裏切り者 20
雨は相変わらず降り止まずに、逆に勢いを増してきてしまった様だ。しかしトンフィーは、そのおかげで少し助かったと思っていた。この激しい雨なら、自分がどんな顔をしているのか、皆に良く見えないからだ。
「……うっ……うっうっ……」
トンフィーは、雨に濡れてぺったりと顔に張り付いている前髪の隙間から、呻き声の主の方を見た。ペッコリーナ先生が肩を震わし、両手で顔を覆っていた。
「うっうっ……ソフィー。あぁ……何てこと……ううっ」恐らく泣いているのだろう。
(そうだよね……。ペッコリーナ先生は、母さんととても仲が良かった)
最後まで相談もしなかったことを申し訳なく思って、トンフィーは俯いた。
「ソフィーは、悪魔の兵隊になっちまったのか……」
グッターハイムが呟き、トンフィーは顔を上げてそちらを見た。
「それで……お前は……トンフィー。ずっとそれから、悪魔の兵隊になっちまった母親と暮らして来たのか?」
ペッコリーナ先生もハッとした様に顔を上げ、トンフィーを見た。
「……そうさ。二日前家を出るときも、母さんは何時もと変わらずリビングの椅子に座っていた。僕が出かけて来ると言っても、どこに行って来るのかも聞かなかった。――あっそう。そう一言、言っただけ。夜中に子供が出かけて行くのに……。あっそうって、たった一言……」
「トンフィー……ぐすっ」
ペッコリーナ先生は、可哀想な教え子を抱きしめようと、顔をくしゃくしゃにしたトンフィーの方へと両手を広げ歩み寄った。
「お前の望んだ通り、母親はちゃんと生き返った訳だな――悪魔の兵隊として」
相変わらず感情の無い様なラインの声音に、トンフィーは唇を噛んでそちらを見た。
「ぼ、僕は、悪魔の兵隊として母さんが生き返る事を望んでなんかいなかった」
悔しそうな顔で言うと、ペッコリーナ先生も、そんなトンフィーを援護するかのようにラインの方を見た。
「そうよライン……。以前と変わらぬソフィーならともかく――悪魔の兵隊としてなんか――誰が生き返ってほしいものですか」
「だが、悪魔の兵隊としてしか復活しない事は分かっていた事だろう?」
冷たい声にトンフィーは頬をひきつらせた。他の大人達は――ペッコリーナ先生は勿論、トンフィーの事が可哀想で堪らないといった様子だし、口出しせずにはいるがニレもそれと同じような顔をしている。グッターハイムですら憐れむ様な目をしているのだ。しかし――ラインだけは全くそういった様子は無く、同情どころか責める様な目をしている。
「ライン……。トンフィーだって辛かったのよ。大好きなお母さんが死んでしまったのよ?」
ペッコリーナ先生が庇うように言っても、ラインは全く心を動かされた様子がない。
「大好きなお母さんを失わない為に、大切な友人の祖父を騙したのか。――危害が及ばないとも限らないのに」
この言葉に、トンフィーは深く俯いた。メルメルが、自分の事を怒りに満ちた目で見ているんじゃないかと思って、強く握り締めた拳にも、雨でびしょ濡れの背中にも、どっと汗が浮かんできた。
「まさかプラムがさらわれるなんて考えもしなかったんだろうさ。確かにあの手紙にゃあ驚いたが……。必死で考えたんだろう。母親を助ける為に」
「――助ける?」ギロリ、とラインはグッターハイムを睨み付けた。「助ける……か。それでは聞くぞトンフィー。お前は、ソフィーが悪魔の兵隊として新たに命を得た事を、喜んだと思うか?」
トンフィーは青白い顔で、ラインから遠ざかる様に一歩下がった。
「だからライン……。トンフィーは悪魔の兵隊がどんな存在だか良く分かっていなかったんだよ」
グッターハイムの言葉を後押しするように、ペッコリーナ先生が大きく頷いた。
「そうよ。それに、トンフィーは土壇場で止めようと思ったって言ってたじゃない。無理やり手紙を奪われて――そりゃあ驚いたでしょうね。まさかブラッドが……」
ペッコリーナ先生は顎に指を当てて首を横に振った。
「確かにすっかり騙されたもんだ。まさか奴が裏切り者だとはな……。ブラッドの事は何とかしないとな」
グッターハイムがニレに意味ありげな視線を投げると、ニレはその意思を汲み取って頷いた。
「直ぐに隠れ家に使いを出しておきます」
