裏切り者 16
しとしとと雨は降り続いていた。空を見上げれば、真っ黒な雲が凄い速さで流れている事に気付くだろうし、遠くの方では青空が広がっているから、恐らく雨は一時的なものだという事が分かるだろう。だが、誰一人空を見上げる余裕のある者はおらず、人も猫も黙ってビショ濡れになっていた。
ト ンフィーの長い話が終わると、雨の音の他には、時々ズズーッとペッコリーナ先生が鼻をすする音しか聞こえなくなってしまった。トンフィーは話の途中で、一度だけチラリとメルメルの顔を覗き見たが、呆けたように遠くをみていて何を考えているのか読み取れなかった。一番信頼していた親友に裏切られた事によって湧き上がってくる感情は、怒りか――悲しみか。いずれにしても、トンフィーはもうメルメルの顔を見る勇気が持てなかった。
「それで、その……。――結局どうなったんだ?」
静寂を打ち破り、おずおずとでも初めに口を開いたのは、グッターハイムだった。彼も騙されて呼び出された被害者という事になる訳だが、その瞳にトンフィーを非難するような色は浮かんでいなかった。声には同情するような響きさえある。
「どうっ、て……」トンフィーは俯いたまま、上目使いにグッターハイムを見た。
「だから、いや。――ほら、結局、あれだ。――その後」
「ソフィーは命の石を使ったの? ……ズズーッ!」
煮え切らないグッターハイムにしびれを切らして、ペッコリーナ先生が後の言葉を引き取った。トンフィーは黙って俯いている。
「そ、それは、今はいいじゃないですか!」
萎れたトンフィーの様子が不憫で、庇うようにニレが言った。ペッコリーナ先生とグッターハイムは思わず顔を見合わせる。
「た、確かに。まぁ、事情は分かったしな」
「そ、そうね……。話はこれくらいにして、雨も強くなってきたし――」
「そうはいかない」
凛とした声に、思わず全員がそちらを見た。相変わらずの無表情で、ラインはトンフィーを見つめている。
「ちゃんと続きを聞こうじゃないか。さぁ、話すんだトンフィー」
「ら、ライン。今は――今はまだいいじゃない」冷たい声に、ペッコリーナ先生は困った顔になる。
「良くはない。曖昧にしておいて良い事ではない。――話すんだトンフィー」
「まぁまぁライン。トンフィーにとっても辛い事情があったんだから……。ここまで聞けば十分さ。続きはまたいずれ聞けば良いさ」
グッターハイムはトンフィーの横に立って、その背中を優しく叩いた。トンフィーは深く下を向いている。大人達からはその表情が見えない。
「私は親友の末路が知りたい」
トンフィーはパッと顔を上げてラインを見た。――涙はまったく流れていない。色の薄い茶色の瞳で、睨むように相手を見ている。ラインはそんなトンフィーの目を真っ直ぐに見つめ返した。
先に目を逸らしたのはトンフィーだった。
ペッコリーナ先生はラインに歩み寄った。「ライン……。気持ちは分かるけれど今は――」
「話すよ」
トンフィーが呟き、今度は全員そちらに目を移した。
「どうせここまで話したんだから一緒さ……。みんなが気になって仕方ない部分を話すよ」
半笑いで、まるでヤケになったようなトンフィーの様子に、ペッコリーナ先生は眉根を寄せた。
「そうだな。全て包み隠さず話して貰おう。それから――不思議な事がまだある」
「不思議な事?」ペッコリーナ先生が首を傾げてラインを見る。
「グッターハイム宛ての手紙を、どうやって本人に届けさせたのかという事さ」
ラインの言葉に、グッターハイムが大きく頷いた。
「言われてみれば確かにそうだな。一体どうやって――」
「裏切り者がいたんだ」
再び皆がトンフィーを見た。その目は少し虚ろだ。
「僕だけじゃなくてね。他にも裏切り者がいたんだ」
「裏切り者……」
ハッとして、全員その声の主を見た。ずっと黙ったままだったメルメルが、初めて口を開いたのだ。トンフィーは慌てて下を向いてしまった。
