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最初の光

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/10/19

第一部 港町での終わり


第一章 五年、そして一つの沈黙


「ねえ、私たち、この先どうなるのかな」

土曜の昼下がり、横浜の自宅マンションで、佐藤里美さとう さとみ、32歳は切り出した。窓の外では、港に近いこの街らしい汽笛が遠く響いている。5年付き合った恋人、健太けんたの背中に向けられたその問いは、部屋の空気の中で重く、ゆっくりと沈んでいった。

里美の部屋は、健太との5年分の記憶が詰まった博物館のようだった。二人で選んだソファ、旅行先で買ったマグカップ、彼が置きっぱなしにしている読みかけの雑誌。それらすべてが、今は色褪せた展示物に見える。

健太はテレビ画面から目を離さずに答えた。「どうなるって…別に、今まで通りでいいじゃないか」

「今まで通り、って?」

「うん。仕事も順調だし、こうして週末は会えるし。何が不満なんだよ」

その言葉に、里美の心の中で何かが静かに切れた。不満、という言葉ではなかった。それは不安であり、焦りであり、そして何よりも、この穏やかで変化のない日常が永遠に続くことへの恐怖だった。結婚の二文字を口にすると、健太は決まって仕事の話や「まだそのタイミングじゃない」という曖昧な言葉で話を逸らす。その繰り返しが、もう限界だった。

32歳。会社員としてのキャリアも安定し、経済的には自立している。32歳女性の平均年収が約340万円から380万円という中で、里美の収入もその範囲内にあり、一人で生きていくことに不安はない 。横浜市内の少し中心から外れたこの1DKの部屋の家賃も、彼女の収入で十分に払っていける 。この静かな誇りが、彼女に決断を促す最後の力となった。結婚は必需品ではない。でも、同じ未来を見つめて歩いていけるパートナーシップは、彼女が心から望むものだった 。

「別れよう」

里美の口から出た言葉は、怒りや悲しみよりも、むしろ諦めに似た静けさを帯びていた。健太が驚いて振り返る。彼の顔には、なぜ、という戸惑いだけが浮かんでいた。里美は、もう何も説明する気にはなれなかった。彼女が求めていたのは、豪華な結婚式でも、誰かに見せるための指輪でもない。ただ、未来についての会話ができる、ということ。その沈黙が、二人の関係の終わりを告げていた。

健太が出て行った後の部屋は、がらんとしていた。しかし、その静けさの中に、里美は息苦しさからの解放を感じていた。不確かな未来を選ぶことは、確実に行き止まりの現在に留まるより、ずっと希望があるように思えた。


第二章 自由の輪郭


別れから数週間が経った。里美は、自分の時間と空間を取り戻す作業に静かに没頭していた。週末は、予定を詰め込むのではなく、自分自身を再発見するための時間に充てた。

ある晴れた日、彼女は一人で山下公園を訪れた 。ベンチに座り、港を出入りする船を眺める。隣のベンチでは若いカップルが楽しそうに話していて、一瞬、胸がちくりと痛んだ。だが、その痛みはすぐに潮風に溶けていき、代わりに穏やかな安らぎが心を満たした。健太とは何度も歩いたこの公園も、一人で訪れると全く違う景色に見える。

週末には、横浜赤レンガ倉庫へ足を運んだ 。健太と一緒の時は入らなかったような、個性的な雑貨を扱う店を時間をかけて見て回る。カップヌードルミュージアムでオリジナルのカップヌードルを作ってみたり、キリンビール横浜工場を見学したりと、少し風変わりで、完全に自分のためだけの時間を楽しんだ 。

心の中には、失われた5年間への悲しみと、脚本のない日々への期待感が同居していた 。横浜ランドマークタワーの69階にある展望フロア「スカイガーデン」から横浜の街並みを一人で見下ろした時、彼女はそう感じた 。かつてはロマンチックなデートスポットとして見ていたこの場所が、今は自分の人生を新しい視点から見つめ直すための展望台に思えた。元町のカフェで静かに本を読んだり、中華街の喧騒の中に身を置いてみたり 。匿名でいられる自由が心地よかった。

