり方で、父上の時代からそうだ」
「習慣って……。まあ累計でも大した額にならないからいいけどさ。突っつかれたら危なくない?」
「危ないよ。指摘したこともあるが、老人の習慣というものは変え難い」
「グレッグの指摘って書面に残ってる? 黙認じゃないって証明できるならいいかな」
「その辺りの抜かりはないよ。……よく気がつくな」
書類をめくる指が止まり、ヒナが顔を上げた。政を為すは人にあり――そんな言葉が出てくるくらい、彼女は政治に馴染んでいる。未だ勉強中の身だというのに、意外なほどすんなりと彼女は王宮での仕事を始めていた。
「一応現役の学生だからね! 歴史とか経済とか、ちゃんと勉強しててよかったねー。まさか異世界で役に立つことになるとは思ってなかったけど」
「君の世界の教育は恐ろしく高水準だな」
「そうなのかな? まあ、余裕があるからかもね」
「勉強が好きだったのか?」
「勉強って思うと好きじゃなかった。でも物語として読むと面白いから」
そういうものか。歴史を物語として読む目があるからこそ、この世界を現実として論理的に見ることが適ったのか。
ヒナは俺たちの“物語”を知っていながら、生身の人間としても平然と向き合えるのだ。
「しかし本当に、頭が下がるよ」
「んぇ? ランゴス卿に?」
「違う、君のことだ。この三ヵ月でよくここまで慣れた」
ヒナはきょとんとして、それからおかしそうに笑った。
「みんなが親切だからだよ」
「あの口が悪くて遠慮がないうちの者たちを親切というのは稀有な見方だと思うよ」
「分かりやすくていいじゃん。貴族ぅ~とか王族ぅ~みたいな建前ばっかり言われると分かんなくなっちゃうもん」
私は庶民だから、などと冗談めかして言う。
本音ではあるのだろう。
彼女が城の廊下を歩けば老齢の武官たちは「姫様」と孫を見るかのように声をかけ、厨房の女たちは彼女に菓子を与えて甘やかそうとする。さすがに初めは黒髪の異邦人を警戒した者もいたが、「グレゴリー殿下がようやっと身を固める気になった」という喜びが早々に勝ったようだった。
ヒナが飄々と臣下の毒舌を受け流し、時には正面から言い返すのを見て、城の者たちは口々に「マグレディの気質に合っている」と歓迎し始めた。
我が荒野の国の民はきらびやかな外面よりも実質を好む。ヒナの強い芯のある気質は、我が国に驚くほど自然と溶け込んでいた。
……いや、問題は、彼女が溶け込みすぎていることか。
「グレッグ、今夜遅くなりそう?」
「ああ。先に休んでいてくれ」
「分かった。じゃあ先に寝てるね~」
当然のように返される言葉に、俺は内心で深く嘆息した。
先に寝ている。もちろん俺の寝室で、だ。
アルカンタラを脱してマグレディ王国へ帰ってきた翌晩、ヒナは「私どこに住んだらいい?」と聞いた。俺が「とりあえず客室に案内する」と答えると彼女は「グレッグの部屋じゃだめ? 急に一人だとさみしい」と言った。まったく他意のない無防備な顔で。
だめかと聞かれればだめに決まっているのだが、理由を問われると詰まってしまった。
魔物の出る外とは違い城は安全で、しかし俺の寝室は彼女にとって最も危険な場所であるはずだ。少なくとも彼女はそう認識しているべきだった。……そう認識してほしかった。
ヒナは事実上、俺の婚約者として扱われている。それに異を唱えることもない。にもかかわらず、俺を男としてまったく意識していないのだ。
かくして俺たちは結婚前にもかかわらず寝室を共にすることとなり、どうも彼女にとっては旅の延長に過ぎないようだが、俺にとってはそんなわけにはいかなかった。
執務を終えて部屋に戻ると、約束通り先に寝ていたはずのヒナが枕に頬をつけたまま目を開けた。蝋燭の灯りに褐色の瞳が揺れている。
「おかえり、お疲れ様」
「……起きていたのか」
「グレッグが帰ってくる音したから」
ただそれだけのことで胸の奥がざわめくのだから自分が情けない。