「裏切り者、か。――なるほどな。では、先を聞こうか」
ラインに促され、トンフィーはゆっくりと顔を上げた。メルメルは澄んだ瞳で真っ直ぐにトンフィーの事を見つめていた。
メルメルの家からトンフィーの家は歩いて二十分くらいの場所にある。それを軽やかな足取りで十五分くらいに縮めて歩きながら、トンフィーは最近になく穏やかな気持ちになっていた。アケを抱く手と反対の手に持っている紙袋から、ほんわりと暖かさが伝わってくる。
(母さん喜ぶかな……)
ソフィーは夕べから意識がなかったが、何となく目を覚ましそうな気がしていた。プラムじいさんの優しい暖かさに触れて、トンフィーはここの所の苦しみからわずかに解放され、気持ちも前向きになっていた。ふと鞄の中に入っている手紙の事を思い出す。
(………………)
帰り道、何度となく破ってしまおうかと思いながらも、結局踏み切れずにいた。
(……家に帰ったら捨ててしまおう)
トンフィーが強く決意して誰にともなく一人頷いた時、丁度あの曲がり角にさしかかった。しかし、いつものように悲しい気持ちはそれほど湧き出てこない。穏やかな心のままのんびりと角を曲がる。ところが曲がった次の瞬間――思わず息を飲んで立ち止まってしまった。トンフィーの家の前に何者かが立っていたのだ。
「……おお! お帰りトンフィー!」
相手は気付いて、声を掛けながら走り寄って来た。一瞬あの女と間違えたが、そうではなかった。
それは隣に住むブラッドだった。人の良い笑顔を浮かべながらトンフィーの目の前までやって来る。
「今帰りか? 遅かったな」
「園に残って少し勉強していたんだ。――何か用?」
いつも、トンフィー達親子を心配して、用事がなくとも様子を見に来てくれたりするのだ。恐らく今日もそんなところだろうと思いながら、トンフィーは笑顔でブラッドを見上げた。
「うん……。今日はお前に用事があってな。ちょっといいか?」ニコニコと問いかけてくる。
「うん。――何?」
トンフィーが頷くと、ブラッドは背を向けて自分の家の方に向かってしまった。
わざわざ家の中で話すのだろうかと考え、トンフィーは首を傾げながら後を追う。一瞬、紙袋に目をやり、出来れば早く帰りたいのにな――と考える。一体何の用事かと少し不満に思いながら、ブラッドの後ろ姿に視線を移してふとある事に気付いた。
(珍しいな……)
普段ブラッドは、ジーンズのズボンに、白や水色などの明るい色のポロシャツから鍛冶仕事で鍛えられた腕をむき出しにしている――といったスタイルがほとんどなのだが、何故か今日は上から下まで真っ黒の服を着ていた。さっき一瞬トンフィーがあの女と間違えたのもそのせいだったのだ。あの女も、上から下まで黒ずくめの服をいつも着ている。
の見慣れない服を着たブラッドが、自らの家のドアを開けてにこやかにトンフィーを待ち構えている。
「……お邪魔します」
一瞬躊躇したが、トンフィーはブラッドの前を通り抜け、家の中へと足を踏み入れた。
「どうぞ――」
前を通る瞬間ブラッドがそう言った時、何だか、魚か何かが腐ったような匂いがした気がして、トンフィーは思わず顔をしかめた。ブラッドはドアを閉めて部屋の中央にあるテーブルの前の椅子に腰掛けた。
「座ってくれ」
言われて、仕方なくトンフィーも椅子に座る。
「何か飲み物でも出そうか?」
立ち上がりかけるブラッドをトンフィーは手で制した。「いや、大丈夫。それより用事って何?」
トンフィーは早く家に帰りたかった。プラムじいさんから貰ったサツマイモのタルトを持って、早くソフィーのところに行きたかった。
「ふむ……。お前――例の物は持って帰ってきたか?」
「例の物?」
トンフィーは、突然何の事かと首を傾げる。
「例の――手紙だよ」