横浜という街は、彼女の過去の恋愛の背景だった。しかし今、この街は彼女の独立の舞台へと変わりつつあった。思い出の場所を自分の足で訪れ、新しい意味を与えること。それが、彼女が前に進むための、静かだが必要な儀式だった。焦りはない。良い人がいれば、また恋もしたい。でも今は、この自由の輪郭を、もう少しだけ確かめていたかった。


第二部 新しい信号


第三章 出会い


その日は、ありふれた業務の一環として取引先を訪問した。いつもの担当者が不在で、代わりに現れたのが、高橋奏たかはし かなでだった。落ち着いた、けれど芯のある声で話す彼には、集中力の高い空気があった。

打ち合わせは滞りなく、効率的に進んだ。彼の的確な説明と、時折見せる柔らかな笑顔に、里美は自然と引き込まれていた。仕事の話が終わり、雑談に移った時、二人の間にあったプロフェッショナルな空気がふわりと解けた。特定のソフトウェアへの共通の不満、オフィスのコーヒーメーカーで淹れるコーヒーの味について。そんな些細な話題で、会話が弾んだ。

里美が席を立とうとした時、奏がごく自然に言った。 「さっき話していた記事のリンク、もしよろしければ後でお送りしますよ。どの方法が一番スムーズですか?」

それは、ビジネスシーンにおける連絡先交換の、完璧な口実だった 。強引さがなく、相手に断る隙を与えない、スマートな提案。里美は少し驚きながらも、「じゃあ、LINEでお願いできますか」と自分のQRコードを見せた。

彼の職業は営業職で、30代前半。安定した収入と、整った身なりからは、自分の人生をしっかりとコントロールしている大人の男性の印象を受けた 。それは、未来を先延ばしにし続けた健太とは対照的だった。もちろん、そんなことで惹かれたわけではない。ただ、その揺るぎない佇まいが、心地よく感じられただけだ。


第四章 違う種類の待ち時間


奏との出会いは、里美の日常に新しい色を添えた。デスクの上のスマートフォンが、今では小さな期待の光を宿している。最初のメッセージは、約束通り記事のリンクと共に届いた。「お役に立てば嬉しいです。そういえば、あの後のコーヒー、美味しかったですよ」。

最初は業務連絡に少しだけ温かみを加えたようなやり取りだったが、次第に頻度を増し、個人的な内容へとシフトしていった。週末の過ごし方、好きな音楽、横浜でお気に入りの場所。メッセージを交わすうちに、彼のユーモアのセンスや、思慮深い一面が見えてきた。

里美は、自分の変化に気づいていた。スマートフォンの通知音に、心が小さく跳ねる。画面に表示される彼の名前に、口元が緩む。何年も感じていなかった、神経をくすぐるような興奮。32歳という年齢は、20代の頃の恋愛とは違う、ある種の自己認識をもたらす 。リスクを恐れる気持ちと、それでもこの新しい繋がりを大切にしたいという希望が入り混じる。

健太との関係の終わりは、コミュニケーションの行き詰まりが原因だった。未来についての対話がなかった。それに比べ、奏とのメッセージのやり取りは、一つ一つが小さな約束を果たしていくような感覚があった。彼の返信はいつも丁寧で、里美の言葉をきちんと受け止めてくれているのが伝わってくる。

待つ、ということ。かつては、いつ来るかわからない「その時」を待っていた。今は違う。次に届く、ささやかで、けれど確かな喜びを運んでくるメッセージを待っている。その違いが、里美の心を軽くしていた。


第五章 最初の食事


数日後、奏から「もしよかったら、近いうちに軽く食事でもどうですか」と誘いがあった。二人は横浜駅近くの、賑やかすぎず、かといって堅苦しくもないレストランで会うことにした。横浜ベイクォーターのような、会話を楽しむのに最適な場所だ 。

デジタルな文字のやり取りで感じていた心地よさは、現実の世界でも変わらなかった。仕事の話から始まり、趣味、横浜での思い出へと、会話は途切れることなく続いた。その自然な流れの中で、里美は最近別れたばかりだと打ち明けた。同情を引くためではなく、自分の今の状況を正直に伝えたかったからだ。奏は静かに耳を傾け、詮索することなく、ただ共感を示してくれた。そして、彼自身の過去の恋愛についても少しだけ話してくれた。

