裏切り者 13
「母さん……」トンフィーが心配そうに呟く。
「ごめんねぇ……トンフィー……」
布を裏返してソフィーの涙を拭いながら、トンフィーは必死で涙を堪えた。
「謝らないで。謝らないでよ、母さん……」
ソフィーは霞む目をトンフィーに向けた。瞳には映らなくても、息子の姿はしっかりと目の前に浮かび上がっていた。
「トンフィー、よく聞くんだよ」
手を伸ばし、ソフィーは息子の袖の辺りをしっかり掴んだ。その、思いの外強い力にトンフィーは驚いた。
「後の事は――ペッコリーナ先生に頼んであるから……」
「後の事って……」
ソフィーの言葉に、トンフィーは再び胸が高鳴って来るのを感じた。
「大丈夫。ペッコリーナ先生は三人も子供を育てた大ベテランだ。ドラッグノーグ先生のお喋りにはうんざりするかも知れないけれど――一緒に暮らしているうちに慣れるだろうし、賑やかな方が明るくていいじゃ――」
「ちょっと待ってよ母さん!」トンフィーは大声で叫び、ソフィーの話しを遮った。
ドク、ドク、ドク、ドク、と激しい心臓の音が耳元で聞こえている。
「何の話? 一緒に暮らすって、一体――」
トンフィーは先を知りたくなくて思わず逃げ出したいような気持ちになったが、ソフィーの手にしっかりと掴まれていて、それも出来そうにないのだ。
「遂に、お迎えが来たようなんだ」
まるで「おかえり」と言う時と変わらないような口調だった。だからトンフィーは、直ぐにはその意味がピンとこなかった。
「……え?」
「お父さんの所に行って来るよ。これからは、そこからお前を見つめているから寂しがらないでおくれ。――大丈夫さ、お前には、素敵な友達がいるし、ブラッドや、プラムじいさんや、ペッコリーナ先生や、他にもたくさんの人がお前を愛して、助けてくれるから。……泣かないでおくれ、トンフィー……」
ついにトンフィーは泣き出してしまった。母親の胸に顔をうずめる。
「ダメだよ。――大丈夫……。母さんは、まだ、大丈夫だよ……」
トンフィーは肩を震わせ、ソフィーのかけている布団を千切れんばかりに握り締めた。
「いいんだよトンフィー……。私は、お前に十分喜びや幸せを貰ったから。人より少し短めの人生だったかも知れないけれど、お前のおかげで人よりずっと充実した素晴らしい日々だったのだから」
ソフィーは、トンフィーの頭を優しく何度も撫でた。しかし、その手の感触さえ失われつつあった。
「嫌だ……嫌だよ……うぅ」
「トンフィー……。私はこの世から消えてしまうけれど、愛は――愛は残るんだよ……。私のお前に対する愛……父さんのお前に対する愛……。愛は、消え去る事はないんだ……」
気を抜くと手放してしまいそうになる意識と必死で戦いながら、何とか息子に語りかける。
「愛しているよトンフィー……。負けないでおくれ……」
「――僕が……母さんを、救うよ」
先程まで肩を震わせむせび泣いていたトンフィーが、突然、顔を上げた。
その目は虚ろで焦点が定まっていない。
ソフィーの霞んだ目ではその姿を捉えられないが、声の調子から息子の様子がおかしい事にはすぐに気付いた。
「トンフィー?」
「僕が救うよ。大丈夫――母さんは死なない」
ソフィーは切ない気持ちになった。
――まだ、こんなにも息子は幼いのだ。母親の死を受け入れる事さえ出来ずにいる。
「トンフィー……。いいんだよ、もう……。私は――」
「大丈夫! いい……良い方法が、あるんだ。僕が、僕が必ず――助けるよ」
フラリ、とトンフィーは立ち上がった。
「トンフィー」ソフィーはトンフィーの袖を掴む手に力を入れた。
「待ってて! 母さん……必ず、僕が助けるから!」
トンフィーはソフィーの手を振りほどき、背を向けて走り出した。
「トンフィー!」ソフィーは振りほどかれた手をそのまま空中に留めて、必死で息子を呼んだ。
「トンフィー! トンフィーーーー!」
トンフィーは勢い良くドアを開け、外に飛び出した。あまりに勢いが良すぎて転びそうになり、思わずたたらを踏んでしまう。後ろから母親が呼んでいる声がする。それを振り切るように慌てて走り出した。
「……出て来い」暗闇に向かって声を絞り出す。「いないのか。――出て来い!」
肩で息をしながらトンフィーは叫んだ。いつもの「あの曲がり角」に差しかかる。走る勢いを落とさずに角を曲がろうとして、足がもつれてしまった。
ズザザザザーと頭からスライディングしたような形で、トンフィーは転んでしまった。
そうして、そのまましばらく動かずにいる。
手の平や膝がジンジンとしたが、そんな事はどうでも良くなっていた。体の痛みなど心の痛みに比べればどうという事ないように思えたからだ。
――母さん……。
地面に顔をつけたまま、両手で土をぎゅっと掴んだ。大声で泣き出したくなるのをそうして耐える。
「――坊や」耳の奥で凍りつくような、そんな冷たい声が頭の上から降ってきた。
「どうしたんだい、坊や……」
――僕が助けてあげる。
トンフィーは顔を上げて目の前に立つ人物を見上げた。
「おや……。ずいぶん悲しそうな顔だねぇ」女はいつものようにニヤ~と笑った。
「母さんを……救ってよ」不幸な事は全てこの女の責任だと言うように女を睨み付ける。
「お安いご用さ」
女は再び、満足そうに――笑った。