明日も早い。速やかに寝よう。深く考えてはいけない。そう自分に言い聞かせながら彼女の体温に染まったベッドに潜り込む。
俺が隣に寝そべると、ヒナはごく当たり前のように身を寄せてきた。ふわぁと間延びした声が聞こえて視線を向ければ呑気に欠伸をしている。
彼女は何の色気も感じていない。なのに敷かれるべき境界線はなく我々の体は密着していた。
「つくづく思うのだが」
「ん?」
「君は俺にとっての女神であり、悪魔のような女性だな」
しばらく間があった。ヒナは眠そうな声で「なんでよ」と不満そうに言った。
「めちゃくちゃがんばってるよ、私」
「そうなのだが、そういうことではなく……」
「ランゴス卿の話なら明日にしようよ」
「仕事の話ではなくて」
「じゃあなんの話?」
「……いや、いい。おやすみ」
「なにそれ~」
漆黒の髪がシーツの上に散っている。こんな些細なことに悩まされているのかと思うと、我ながら呆れる。
我が妹君、ナタリーはヒナが示唆した通りアリエルの旅にくっついて城を出て行った。アリエルが魔力を取り戻すための修行の旅だそうだが、自分がアリエルを守ると言って聞かなかったのだ。ロベルトは港町へ帰り、また発明に精を出しているという。定期的に手紙が届く。面と向かわなければ素直に嬉しいと思える。
だから俺が結婚すれば妹は玉座から去ることを気にせず自分の人生を歩めるしアリエルもナタリーを連れていくことに心苦しさを感じずに済むわけでロベルトからあれこれお節介を焼かれることもないのだ。
……という言い訳を、俺は今でも時々自分に向けて口にする。その言い訳は、アルカンタラでヒナに向かって「帰らないでほしい」と言ってしまった以上、あまり意味を成していなかった。
俺には妹がいるから。ずっとそう思っていた。ナタリーがいずれ婿を取り、俺は生涯独り身で、彼女の玉座を支えるために摂政でもやればいい。そんな風に思っていた時期が、確かにあった。
愛する者を政治の世界へ引き込みたくない。そんな理性を装った怯えから、俺は自分の感情を認めることから逃げてもいた。
ヒナは俺の弱味をあっさり見抜いて、「勝手に諦めるな、ちゃんと相手に向き合ったほうがいい」と、腹立たしいほど的確な言葉が俺の願いを暴いてしまった。
「ねえ、グレッグ……」
眠りに落ちかけたと思っていたヒナが小さく呟いた。
「マグレディ王国って、どんな国になると思う? これから」
「……そうだな。ブラッドムーンが解けて、魔力が戻ってきたら、荒野にも植物が育ち始めるだろう。雨も少しは増えるかもしれないな」
「緑の多い国になるのかな」
「どうだろう。そこまでは変わらないと思うが」
砂と岩ばかりの荒野。俺が生まれ育ち、死ぬまで守り続けるこの国は、豊かさとは程遠い。だがこの国の民は折れない。どれほど乾いた土にもしぶとく根を張り、痩せた岩山に胸を張って立つ。そういう人々の国だ。
不意に思いついたことがある。ヒナはこの世界の設定を熟知しているが、ではマグレディ王国の紋章についても知っているのだろうか。
「君はうちの紋章をどう思う?」
他国の者は大抵それを「太陽」と認識する。ブラッドムーンに抗う、反骨の模様だと。しかしこの国は、シルヴィウスが空を支配するよりも前から大地に根を張っていたのだ。
「紋章? あれでしょ、デイジーの花だよね。花言葉は……平和、希望」
眠たそうなまま、ヒナは「マグレディ王国って感じだよね。荒野に咲く花みたいな国」と続ける。
「デイジーってさ……」
「ああ」
「向こうの世界、私の国では、ヒナギクっていうんだよ……」
俺をしっかり動揺させておいて、やがてヒナはすやすやと寝息を立て始めた。蝋燭が一本、燃え尽きる。
暗闇には慣れている。荒野の夜には仄かな月明かりだけで充分だ。
そして翌朝、俺はいつものようにヒナより先に目を覚まし、彼女を起こさないようにベッドから抜け出して身支度を整える。窓の外を眺めれば、朝の荒野は静かだった。
