裏切り者 14
翌日、トンフィーはいつものように園へ行った。
夕べは結局寝ずに過ごした。ソフィーは生きてはいるものの、ずっと眠っていて目を覚まさなかった。今日はずっと傍にいて手を握っていたかったが、園を休む訳にはいかない事情があった。
「トンフィー! 今日もドッジボール行くでしょ?」
放課後、ニコニコとメルメルに聞かれて、トンフィーは困ったように頭を掻いた。
「今日は――ごめんね。母さんと、隣街の病院に行かなくちゃいけないから……」
トンフィーは声が上ずらないか心配だったが、意外にも普段と変わらぬ普通の声が出せた。
「ソフィー母さん、具合悪いの?」
メルメルは心配そうにトンフィーを見た。トンフィーは慌てて手を振る。
「そうじゃないよ。ほら、定期的にいつも行ってるでしょ? 薬を貰いに行くついでに、少し様子を見てもらうだけさ。母さんはいつもの通り元気さ」
「そっか。それじゃあ今日はワタシ、トンフィーの分もモリモリがんばるわ!」
メルメルは何も気付かずに、トンフィーに向かってガッツポーズをした。
「……うん。――頑張って」トンフィーはメルメルの笑顔を眩しそうに見つめた。
「じゃあねトンフィー! また明日ね!」
メルメルはウサギのアップリケのついた鞄を肩にかけて、勢いよく教室を駆け出して行った。トンフィーはしばらくその場に立ち尽くして動けずにいた。
「ニャ~ン」チリチリ音をさせてアケが足元にすり寄ってきた。そちらに目を落とすと、上目づかいで甘えるように見上げてくる。トンフィーはそんなアケを抱き抱えて、ゆっくりと歩き出した。
ミミとシバは、いつものようにプラムじいさんお手製のササミとレバーのクタクタ煮を食べて、食後の毛繕いをしていた。シバはお腹が一杯になってほんわりと眠くなってきている。ミミの方は窓から差し込む午後の日差しに、どうも散歩日和だと感じて立ち上がった。シバは、ミミがドアに向かって歩き出したのに気付いて、メルメルが最近用意してくれた二匹のお昼寝用ふかふかクッションを名残惜しそうに見ながら、ミミの後を追い駆けた。
「おや、お散歩かの?」二匹のお皿を片しながらプラムじいさんがニコニコ問いかける。
「ニャ~」ミミは一声鳴いて小さなドアをくぐり抜けた。
シバがミミの後を追って外に出ると、爽やかな風がフワ~ンと吹いて、お昼寝の事などすっかり忘れてしまった。シバはスキップするように走りだす。ところが、プラムじいさんの家の垣根を超えた所で突然ミミが立ち止まったから、シバはミミのお尻に鼻を、「ニャフン!」とぶつけてしまった。
ミミは尻尾を一振りして警戒するように通りの向こうを見ている。シバも同じようにしてそちらを見ると、小さな影がこちらに向かって来るのが見えた。チリチリと小さく鈴の音が聞こえて、ミミは先の方が白っぽい自らの耳をピクピクさせた。
「――ミミ、シバ……」
ミミとシバは、少年の呟いた声にようやく見た顔だと気付いた。メルメルがいつも連れてくる少年だ。
ミミは見慣れた顔を不思議そうに見上げた。いつもと雰囲気が違う。普段はメルメルと一緒でやたらと彼のまわりはキラキラと輝いているのに、今日はやけに暗くもやがかかっているようだ。
「おいで、ミミ、シバ」
しゃがみこんで手を伸ばしてきたが、ミミはふと体を捻りってその手を避けた。
「ミミ……」少年はなんだか傷ついたような顔をしている。
「ニャニャ~」シバは何にも気にせず少年の足にすり寄っている。それを見て、ミミも仕方なく体をすり寄らせた。
「久し振りだね、ミミにシバ。――おじいさんはいるかな?」
別に返事を期待する訳でもなく、少年はプラムじいさんの家のドアを見つめた。その瞳は何かを迷うように揺れている。
「ニャンニャン!」
「――あ!」
チリチリと首輪についた鈴を鳴らして、小さな三毛猫が少年の手から飛び出してきた。いつも少年はこの三毛猫を連れてくるので、ミミもシバも特に警戒はしなかった。