テーブルを挟んで向かい合う彼の瞳に、店内の照明が優しく反射している。その眼差しに、里美は確かな居心地の良さを感じていた。

店を出て、夜風が心地よい駅までの道を歩く。別れ際に、奏が言った。 「すごく楽しかったです。来週末、仕事で湘南の方まで車で行く用事があるんです。もし里美さんが暇なら、一緒に街を抜け出しませんか? 海の見える場所、とか」

その誘いは、彼のはっきりとした意思表示に聞こえた。曖昧さを嫌う里美にとって、そのまっすぐな言葉は嬉しかった。それは「あなたともっと長い時間を過ごしたい」という、明確なサインだった。長年の停滞から抜け出した彼女の人生が、また一つ、新しい方向へと舵を切った瞬間だった。


第三部 海へのドライブ


第六章 海岸線の道


ドライブの日、空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。奏の運転する車の助手席に乗り込むと、彼が選んだ心地よい音楽が流れていた。横浜のビル群を抜け、国道134号線に入ると、景色は次第に開放的になっていく 。

里美は、ハンドルを握る奏の横顔を盗み見た。リラックスした、それでいて自信に満ちたその姿に、なぜか安心感を覚える。車という密閉されたプライベートな空間が、二人の距離をさらに縮めていく。会話は、以前よりも深く、個人的なものになっていた。時折訪れる沈黙も、気まずさはなく、ただ窓の外を流れる景色を共有する心地よい時間となった。

そして、その瞬間は訪れた。 鎌倉の材木座エリアに差し掛かり、短いトンネルを抜けた途端、視界が爆発するように開けた。紺碧の海と空が、フロントガラスいっぱいに広がる 。思わず「わぁ」と声を上げた里美に、奏が笑いかける。その共有した感動が、二人の心を強く結びつけた。

車は海岸線に沿って滑るように進む。稲村ヶ崎の丘を越えると、真正面に江の島と、その向こうにうっすらと富士山のシルエットが見えた 。前に進む車の動きが、停滞していた自分の人生が再び動き出したことの物理的な証明のように感じられた。


第七章 景色の見えるランチ


奏が車を停めたのは、材木座の海岸沿いにある「海沿いのキコリ食堂」だった 。活気のある、それでいてどこか素朴な雰囲気の店。テラス席からは、きらきらと光る海が一望できた。

彼らは、店の名物だという「おすすめ全部のせ切り株定食」を注文した 。大きな木の切り株のようなプレートに、鎌倉野菜のかき揚げ、三崎マグロのレアカツ、湘南釜揚げしらすのミニ丼、みやじ豚のトンテキが彩りよく並んでいる 。

「すごいね、これ」と里美が笑うと、奏も「どれから食べるか迷うな」と楽しそうだ。 一つのプレートから料理を取り分け、シェアする。その何気ない共同作業が、親密な空気を作り出す。彼が「このレアカツ、美味しいよ」と自分の皿から一切れ、里美の小皿に移してくれる。その時、指先がふと触れ合った。

里美は、その瞬間に、はっきりと自覚した。 海からの光を受けて話す彼の姿、優しい声、穏やかな笑顔。そのすべてが、自分の心の深い場所にすとんと落ちてくる。 (好きだ) その思いは、雷に打たれたような衝撃ではなく、じんわりと全身に広がっていく温かい確信だった。5年間の恋愛の終わりがもたらした心の空洞を、この人が静かに、でも確実に満たしていく。その事実に、里美は喜びと同時に、少しの怖さを感じていた。


第八章 疑念の響き


湘南での一日は、夢のように完璧だった。その余韻は、週が明けても里美の心を温め続けていた。仕事中も、ふとした瞬間に奏の笑顔が浮かび、一人で頬を緩めてしまう。

そんな時だった。会社の同僚との雑談で、偶然、奏の話題が出た。彼の会社と取引のある同僚は、彼を褒めちぎった。 「高橋さん、すごく仕事できるし、感じもいいよね。うちの会社の女性陣にもファンが多いんだよ。彼のこと狙ってる子、一人や二人じゃないって聞くし」