ニレは馬の方に走って行った。トンフィーはぼんやりとその様子を目で追った。恐らく、手紙か何かをウォッチに持たせるのだろう。
「だから、ねぇライン。そんなに責めないであげて。最後はいけない事だと気付いて止めようとしたのに、あの女性――ベラメーチェだったかしら? 彼女が無理やり命の石を使ったんだもの。トンフィーは止めてくれって言ったのに……。――ね? トンフィー」
ペッコリーナ先生は首を傾けて、優しい顔でトンフィーに問いかける。トンフィーは無言で更に深く俯いた。
「――そうか。では、メルメルにそう言って謝ったらどうだ?」
「………………」
ラインに言われて、トンフィーはギュっと目を瞑った。――顔を上げる事が出来ない。
「メルメルだって分かってあげられるわよね? トンフィーに悪気はなかったのよ……」
「そうさ。プラムの事は不幸だったが、トンフィーを責めても仕方無いだろ」
ペッコリーナ先生とグッターハイムに揃って見つめられ、メルメルは困った様な顔になった。
「ワタシは――」
メルメルはトンフィーの方を見た。トンフィーは――メルメルに背を向け俯いたままだ。
「たとえ悪気がなかったにしても、結果としてメルメルに迷惑をかけたんだ。――一言謝った方がいいのじゃないか?」
ラインは、がっくりと肩を落とし俯いた少年を見下ろした。しばらくの沈黙の後、消え入りそうな小さな声が聞こえてきた。
「メルメル……ごめんね。……僕……僕……」
雨が大分小降りになってきていた為に、その小さな声も全員の耳にちゃんと届いた。ペッコリーナ先生とグッターハイムは顔を見合わせ、ホッとしたような顔で、うんうんと頷き合っている。
「トンフィー」
冷たい声が頭の上から振ってきて、トンフィーの心の中に、ソフィーの最後の言葉が蘇った。
――負けないでおくれ、トンフィー。
トンフィーは顔を上げて、ラインの顔を見つめた。
「トンフィー。メルメルの方を向いて、メルメルの目を見て謝るんだ」
全てを見透かす様な青い瞳に見つめられて、トンフィーは唇を震わせ、ゆっくりと後ろを振り返った。
「……トンフィー」
全く曇りない二つの目が、真っ直ぐにトンフィーを見返してきた。そこに非難の色は浮かんでいなかった。
「メルメル――僕は……」
次の瞬間、トンフィーはその瞳から大粒の涙を溢れ出させた。
「トンフィー……」
メルメルは驚いて目を見開いた。トンフィーは弱虫で、ちょっとした事にすぐ泣きそうになるが、実際には一度もメルメルの前で涙を流した事は無かったからだ。
「メルメル……。本当は、僕は――分かっていたんだ……」
トンフィーの言葉を聞いて、ラインはゆっくり瞳を閉じ、まるでひどく安堵したかのように深く息を吐いた。
「本当は……あいつらがレジスタンスのリーダーを、話し合いの為に誘き出すつもりじゃ無い事も……。命の石を使ったって――そんな物使ったって――母さんが元通りに生き返らない事も。そして――」
メルメルは驚いたような顔で、じっとトンフィーを見つめていた。ペッコリーナ先生とグッターハイムも、口出しを出来ずに二人の様子を見守っている。
「うぅ……。そして……おじいさんに……ひっく。もしかしたら、メルメルのおじいさんに、危害が及ぶかもしれない事も……うっうっ……そ、それでも、それでも僕は――」
涙で顔をぐちゃぐちゃにするトンフィー。ペッコリーナ先生が同じように涙で顔をぐちゃぐちゃにして、そちらに歩み寄ろうとした。しかし、ラインが無言でその手を引いた。
「うっく……。母さんを、甦らせたかった……一人になりたくなかった。だ、だから――」
ペッコリーナ先生は眉根を寄せてラインを振り返った。ラインは、黙って首を横に振った。
「だから……。うっうっ……頼んだんだ、あの女に……。ひっく……僕が――」
グッターハイムが顔をしかめる。「……頼んだ?」
トンフィーはメルメルから視線を外さずに、こくりと頷いた。
「……僕が……ひっく。頼んだんだ……。――命の石を使って、母さんを――」トンフィーはギュッと瞳を閉じて、大声で叫んだ。「復活させてくれって!」
突然、ずっと真っ黒な雲に隠れていた太陽が顔を出して、そのあまりの眩しさに、メルメルは強く瞳を閉じた。




