裏切り者 23
ドドドドドドドドドドドーーーー!
ラインは、四間程もありそうな大きな一枚岩の、そのゴツゴツと尖った先端部に立ち、眼下に流れる川を眺めていた。普段はゆったりと流れ、鳥や獣達の静かな水飲み場となっているそれは、今は地を震わせる程に激しく、大きな音を上げながら、ラインのすぐ足元を上流から下流に向けて勢いよく流れている。もうすっかり上がってしまってはいるが、先程までの土砂降りの雨のせいで、川の水は濁り透明度は限りなくゼロに近い。しかし、その濁った水の中で、何かがキラリと光り輝いたような気がして、ラインは目を細めた。
「少しやりすぎたんじゃないか?」
突然後ろから声を掛けられたが、ラインはそちらへ顔も向けずにじっと川の中の光りを見つめ続けていた。別にわざわざ振り向かなくとも、声の主が誰かは分かっているのだ。
「そうかな? 私はそうは思わないがな、――グッターハイム」
(水大蛇か――)
水の中で光り輝いていたのは、水大蛇という、川に住む大きな蛇のウロコだと気付いて、ラインは一人心の中で得心した。
「あまりにも――酷じゃないか。トンフィーは、ただ母親に対する深い愛情でやっただけだろう?」「………………」
ラインは答えずに、水大蛇の時折水面にわずかに覗かせるキラキラとしたウロコを眺めていた。
(珍しい物を見た……)
水大蛇は普段は川の深い所に穴を掘りじっとそこで生活をしているので、めったに人の目にはふれないのだ。しかし、今日のように大雨が降ったりして水がとても濁っている時などは、ごくまれに穴から出てきたりする。
めったに見られない水大蛇を見た事で、何だか得をした気になってラインは小さく片頬を上げた。それを見て、グッターハイムは眉を潜める。
「――トンフィーの父親は、トンフィーが物心付く前にあの戦争で死んじまった。勿論、お前も良く知っているだろう? お前の部下だったんだからな」
「だからなんだ?」
やはり目線は川に向けたままに、ラインは不機嫌そうに問い返した。それは、余り良い思い出とは言えないのだ。
「だから――トンフィーは幼い頃からからずっと母親と二人で生きてきたんだ。……母親に対する愛情が人一倍なのも当然だろう?」
「だからといって許されない物は許されないのだ」ラインは川から視線を外し、ようやく後ろを振り返った。「可哀想だと甘やかす事が、彼の為になるとは思えない」
ラインの青い瞳に真っ直ぐに見つめられて、グッターハイムは少し困ったような顔をした。
「そんなに悪い事か? ――確かに、プラムを騙して書かせたあの手紙には驚いたが……。あれだって普通の子供ならおよそ考えつかないぞ。あいつは少し頭が良すぎるんだ。だから、色々考え過ぎちまう」
グッターハイムは呆れたような、それでいて少し感心したような顔で首を横に振っている。
「だからこそ余計にだ」
ラインは視線を川に戻した。しかし残念ながら、水大蛇の美しいウロコの輝きは消え失せてしまっていた。
「どういう事だ?」
グッターハイムの不思議そうな声を背中に受けながら、ラインは少し残念に思って濁った川を見つめた。
「普通の子供はあんな事を思い付かない。あの子は人より抜群に頭が良い。――ならばこそ余計に厳しくしなくてはいけない。彼が人よりも能力が高ければ高いほど、人よりも余計に学ばせ、間違いを犯さない人間に育てなければならない」
それは何だかとても非情な言葉に感じてしまい、グッターハイムは顔をしかめた。
「酷だな……。好きで優れた人間に生まれてきた訳ではあるまいに」
「人とはそういうものだグッターハイム。――いや。生命とはそういうものだろう。誰もが生まれたい環境、生まれたい姿、生まれたい存在として生まれてくる事は出来ないのだ。不満や不安を抱えながら、出来る限り成りたい存在に近づくべく努力して生きて行くより仕方無いのだ。そして、その成りたい存在というのがおかしなものになら無い様に、我々大人――つまり、少しでも長く生きて学んだ者達が子供達を導いてやらねば――」
「それはエゴではないのか?」グッターハイムがするどい声でラインの言葉を遮った。珍しく顔付きも厳しいものになっている。「成りたい存在など……。そもそも、人間がどうあるべきかなど決まりがあるのか? 成るべき存在に導いてやるなど傲慢ではないのか? それは、メルメルやトンフィーが目指すべき大人の姿などでは無く、お前が成って欲しい――そう。それぞれの大人が自分の都合に合わせて成って欲しい理想を押し付けているだけだろう。だから子供達は迷い、苦しむのだ」
「……………………」
会話が途切れ、二人は厳しい顔のまま、しばし見つめ合った。
(エゴか……)
ラインはふと口元を緩めた。
「確かに――お前の言う通りだ。私の言っているのはエゴであり、自分の理想を押し付けているのに他ならないのだろう。ただ……グッターハイム。私は、あの子がそもそも持っている――いや、ソフィーがそのように育てたのか――トンフィーの、とても優しく暖かい心が、大好きなのだ」
ピチャリと背後で水音がして、ラインはゆっくりと後ろを振り返った。そこには、体の上半分を水面から出して優雅に泳ぐ、小さな竜の姿があった。
(……水竜だったか)
水大蛇より、もっとずっと珍しい生き物だ。ラインは自分の勘違いと、希少な水竜を見られた幸運にふと笑った。
「だから――その、優しく暖かい心を無くして欲しくないだけなのだ。そして、人よりも優れた能力、素晴らしい才能が彼からそれを奪って仕舞うかも知れないのが、怖いのだ」
「――考え過ぎではないのか?」
「勿論、危惧かも知れないが……。でもグッターハイム、人は力を持ちすぎるとそれに溺れがちになってしまうと私は思うんだ」
「……そうかも知れないな」
良く見てみると水竜は泳ぎに力強さがなく、ウロコの輝きもあせていた。ラインが水大蛇と間違えたのもそのせいかも知れないし、そもそも水大蛇と違って、水竜は水の澄んだ大きな湖などに住んでいるものだから、こんな濁った川にいる事自体がおかしいのだ。
(迷いこんだのかも知れないな……)
良く見れば、まだ子供の様だ。
(仲間とはぐれたか)
寂しそうに彼方を見ている水竜の横顔に、小さな男の子の横顔が重なって見えた。