何気ないその一言が、里美の心に小さな棘のように刺さった。せっかく芽生えた自信が、しゅるしゅると萎んでいくのを感じる。そうだ、彼は素敵な人だ。自分だけがそう思うはずがない。自分は、その他大勢の中の一人に過ぎないのかもしれない。32歳という年齢、一度恋愛に失敗したという事実が、重くのしかかってくる 。もっと若くて、魅力的な女性たちが、彼の周りにはたくさんいるのだろう。

一度芽生えた疑念は、暗い影のように心を覆い始めた。あの日のドライブも、食事も、彼にとっては特別なことではなかったのかもしれない。そんな不安が、さざ波のように静かに、だが絶え間なく押し寄せてきた。


第四部 冬の冷気


第九章 クリスマスの誘い


心に巣食った疑念を振り払うように、里美は自ら行動することを決意した。街はすっかりクリスマスムードに染まっている。みなとみらいエリアは「ヨコハマミライト」と名付けられたイルミネーションで、青とゴールドの光の海に沈んでいた 。この魔法のような景色を、彼と一緒に見たい。

スマートフォンのメッセージ画面を開き、文字を打ち込んでは消し、また打ち込む。指が、送信ボタンの上で何度もためらった。これは賭けだ。もし断られたら、今のこの心地よい関係さえ壊れてしまうかもしれない。でも、このまま不安を抱え続けるよりはいい。

彼女は深呼吸を一つして、送信ボタンを押した。 「こんばんは。みなとみらいのイルミネーション、今年すごく綺麗みたいだね。もしよかったら、クリスマス近くにでも、一緒に見に行きませんか?」

それは、彼女のこれまでの人生で、最も勇気のいる行動の一つだった。かつて、関係の前進を待つ側だった彼女が、今、自ら未来への一歩を踏み出そうとしている。返信を待つ数分間が、永遠のように長く感じられた。


第十章 光の中の拒絶


返信は、思ったより早く来た。しかし、その内容は彼女が望んだものではなかった。 「お誘いありがとう。すごく綺麗だろうね、僕も行きたいんだけど…ごめん、クリスマス前後はどうしても外せない予定があって」

丁寧な、けれど有無を言わせない言葉。そして、それ以上の説明はなかった。里美の心臓が、冷たい水に沈んでいくような感覚に襲われた。最悪の想像が、現実になった。外せない予定。それはきっと、本命の彼女と過ごすためのものだ。同僚の言葉が、頭の中でリフレインする。

その時、彼女はちょうど汽車道を歩いていた。周りでは、きらびやかなイルミネーションを背景に、幸せそうなカップルたちが写真を撮っている。大観覧車「コスモクロック21」が放つ色とりどりの光が、今はひどく冷たく、彼女を嘲笑っているように見えた 。

自分がなんて愚かだったんだろう。舞い上がっていたのは自分だけだったのだ。里美は、崩れ落ちそうな心を必死で支えながら、平静を装って返信した。「そっか、わかった。気にしないで!」。その短いメッセージを送るだけで、全身の力が抜けていくようだった。


第十一章 年の最後の日


クリスマスから大晦日までの数日間は、灰色のもやがかかったように過ぎていった。街からクリスマスの装飾が消え、新年の準備が始まっている 。その風景の変化が、奏との関係が終わったことを象徴しているようだった。

もう彼から連絡が来ることはないだろう。里美はそう諦め、静かに一人で新年を迎える準備をしていた。大掃除を終え、買ってきたおせちを重箱に詰めながら、過ぎていく一年に思いを馳せる。辛い別れもあったけれど、新しい出会いに心ときめいた瞬間もあった。たとえそれが、短い夢だったとしても。