「――こら、アケ!」
少年は三毛猫を捕まえようとしたが、三毛猫は、「ニャンニャ~ン!」とピョンピョン跳ね回って捕まりそうにない。ミミはそんな三毛猫の様子をちらりと見て、くるりと向きを変えた。そうして、プラムじいさんの家の方へと戻って、大きなドアの中にある小さなドアをくぐり抜け、家の中へ入ってしまった。跳ね回る三毛猫に気を取られていたシバは、パタンという音を聞いて慌ててミミの後を追いかけた。すると、
「ニャン!」三毛猫もシバの後を追って走り出した。
「あ……アケ!」
パタン、と短い尻尾が小さなドアの向こうに消えて、少年は後戻り出来ない自分に気付いた。
「おや……? どうしたんじゃミミ?」
プラムじいさんが、小さな物音に気付いてリビングに出て来た。
「おやおや、シバまで戻ってきて。雨でも降ってきたかの? ――ありゃ? お前さんアケじゃないか……」
プラムじいさんは、シバの後ろから入ってきたアケを見て目を丸くしている。その時、
トン……トン……。
何となく、遠慮がちに小さくドアをノックする音が聞こえた。
「ほいよ!」
おそらくメルメルがトンフィーを連れて帰って来たのだと思いながら、プラムじいさんはドアを開けた。ドアの向こうには想像通り小さな少年が立っていた。
「こ、こんにちはおじいさん……」トンフィーはぺこりと頭を下げる。
「こんにちはトンピー君!」ニッコニコとプラムじいさんはトンフィーに笑いかけた。「随分と久し振りじゃが、元気にしておったかのう? ……おや?」
トンフィーの後ろにメルメルの姿が見えないので不思議そうに首を傾げる。しかし急にハッとした顔になってニヤリとした。「さては――」プラムじいさんは手を前に出し、腰を少し落として身構えた。
「今日は騙されんぞ~!」プラムじいさんはトンフィーにウィンクした。
――実は、以前同じようにトンフィーだけがドアの前に立っていた事があって、不思議に思ったプラムじいさんがキョロキョロと外に出た瞬間――ドアの横に隠れていたメルメルに「メルメルアタック」を食らった事があるのだ。
「出てくるんじゃ~、メルメル!」
「あ、あの! 今日は、僕、一人なんです。――あの、メルメルはまだ、ドッジボールをしてて――」
「――そうなのかい?」プラムじいさんは首を傾げながら、ゆっくり手を戻した。「……ふむ。まぁ、話は後にして、とりあえず中に入ってお座り。暑かったじゃろう。すごい汗じゃ。冷たい麦茶を出してやろうな」
トンフィーは慌ててハンカチを取り出す。プラムじいさんは麦茶を出しにとっととキッチンに行ってしまった。
外は別に暑いという程ではなかった。逆に、涼しげな風が程よく吹いているくらいだった。トンフィーは額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、リビングの椅子に腰掛けた。家の中は何だかほんわりと、甘い匂いに包まれていた。
「ほい、どうぞ」
プラムじいさんが、オレンジジュースの入ったコップをトンフィーの前に置いた。そして、
「どっこいしょ」と言いながら椅子に腰掛け、自分用に持ってきた麦茶をゴクリと飲んだ。
「ありがとう……。頂きます」トンフィーはチビチビとオレンジジュースに口をつけながら頭の中で用意してきた言葉をはんすうした。「あの、僕今日はおじいさんに勉強を教えてもらいたくて来たんだ」
「勉強? ……そりゃ困ったのう。わしが園に通ってたのなんてかれこれ五十――いや、サバよんじゃいかんな――六十年くらい前じゃからのう。トンピー君に教えてあげられるほど覚えているかどうか」
プラムじいさんは足元でじゃれている三匹の猫を眺めながら言った。アケは二匹と比べてかなり小ぶりで、仕草も幼く子猫のように見えるが、トンフィーが連れてくるようになって二、三年経つからこれでも大人なのだろう。
「いや、あの、勉強と言っても字の書き方を教えてもらいたくて」
「字?」