岩が朝露に濡れて鈍く光り、遠くの地平線が明るくなり始めている。
「……ん」
寝癖で乱れた黒髪がもぞもぞと動き、半分だけ目を開けたヒナが俺の姿を探した。
「おはよ、グレッグ」
「ああ、おはよう」
「また負けた~。朝早いねぇ」
「習慣だよ。……君は、二度寝してもいい」
「グレッグが起きてるのに眠ってたらもったいないじゃん」
また気軽にそんなことを言う……。
ヒナはのろのろと体を起こす。手で髪を押さえる仕草は寝癖を気にしているようで、なのに大きな欠伸を俺に見られることは厭わない。朝の肌寒さに少し体を震わせてシーツを被り直し、寝台から出ることなく窓の外を眺めた。
彼女は無防備だ。誰に対しても。だが、寝起きのこんな顔を知っているのは、この世界では俺だけだ。
「グレッグ」
「うん?」
「私、わりとやっていけてる?」
不安そうではなかった。ただ試験の点数を尋ねるかのような気軽さで。
「政治のこととか、王族のマナーとか、表面的な知識はあるけど実際には何にも知らないしさ。グレッグの隣に立つには、まだ全然足りない気がして」
「足りないと感じているうちは伸びる余地があるということだ」
「評価が甘いよ~」
「事実だ。足りないと知る者と知らぬ者ではずいぶん違う。前者のほうがずっと心強い」
納得したようなしていないような顔でうーんと唸ってから、ヒナはもう素知らぬ顔で伸びをしてベッドから這い出てくる。
あの日、アルカンタラで交わしかけた約束。城に帰ってもう一度言ってくれたら、とヒナは言った。
もう三ヵ月が経っているのに、まだ言えていなかった。
「君がここにきてくれてよかった」
「ん? ……うん」
「俺は君のことが好きだ」
「……うん!」
「返事が子供みたいだぞ」
「グレッグだって、全然かっこいい台詞じゃないよ」
慌てて枕で隠した彼女の顔が、耳が赤くなっているのが黒髪の隙間から見えた。あれほど無防備に俺の隣で眠り続ける娘が今さら照れている。
それがおかしくて、愛おしくて、俺はどうにも笑いを堪えられなかった。
「なんで笑うの!」
「笑っていないよ」
「笑ってる! もー!」
枕から目だけ出して俺を睨むヒナも、そう言いつつ笑っているようだった。目元が柔らかい。最初からずっとそうだった。彼女はどんな表情をしていても、俺に対して柔らかな感情ばかりをくれる。
「俺のそばにいてくれないか。これから先もずっと」
笑みが収まった後、俺は改めて問いかけた。
「いるよ」
いつものようにあっけらかんと、しかし揺るぎなく、ヒナは答えた。
「だって、グレッグがここにいるんだから。私はずっとここにいるよ」
それ以上でも以下でもない。ただそれだけの理由で、彼女はこの荒野に根をおろした。
「ありがとう、ヒナ」
「なんかそのお礼は変」
「変ではないだろう」
「私がいたいからいるんだもん。だからありがとうじゃなくない?」
「……妙なところで理屈っぽいな、君は」
ヒナは枕を抱えたまま、嬉しそうに笑った。
蝋燭の光もない朝の部屋で、窓から差し込む荒野の日差しが彼女の漆黒の髪を照らす。
この世界の色ではない、見知らぬ外からきた異端の黒が、マグレディの朝陽の中でただそこに在る。
「ヒナ。君は何者だ?」
問いかけた声が、自分でも思っていたよりも柔らかくなった。彼女は少し首を傾げつつ、あっさりと答えた。
「ん? グレッグの恋人だよ」
言いきってから、照れたように笑う。
異世界よりの来訪者として物語を眺めていた少女が、いつしかこの世界の住人になった。
これから先のことをヒナは知らず、俺たちの物語はどこにも書かれていない。彼女はもはや知っている者でも観ている者でもなく、ただここに、俺の隣に在る者だ。
雨の降らない不毛の地、しかしどんなに乾いた岩場にも、隙間を探して花は咲く。
俺の人生はヒナの隣にある。この愛らしくも力強い花は、これから先もずっと咲き続けることだろう。