12月31日の午後。すべてを諦めきった彼女のスマートフォンが、静かに震えた。画面に表示されたのは、もう見ることはないと思っていた名前だった。

「高橋 奏」

メッセージを開くと、そこには短い一文があった。 「すごく急で申し訳ないんだけど、今夜、もし空いてたら初詣に行きませんか?」


第五部 最初の光


第十二章 真夜中の待ち合わせ


里美は、驚きと戸惑いの中で「行きます」と返信していた。二人は、初詣の定番であり、縁結びの神様としても知られる鎌倉の鶴岡八幡宮で会うことにした 。

年越しの瞬間を間近に控えた境内は、凄まじい熱気に包まれていた。屋台から漂う甘く香ばしい匂い、人々のざわめき、そして厳かな神社の空気。その中で奏の姿を見つけた時、里美の心は緊張で張り詰めていた。クリスマスのこと、聞くべきか、聞かざるべきか。

二人は言葉少なに人波をかき分け、本宮へと向かう。拝殿で並んで手を合わせ、新しい年の幸せを祈った。そして、おみくじを引く 。里美は「吉」、奏は「中吉」。そこに書かれた言葉を読み合いながら、少しだけ二人の間の空気が和んだ。鶴岡八幡宮が、源頼朝と北条政子という仲睦まじい夫婦ゆかりの地であることを、里美はふと思い出した 。この場所が、何か良い方向へ導いてくれるかもしれない。そんな淡い期待が胸をよぎった。


第十三章 クリスマスの理由


参拝を終え、人混みを抜けたところで、奏が言った。 「このまま、横浜に戻って初日の出を見に行かない?」

彼の提案に、里美は頷いた。向かう先は、横浜港の大さん橋国際客船ターミナル。初日の出の名所として知られる場所だ 。

タクシーで横浜へ戻る途中、午前0時を迎えた。港に停泊している船という船から、一斉に汽笛が鳴り響く。「除夜の汽笛」だ 。低く、長く、厳かなその音色が、古い年を送り出し、新しい年の訪れを告げていた。その幻想的な響きに包まれながら、二人は大さん橋に到着した。

夜明けまでにはまだ時間がある。冷たい海風が吹くデッキのベンチに座り、温かい缶コーヒーを手にすると、奏が静かに口を開いた。 「クリスマスのこと、本当にごめん。ちゃんと言えなかったんだけど…」

彼は、少し躊躇いながら話し始めた。彼の妹が、クリスマス直前に難しい手術を控えていたこと。家族みんなで病院に付き添い、彼女を支えることが、彼にとっての「外せない予定」だったこと。まだ知り合ったばかりの里美に、そんな重い話をして負担をかけたくなかったのだと。

彼の言葉は、里美の心の中にあった疑念や不安を、すべて溶かしていった。彼が見せたのは不誠実さではなく、家族を思う優しさと、自分への配慮だった。その事実に、安堵と共に、彼への尊敬と愛情が深く、強く込み上げてくるのを感じた。


第十四章 最初の光


夜が明け始め、空が白んでくる。二人は、大さん橋の「くじらのせなか」と呼ばれるウッドデッキの先端に立っていた 。周りには、同じように初日の出を待つ人々が静かに集まっている。

冷たく澄んだ空気の中、奏が里美の方を向いた。 「この数ヶ月、色々大変だったんだけど、里美さんと過ごす時間が、本当に明るい光みたいだった」 彼は、里美の目をまっすぐに見つめて言った。 「好きです。もしよかったら、これから一緒にいてほしい」

その告白と同時に、水平線の向こうから、燃えるようなオレンジ色の光が一条、差し込んだ。2025年の、最初の太陽 。その光が、みなとみらいのビル群を照らし、海面を金色に染め上げていく。一週間前には自分を打ちのめしたこの景色が、今、二人の未来を祝福しているようだった。

里美の瞳から、一筋の涙がこぼれた。それは悲しみの涙ではなく、喜びと安堵が溶け合った、温かい涙だった。 「私も、好きです」

奏が、彼女の冷たくなった手をそっと握る。その温もりが、心にまで伝わってきた。二人は言葉もなく、ただ昇りくる太陽を見つめていた。新しい年が、そして新しい関係が、今、目の前で静かに幕を開けた。


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